エピローグ
◆
学校が終わって、私の足は自然と加茂神社へと向かっていた。
特に何か大きな変化のない毎日が続いてる。
お父さんとお母さんの仕事は、本当に一区切りがついたみたいだ。
お父さんは「これからはもっと里子と一緒の時間が取れるよ」って言ってたし、お母さんは「今までずっと寂しい思いさせてごめんね」って私にあやまった。
ずっと待っていたはずなのに、何だか現実感がなかった。
長いジグザグの階段を登り終えて、私は境内の野火桜を見上げた。
私がここに来たのは、桜係としての仕事があるから。
境内には相変わらず、誰も人がいない。
オオヒメちゃんを夢の中から連れ出したあの日。
気がつくと私は、今日みたいに誰もいない境内で、野火桜を見上げて立っていた。
ふらつきながら階段を下りて一番近くのコンビニに入ったとたん「いらっしゃいませー」って普通に店員さんに言われて、ようやく私は何もかもが元通りになったことを理解できた。
ほっとしたけれども、同時に何だかぽっかりと心の中に穴が空いてしまった感じ。
安部晴盟。
野火桜のせいで夢見になった私が、夢の中で作り出した登場人物。
私はずっと神隠しにあっていた。
きっと、普通の人が生きてる現実とちょっとだけずれた場所にいたような感じかな。
だから、私には晴盟さんだけじゃなくて、寅吉や忍君のような不思議な存在を見ることができていた。
でも、私の夢は本当の夢見だったオオヒメちゃんの夢と混じり合い、オオヒメちゃんを深く眠らせてしまった。
そして、オオヒメちゃんを夢から連れ出したとき、私は目を覚ましちゃった。
何もかもきちんと丸く収まったんだろう。
だって、夢はいつか必ず覚めるんだから。
野火桜。
この木はいったいなんだったのかな。
私と晴盟さんを結びつけた、現実と夢の境目に咲く不思議なサクラ。
このサクラの下に、いつも晴盟さんはいた。
今の八百古里市に、あの言葉が伝わっているのかどうか、私は知らない。というより、知りたくなかった。
お父さんかお母さんに聞けば、きっと答えてくれるはず。だから私は聞かなかった。
きっと、私しか晴盟さんを知らないはずだ。
きっと、この言葉は私の夢に置いてきてしまったんだ。
その事実を突きつけられたくなくて、私はそれ以上知りたくなかった。
でも、そっと私はつぶやいた。
「――せいめい様にお頼み申しあげます」
答えなんか期待していなかったのに。
私の後ろから、聞き慣れた男の人の声がした。
「――何をだ?」
私は振り返った。
いつからそこにいたんだろう。
本殿の階段に、晴盟さんが座っていた。
いつもとまったく変わらない、烏帽子と狩衣姿。手には扇。いつも通りの、のんびりした優しそうな顔。
「……ど、どうして?」
「『
晴盟さんは立ち上がって、私に近づく。
「中国の荘子という人物が、ある時蝶になった夢を見た。蝶になった時、彼は荘子であることを忘れていた。そして目を覚ませば、自分は蝶ではなく人であった。果たして人が蝶となった夢を見たのか、それとも蝶が今人となった夢を見ているのか。この自分と他が混じり合う境地を、胡蝶の夢というのじゃ」
晴盟さんはそう言うけど、私は首を傾げる。
「ちょっと待って。どう考えてもその人が蝶になった夢を見ただけじゃない。蝶が人間の夢を見ているはずがないよ」
「なぜじゃ?」
「蝶が夢を見るなんて聞いたことがないから」
私がはっきり言うと、晴盟さんは少しだけ不満そうな顔になっちゃった。
「……里子よ、いささかそれは無粋だぞ。これはまあ、ものの例えじゃ」
晴盟さんはそう言ってそ知らぬ顔をしてるけど、私はごまかされない。
「そんなことより――なんで晴盟さんがここにいるの? だって……」
「だって?」
「私、目を覚ましたはずだよ。神隠しは終わったんだよね? まさか、まだ私、神隠しの途中なの?」
「いや。里子は確かに目覚めた。神隠しは終わったぞ」
晴盟さんははっきりそう言う。
そこはごまかしたりしないのはよかったよ。今もまだ私が神隠しのままだったら、不安でお父さんとお母さんと一緒に暮らすなんてできない。
私が目を覚ましたことだけは確かみたいで、私は少しだけほっとする。
「ならなんで……」
だったらなんで、夢の中の登場人物だった晴盟さんがここにいるんだろう。
「だから胡蝶の夢なのじゃ。里子よ、深き夢の境地では、もはや夢見る者と夢見られる者の境目などない」
扇を広げて、晴盟さんは口元を隠す。きっと笑っているんだろう。
「つまり、今までは里子が私の夢を見ていた。そして今は――私が里子の夢を見ている。そういうことじゃ」
めちゃくちゃな理屈だと思うよ、それ。
私の夢の中の登場人物だった晴盟さんが、今度は私を自分の夢の中の登場人物にしてる。
