第4話
◆
「里子よ、妖怪変化というものはこの世にはいないぞ」
「いきなり何言い出すの? 晴盟さん」
少し前のことだけど、こんなことがあった。
私が学校の図書室で借りた『日本の妖怪大全』を神社で読んでいると、晴盟さんが隣に座ってのぞき込んできた。
「そのような書物に書かれたことを安易に信じるな、と言っておる」
妖怪変化そのものみたいな晴盟さんがそんなことを言っても、説得力がないですけど?
「ほら、ここ見てよ。『平安時代最強の陰陽師、安倍晴明』って書いてあるよ。安倍晴明はキツネと人間の間に生まれた子供だって言われてたんだって。本当なの?」
私は本の見出しを指差してみた。
「そんなことあるわけがなかろう。見よ。この晴盟、あの葛城忍と違ってキツネの耳もなければ尾もないぞ」
「隠しているだけとか?」
「やれやれ。疑い深い子じゃ。もっとも、私は安部晴盟であって、その本に書かれている安倍晴明殿がキツネの子であったかどうかまでは、実は知らぬ」
「いい加減だなあ……」
毎回のことだけど、この人は平安時代の陰陽師の安倍晴明なんだか、それとも安倍晴明を名乗るそっくりさんなのかはっきりしない。
どっちでもいいみたいな感じだから、私は一応安倍晴明のそっくりさんとして扱ってるけどね。
たまに本物じゃないかと思うこともあってこうやって聞いてみる。
結果はいつも通り。やっぱりのらりくらりとはぐらかされるだけだよ。
「こっちには『安倍晴明と蘆屋道満の対決』だって。イラストもあるよ」
私が見せたイラストを眺めて、晴盟さんは満足げに目を細める。
「ふふふ、里子が見せた安倍晴明の似姿はどれもこれも美麗に描かれていて実によい。一方で蘆屋道満は……ううむ、いささか凶悪すぎないだろうか?」
イラストでは、今の晴盟さんみたいな烏帽子と狩衣を着た美形の安倍晴明と、ひげ面でいかにも悪人っぽい顔をした蘆屋道満がにらみ合っている。
自分が格好良く描かれているから満足するなんて、晴盟さんはちょっとナルシストだなあ。
「それよりも里子、私が妖怪変化などはないと言っているのは本当だぞ」
「晴盟さんそのものが妖怪っぽいのにそんなこと言っても説得力ないよ」
だいたい、こんな格好の人がここにいることがおかしいよね。
私以外には見えないと思ったら、平然とお店に行ったら注文しているし。安倍晴明の幽霊なのかと思ったら普通に飲み食いできるし。
本当にわけが分からないよ。
「じゃあ五郎丸や多聞丸は? あの人たち人間に化けるタヌキだよ。寅吉はしゃべるネコだし、忍君は人間に化けるキツネだし。全部妖怪じゃない?」
「妖怪とは人の恐れを形にしたものじゃ。本当は存在しない。一方で五郎丸も多聞丸も、寅吉も忍も確かに存在する。無論この晴盟もあの導満殿もここにいる。我々は里子の目から見れば確かに不思議かもしれないが、言わば
「ふ~ん。だから何? 私から見れば、晴盟さんが妖怪でもそうじゃなくても、へんてこで不思議な人であることには変わらないけど?」
私が正直に言うと、晴盟さんは優しくほほ笑んだ。
この人はいつも私がきついことを言っても、余裕で笑みを浮かべてる。
バカにされているような、全部を受け入れてもらえているような、うまく言えない感覚がするなあ。
「つまり、不思議があってもそれをありのまま受け入れよ。恐れるな。何かあったならばこう言えばよい。『せいめい様にお頼み申す』とな。この晴盟が手を貸してやろう」
「……ありがと。いちおう、覚えておくから」
私はちょっと照れくさかったから、わざとそっけなく答えた。
――そんなことがあったのを、私はなぜか思い出していた。
◆
「夢見、待て」
加茂神社の野火桜。その根元にぽっかりと空いた黒い穴をのぞき込んでいると、それまであまり話しかけてこなかったアシダカさんが私に近づいてきた。
「私は夢見じゃないよ」
会ったときに自己紹介したのに、名前で呼ばないのは失礼だよね。
「そうか――待て、花山里子」
改めてアシダカさんは私を名前で呼んでくれた。だから私はそっちを向く。
「なんの用?」
「お前は何も知らずに危険な場所に入ろうとしている。安倍晴明にそそのかされているぞ」
アシダカさんは不機嫌そうな顔で腕組みをする。
「そんなことないけど?」
アシダカさんは、晴盟さんに一度オオヒメちゃんを助けてもらおうとして断られていたよね。
晴盟さんは「私とツチグモにつながりを持たせたくなかった」って言っていたけど、私が見ていたから断ったのかな。
晴盟さんはオオヒメちゃんの件と私を近づけさせたくないみたい。
アシダカさんからすれば、晴盟さんがうさん臭くて気に入らないのも分かるよ。
だから、もしかしたら私が晴盟さんに利用されているって思っているのかもしれない。
「俺はお前をだましてまで、妹を助けてもらおうとは思わん。筋道立てて真実を教えるつもりだ」
