第3話

更なる情報を求めて、庭園を散策しているケイの背に、突然声がかかった。


「誰だ」


鋭い誰何の声に、思わず口元を綻ばせる。

低く響く艶のある声は、昨日、聞いた声だった。


「怪しい者め、その布を取れ」

「……仰せのままに」


ゆっくりと振り向き、膝をついて、スルリと薄衣を落とす。

突きつけられた剣先を前に欠片の恐れもせず、ケイはそのまま優雅に帝国で最上位の人間にしか許されないはずの跪拝の礼をとった。


「お前のその空気、ただの侍従ではあるまい。殺気は感じんが……違和感しかない」


冷静に観察する男の落ち着いた声に、ケイは顔を伏せたまま微笑みを浮かべた。


「さすが皇子殿下、私は侍従ではございませんが、貴方様を害する人間ではございません。どうかその剣を下ろして下さいませ」

「……それを私が、信じるとでも?」


鋭く眼を細めて睨みつける皇子の視線を背中に浴びながら、ケイは込み上げる笑いを抑えるのに必死だった。

廊下を行き来していた多くの人間は、離宮へ用を言いつけられた侍従にすぎないと気に留めていなかったのに、皇子は一目で違和感を感じたと言う。

おそらくは、自分の色気なんて、そんな生やさしいものではない。


面白い、と感じた。

この皇子は、容姿だけではなく、とてもとても面白い。

自分の存在を掬い取られるのは、思わぬ快感だった。


「顔を見せろ」

「御意に」


伏せていた顔を上げると、美しい黒の双眸が不可解そうに僅かに歪んだ。


「…………お前、異国人か。東方の肌をしているな」


なるほど、気にかかるのは、そこか。

意外な着眼点に、ケイはますます楽しくなった。


「ええ、ご明察の通り、私の体には異国の血が流れております。……東の人間は、お嫌いですか?」

「好きも嫌いもあるまい。ただ、怪しいだけだ。なぜこの灼熱の国に、お前のような人間がうろついている?しかも、外を歩くには適さんような、薄い衣しか纏わずに。……スルタンに招かれた客では、あるまい」

「……ふふ、お察しの良いことで」


ケイの顔を見て、幼さと妖艶さが同居する歪な美貌ではなく、ただこの暑い国に似合わない肌を持つ人間であるという一点に注目されたのは、初めてだった。


「私はこの帝国に『外から』招かれた人間ではありませんが、大きな問題はございません」

「……招かれず、この場所にいるはずがなかろう。そしてこの帝国で、余所者でありながら、この空間に入り込めるほどの立場の者であれば、私も知っているはずだ。……お前は、何者だ」


見極めようとするように夜色の目を細めてまっすぐに瞳を見据えてくる皇子に、惑わすように微笑んだ。


「けれども、あなた様がご存知なのは、表の情報だけでございますからね」


揶揄うようなケイの言葉に、黒い瞳がぶわりと鋭さを増した。


「……子飼いの、暗殺者だとでも?」

「ふふふっ、まさか!」


今度はそう来るか!