前に導満君がアシダカさんに言ってた「卵が先かニワトリが先か」って言葉を思い出す。本当にそれ。
ニワトリが卵の夢を見ていて、卵がニワトリの夢を見ている。どちらが先かなんて、意味がない。
「じゃ、じゃあ、もしかして晴盟さんだけじゃなくて……」
「そうだ。物わかりが悪いぞ」
野火桜の木の陰から、キツネの耳としっぽを生やした男の子が姿を現した。
「忍君?」
「僕だけじゃない。こいつもいるぞ」
忍君が下を見ると、寅吉が忍君の足にすりすりと体を擦りつけながら出てきた。
「ニャン。僕は高級猫缶を買ってもらえる約束を忘れてないですからね」
「ネコのしつこさを甘く見てはいかんなあ、小童。さっさと買ってやらないといつまでもつきまとわれるぞ」
声の方向を見ると、いつの間にか本殿の階段に導満君が座って、私の方をにやにやと笑いながら見ている。
「みんな……いたんだ」
夢と現実が地続きだった。
でもそれは、今が現実なのか夢なのか分からない気持ち悪さなんて少しもない。
あの時晴盟さんたちと過ごした日々が、嘘じゃなくて本当だと分かったからすごく嬉しかった。
「おい、俺の妹との約束も忘れてもらっては困るぞ」
鳥居をくぐって私たちの方に近づいてくる姿は、見間違えようがない。
「アシダカさん……それに」
大柄なアシダカさんの隣に立つのは、裾の長い赤い着物じゃなくて、おしゃれな洋服を着た、人形みたいにかわいいオオヒメちゃんだった。
「……お帰り、里子ちゃん」
「オオヒメちゃんも……来てくれたんだね」
私はオオヒメちゃんに駆け寄る。
手を伸ばすと、オオヒメちゃんはそっと両手で私の手を握ってくれる。
「お日様の下で会えたね、里子ちゃん」
「うん! そうだね! やっと会えたよ!」
私はオオヒメちゃんの手を握りしめる。
私がひとりぼっちじゃなくなったように、オオヒメちゃんももう夢の中でひとりぼっちじゃない。
元気なオオヒメちゃんをはっきり見ることができて、本当に嬉しかった。
「さて、では再会を祝しがてら、私は行ってみたいところがある」
そんな、夢の中でしか会えなかった私たちが現実で会えて喜んでいるところに、ずかずかと晴盟さんがやってくる。
「行ってみたいところ?」
「私はカレーライスが食べてみたいのだ。香辛料をふんだんに用いた辛い汁を飯にかけて食べるのだろう? 実に趣きがあるではないか」
……もしかすると晴盟さんのリクエストは図書館の近くにあるインドカレーショップじゃないかな。
あそこのカレー、ちょっと辛すぎて私はきついんだけど。って言うか、また私におごらせる気?
これじゃ私の財布が空っぽになっちゃうけど……まあ、今日くらいはいいかな。
「晴盟さん、もう神隠しの代金は払ったんじゃないの?」
「それとこれとは別じゃ。私としても、里子と再び会えたことは実にめでたいからな。これからもよろしく頼むぞ」
「本当? また、ここに来ていいの?」
だって私は現実の人間で、晴盟さんたちは夢の世界の人たちっぽい。
たまたま私は神隠しで晴盟さんたちと会えたけど、こうやって再会できるなんて思ってなかったよ。
おまけに「これからもよろしく頼む」なんて言われるなんて。
「夢の終わりは新たなる夢の始まりじゃ。お前は一生に一度しか夢を見ないわけではあるまい。元より、現実とはすなわち誰かの見る夢。手堅く現実のみを見て生きよ、などという説教に耳を傾ける必要もあるまい」
晴盟さんは扇を口元に当てて笑う。
そうだったよね。私はオオマガツヒ様の見ている夢の中にいた。
もしかすると、今この現実だって、オオマガツヒ様の見ている別の夢なのかもしれない。
夢が重なって重なって重なって、覚めてもまた次の夢の中。
現実と夢をしっかり分けて考えるんじゃなくて、現実と夢をうまく釣り合いをとってやっていくのが一番かもしれないよね!
「ありがとう――晴盟さん。帰ってきてくれて」
私は、私の夢――あるいは現実――に帰ってきてくれた晴盟さんにそっとお礼を言う。
みんなと連れだって階段を下りながら、晴盟さんは私に囁いた。
「里子よ。むしろお前が帰ってきたのだ」
「本当に、どっちがどっちだか分からないんだね」
私の正直な感想に、晴盟さんはもっともらしくうなずいた。
もうしばらく、あるいはこれからもずっと、この不思議な人たちと私の付き合いは続きそう。
お父さんとお母さんのいる現実と、晴盟さんのいる夢。そのどっちも大切だし、そのどっちも、今の私を作り上げてくれた大事な存在なんだから。
晴盟さんの言葉が、まるで落語の最後のオチみたいにその場に響いた。
「これをすなわち――――『持ちつ持たれつ』と言う」
[おわり]
せいめい様にお頼み申す 高田正人 @Snakecharmer
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