アシダカさんは私の隣に並ぶと、黒々と広がった裂け目をのぞき込む。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。その裂け目の向こうから、何かが私たちを見ているような気がした。ものすごく大きな何かが。
「――オオマガツヒとは、お前たち人間は知らないだろうが、俺たちすべての存在の源だ。数多くの幸いであり、災いでもある」
アシダカさんの口調は、恐がってるけど尊敬しているみたいな不思議な感じだった。まるで、丁寧に参拝しないと
「良い神様だけど、悪い神様でもあるってこと?」
「古い言葉では『荒ぶる』という。オオマガツヒはこの世という夢を見る。夢に良い夢があれば、悪い夢もあるだろう。それと同じだ。どちらか一方ではない」
なんとなく言っていることが分かるかな。
私たちはどんな夢を見るかは選べないよね。楽しい夢も、嫌な夢も夢は夢。
きっとそのオオマガツヒは、夢そのものなのかも。
「あの黒い影は悪性といい。オオマガツヒの悪い夢からあふれ出してきたものだ。我々ツチグモは代々あれが害をなさないよう、オオマガツヒを
「それが――夢見?」
「そうだ。自分も深く眠り、オロチの夢に入り、オロチをなだめるのが夢見の役目。自分の夢に悪性を封じるのだ。」
アシダカさんは大まじめな顔でうなずく。
普通に朝起きて、仕度して、学校に行って、授業を受けて、帰ってきて、宿題をして遊んで遅くなったら寝る。
そんな毎日を過ごしていたら、絶対に聞くことの無いような言葉がぽんぽん出てきて現実感がない。
私だけ、物語の中に迷い込んでしまったみたいな感じだ。でも、不思議と違和感がないんだ。
きっと、これもまた夢の中なのかも。夢を見ているとき、自分が夢の中にいることに気付かないのと同じだよね。
「だが、この夢は明らかにおかしい。オオヒメは夢に囚われ、目を覚まさなくなった。眠るのが役目とはいえ、こんなに長い間目を覚まさないのは異常だ。だから俺はこの神社にいるという安倍晴明に知恵を借りようとしたのだが……」
「断られちゃったんだよね。本当に晴盟さん、肝心な時に役に立たないんだから」
私は振り返って晴盟さんの方を見る。
「里子よ、過ぎたことをあまり蒸し返すでない」
晴盟さんは申し訳なさそうな顔をしているけど、絶対あれは取りつくろってるだけ。
私には分かる。後ろを向いて舌を出していてもおかしくない。
「つまり、この件はお前とは関係がない。それでもなお、お前はもう一人の夢見として妹のところに行こうというのか?」
アシダカさんは私の方をじっと見つめる。
アシダカさんとしては、妹のオオヒメちゃんを助けたいと思っている。だから、私がオオヒメちゃんの目を覚ますことができるなら、ぜひそうしてもらいたいはず。
でも、あえてアシダカさんは私は関係がない人間だって言ってきた。
もし私が「こんなのできないよ。私は関係ないから」って言ったら、大人しく引き下がると思う。
この人は本当に真面目な人だなあ。
「うん、そうだよ」
でも、私は引き下がらない。
夢の中なら普段できないことができるみたいに、私はなぜかあんまり怖くない。
「安倍晴明が望むからか?」
「違うよ。オオヒメちゃんを助けたいから」
「なぜだ? なぜそこまで――」
さらに聞いてくるアシダカさんに、私はちょっとだけむっとした。
「しつこいなあ。女の子は、多分こうするのが一番だって思ったら、カンでそうしちゃうの。男の人みたいに理屈ばっかり言ってたら、いつまで経っても何もできないよ」
私の言葉に、アシダカさんはあんぐりと口を開けていた。
驚き呆れる、っていうのはきっとこういう顔なんだろう、って納得してしまうような顔だった。
「……その……もしかして、安倍晴明に恩があるのか?」
かなり長い間黙ってから、アシダカさんは首を傾げながら私に聞く。
「逆だよ。いつもおごってば~っかり。私小学生なのに、ひどいでしょ?」
晴盟さんと出会ってから、私の財布はすっかり軽くなっちゃった。しょっちゅうおごってばかりいるせいだよ。
はっきりそう言ってあげると、アシダカさんは改めて晴盟さんを見てから、もう一度私を見る。
「――開いた口が塞がらん」
その口調。まるで最新の機械を見て、使い方が全然分からないで困っているお年寄りそっくりだったなあ。
◆
「里子よ。改めて聞くが、お前はオオヒメの目を覚まさせたいと願うのか?」
「うん、そうだよ」
私の隣に晴盟さんが立つ。
「それは憐れみからか?」
「違うよ。私はひとりぼっちの辛さを知ってるから。私のできることがあるなら、そうしたいだけ」
私は同じことを繰り返す。
晴盟さんは、私の気持ちを改めて確認しているみたい。
どうしてこう、男の人って面倒臭いんだろう。
今さら、私が「やっぱり帰る」って言い出すと思っているのかな。だから私はさっさと切り札を使う。
「せいめい様にお願い申し上げます。私に手を貸して下さい」
ほかでもない晴盟さんが、これを言ったんだよね。
覚えてる?