心底真っ当に生きてきた御仁らしい、とケイはむしろ感嘆した。

ケイが、スルタンの愛玩動物である可能性は、考えもつかないらしい。

普通なら、真っ先に思いつきそうなものなのに。


たいていの人間は、ケイが「誰の所有物か」を気にする。

ケイは一目見て、高貴な誰かに「飼われている」美しい動物だと、見做されることが常だったからだ。


「そんなに警戒なさらずとも、私の主人はあなたを害する必要はないお方でございますれば、たとえ私が凶手であっても、恐れる必要はございませんよ」

「誰がお前ごときを恐れるか」


しなる鞭のように鋭く言い放つ声の強さに、ケイはぞくぞくと背筋を震わせた。

それは、久しぶりの高揚感だった。


「もちろん、そうでございましょう。あなた様ほどの鍛え上げられた肉体を前に、私など赤子も同然」

「……この帝国の強靭な兵士たちを知りながら、嫌味としか思えんな」


兵士として奴隷市で買われた者たちを指す言葉に、嘲りを込めて、笑みを深める。


「彼らはそういう『いきもの』ですから。もはや、ヒトとは違う種なのですよ。比べる必要はございません」


闘いのために買われ、育てられた彼らは、闘いのために作られた魔物のようなものだ。


「……彼らを、人間とは見做さぬか」


随分と道徳的なことを抜かす皇子に、ケイはチリリと胸の底が焦げ付いた気がした。

買われたモノが、人間であるはずがないのに。


「ええ、当然でしょう」


若く綺麗な皇子が不快そうに顔を歪める様を見て、少し溜飲の下がる思いをする。

満足感に、こぼれるような笑みを浮かべながら、ケイは内心で首を傾げた。

苛立ちなど、自分が感じる必要はないのに、不思議なことではあった。


「ねぇ、お美しい皇子様。そんなことはどうでもよろしいでしょう。今は、わたくしの話でございます」

「あぁ、無論分かっている。そして、ここまで怪しい者を、捕らえないという選択肢は、私にはない」


強く言い切る皇子に、ケイはいっそ揶揄うように軽やかな声で告げた。


「おや、焦らずとも、遠からず私はあなたの元に参上致します。無論、丸腰で」


くすくすと笑って見せれば、探る目つきのまま皇子も薄く笑った。


「本気で、私がお前を見逃すとでも思っているのか?随分な自信だな」


その気になれば一瞬で頸動脈を裂かれるのだろうと思うほど、迷いなく喉元に突きつけられた刃に柔らかな吐息を寄せて、ケイは歌うように告げた。


「まぁ、首を切り裂いて頂く分にも、離宮の兵士に突き出して頂く分にも、全く構いませんが……そうなりますと、もしかするとあなた様の方が分が悪いかもしれません」

「なぜ?私は、自分の滞在している宮にいた、怪しい者を捕らえただけだ」


片眉を上げて不可解だと表明する皇子に、ケイは花のような笑みを零した。


「私は、王宮内のあらゆる場所への通行許可証を持っておりますので。この庭まででしたら、咎められることはないのです」

「…………なんだと?」


初めて驚愕を露にした皇子に、どこか恍惚に近い感覚を覚えながら、ケイは唇を綻ばせた。


「正規の手順を踏んで得た、スルタンの署名入りの証書でございますので、私を『理不尽に拘束』した者として、あなた様が捕らえられることも、ともすればあり得てしまいます」

「…………お前は、何者なのだ。まさか、あの老獪なスルタンを父と呼んではおらぬだろうな?だとしたら、とんだ隠し玉だ」


刃先には微塵の動揺も見せず、皇子は唸るように低く問うた。

ケイからすれば驚くほどの見当違いに、思わず肌のすれすれに停止する刃の存在も忘れて、吹き出してしまった。


「ふふふっ、スルタンを父とは、恐れ多すぎて震えてしまいそうです。まぁ、神を父と呼ぶ国もあると聞きますので、この帝国の父としてでしたら、父上とお呼びすることもあるかもしれませんが」

「意味のない会話はやめろ。……お前は何者か、それだけに答えろ」


愉快そうに流れるごとく言葉を繋ぐケイを苛立たしげに遮って、皇子は叩きつけるように迫った。

しかしケイは、答える選択肢を選ぶつもりはなかった。


「せっかちなことで……皇子様、名乗るのは、まだ早うございます」

「はぁ?」


理解できないと顔を歪め、表情全てで不快を表す皇子を意に介さず、ケイは刃を向けられた状態のまま、するりと立ち上がった。


「私を切っても構いませんが、その結果については責任はとれません。悪くすると、己を軽んじられたと、スルタンはお怒りになるかもしれませんが……」


それでも良ければ、お切りなさいませ。

そう囁いて無防備な白い首すじを晒すと、皇子は動揺したように刃先を引いた。


「……お前は、本当に死んでも良いと思っているようだな」


機微に聡い人間のようだ、と、ケイは笑みを深める。

別に死にたくはないけれど、死んだとしても構わないと、ケイはいつだって思っているのだから。


「さすが皇子様、よくお分かりで」

「……許可証を見せろ、とりあえずそれで納得しよう」


紛い物は看破してやるとばかりに目を細め、皇子はケイから刹那も目を逸らさない。

その視線の濃度に快感を覚えながら、ケイは頷き、首に掛けられた鎖をしゅるりと手繰った。


「ええ、簡易的なものではありますが、こちらでございます」


首すじに掛けられた赤い宝石と、それを縁取る金の細工、そして金属のプレートに刻まれたスルタンの御璽。


「……どんな恐ろしい価値の石を、首から下げているのだ、お前は」


呆れたようにため息をついて剣を収める皇子の冷静さに感嘆しつつ、ケイは微笑んだ。


「スルタンより、直々に下賜されたものにございます。とても美しいものでしょう?」

「あぁ、あぁ。そんな石を簡単にやれるのは、この世でスルタンぐらいだろう。まったく、そんな巨大な紅玉、見たこともないわ」


首を振ってため息をつく皇子に、ケイは満面の笑みを送った後、頭を下げて暇の礼をとった。


「ふふふっ、それでは皇子様、また」

「なにが、また、だ。二度と来るな」


ケイが攻撃をしてくる相手でないと判断したらしい皇子が興味をなくしたように歩き去ろうとする背中に、ケイは愉悦をにじませた声をふわりと送った。


「いえ。必ずや、再びお目見え致します。えぇ、……明日にでも」

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