私がそう言うと、晴盟さんは少し呆れたような顔になった。けれども、すぐにうなずく。
「あい分かった。この晴盟、約束は
扇を開き、晴盟さんは黒い穴をのぞき込む。
「これは夢見るものの
晴盟さんが扇で神社と黒い穴の境目を仰ぐと、そこのもやが晴れていく。
見えてきたのは下りの階段だ。石じゃなくて、木でできている。なんとなく、オオヒメちゃんがいた家の造りとよく似ている。
よかった。この穴の中に不思議の国のアリスみたいに飛び込まなくちゃいけないのかと思っていたから、階段で下りていけるのはすごく助かるよ。
「うん、分かった。そうするね」
私が階段に足を乗せたのと同時に、晴盟さんは私を制した。
「待て、里子」
「何? まだあるの?」
「なぜ、オオヒメとお前は夢を共有できると思う?」
私は横を向くと、晴盟さんは大まじめな顔で私を見ている。
「それは、オオヒメちゃんの夢が私の夢を――」
私は、最後にオオヒメちゃんが言った言葉を思い出した。
オオヒメちゃんは「私の夢が、あなたの夢を呑み込んでいく――」と言ってた。
私を夢で見ていたオオヒメちゃんに影響されて、私はオオヒメちゃんの夢に引きずり込まれたんじゃないかな?
だから、私はお父さんやお母さんや普通の人から切り離されて、晴盟さんや寅吉みたいなのがいる不思議な世界に引っ張り込まれたんだと思う。
「違う。その逆じゃ」
でも、晴盟さんははっきりとそう告げた。
「里子よ。これはお前の神隠しと関連がある。お前がオオヒメの夢を見ているのだ。すなわち――」
晴盟さんはなぜか、少しためらいながら続ける。
「オオヒメの目が覚めるのであれば、恐らくお前もまた目を覚ますであろう」
◆
空気が生温かい。
じっとり湿っていて、嫌な感じで気温が高い。梅雨の嫌な天気どころじゃない不快な感じ。
まるで、ものすごく大きな生物の体の中にいるみたい。
クモの巣があちこちに張られた廊下。でもクモはどこにもいない。
ぼそぼそと誰かが何かをささやいているみたいな音がずっと聞こえる。長い長いため息のような音が響くたびに、足元がぐらぐらと揺れる。
何度も夢で招かれたオオヒメちゃんのいるお屋敷は、今どんなお化け屋敷よりも不気味で暗くて気持ち悪い場所になっていた。
私はそこを一人で走る。
野火桜の下に空いた穴と、そこからさらに下に伸びる階段。私はそこを降りていたはず。
でも、いつの間にか気がつくとこの家の中にいた。
ところどころ明かりが消えていて真っ暗になっていて、何度か家具にぶつかりそうになる。
靴を履いたままで家の中を走るのは失礼だけど、今日は許して欲しいな。
廊下がどこまで続いているのか分からない。何度もこっちでいいのか迷った。でも、カンで少しずつ目標まで近づいているのが分かる。
「――ここだ」
私は行き止まりで足を止めた。ふすまを開ける前に、深呼吸。そして――
「オオヒメちゃん! オオヒメちゃん!」
私の大声に、ふすまの向こうからものすごくびっくりした気配が伝わってきた。
「里子ちゃん!?」
「やっぱりここにいたんだ!」
私は力いっぱいふすまを開けた。
そこには明かりに照らされて、オオヒメちゃんが一人で布団に座っていた。いつもの赤い着物を着て、枕元には百人一首の札が散らばっている。
「……どうしてここに!?」
「ええとね、朝起きたらいきなり――って、そんなことは後でいいよ。とにかく、一緒に来て! 目を覚まそう!」
私はずかずかと近づくと、勢いをつけて手を差し出す。
ぽかんとした顔で、オオヒメちゃんは私と私の差し出した手を見比べている。
「私――いいの? ここから出られるの?」
「うん! お兄さんが待ってる。だから起きよう!」
私だけの望みでここに来たわけじゃない。オオヒメちゃんのお兄さん、アシダカさんが妹を助けたがっている。そのこともすごく大事なはずだ。
オオヒメちゃんは、申し訳なさそうに下を向いてしまう。
「ごめん、私のせいでここまで来ることになって」
「ううん、もしかすると私のせいでオオヒメちゃんが眠ることになったのかもしれないから」
「え?」
「難しいことはよく分かんない。誰が誰の夢を見ていて、誰が誰の夢の中にいるのかも全部めちゃくちゃ。でも、これだけははっきり言えるよ」
思えば、晴盟さんと一緒に喋るネコの寅吉と出会ったときから、ううん、晴盟さんと出会ったときから、私はずっと夢の中にいるのかもしれない。
それとも、私はオオヒメちゃんの見る夢の中にいるだけのなのかもしれない。
何を信じていいのか全然分からないよ。だから、一つだけ胸を張って言えることを私はオオヒメちゃんに告げるんだ。
「オオヒメちゃん。あなたと、目が覚めているときも友だちでいたいな。夜寝てるときだけ会えるなんて少し寂しいよ。ダメかな?」
これだけは本当だって言える、私の本音だよ。
このはかなくて物静かな女の子と、私はもっと仲良くなりたかったんだ。
家の中でできる遊びだけじゃなくて、外でできる遊びもしてみたいんだ。
オオヒメちゃんは、私の言葉にほほ笑んでくれる。
「ううん――私も、里子ちゃんと起きているときに会いたい。友だちになりたいよ」
「じゃあ、来て」
オオヒメちゃんが手を伸ばして、差し出した私の手を握りしめてくれた。
「うん――私を、つれてって」
引っ張って立ち上がらせたオオヒメちゃんの体は、長い間病気だったみたいに、細くてすごく軽かった。
◆
「うわっ! なにこれ!?」
オオヒメちゃんを連れて部屋から出たとたん、足元が地震でも起きたみたいにぐらりと揺れた。
転びそうになったけど、オオヒメちゃんをかばいながら私は壁に手をつく。
「夢が……歪んでる。オオマガツヒ様の夢が、あふれそうになっているのかもしれない」
オオヒメちゃんがそう言うのと同時に、廊下の空間がめきめきと音を立てて裂けた。
今日何度もくぐった、八百古里市のあちこちに空いた黒い裂け目みたいなものが広がっていく。
いくらなんでも、あそこを通って向こうに行くのは嫌。
「ど、どうしよう――ええいっ!」
思いきって、私は目をつぶって大きくジャンプした。なんとか飛び越えられる。
「オオヒメちゃんも跳んで! ジャンプ!」
「わ、私、こんな格好だし……」
オオヒメちゃんがためらうのも仕方ないって思う。だって、オオヒメちゃんは着物姿だから。
着物でジャンプするなんてものすごく難しいよね。
「大丈夫、私が受け止めるから! 私をクッションか布団だと思って! ほら早く!」
私が両手を広げると、オオヒメちゃんは覚悟を決めたのか、助走をつけて目をつぶって思いっきりジャンプした。
私も覚悟を決めて、ぶつかってくるオオヒメちゃんを受け止める。
なるべくオオヒメちゃんが怪我をしないように、廊下に一緒になって転がった。
「ご、ごめんね!」
「全然大丈夫! 上手だったよ!」
私は手を引いてオオヒメちゃんを立ち上がらせると、手をつないだまま一緒に走り始める。体のあちこちが痛いけど、ちっとも気にならない。
「も、もしかして……私が起きようとしているからかな? オオマガツヒ様が、怒っておられるのかな?」
あっという間に息を切らすオオヒメちゃんが、私の後で不安そうな声で言う。
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないでしょ! 今はとにかく、晴盟さんの言う通りにしよう!」
「え? 晴盟って……どちら様?」
「安部晴盟っていう陰陽師の安倍晴明のそっくりさん」
「え? ええっ? 安倍晴明? なんで?」
「ええとそれはなんかよく分かんないけど神社にいていつも私におごらせていてしかも蘆谷導満君までいてそれでそれで……」
「え? え?」
完全に混乱しているオオヒメちゃん。
左右にずらりと障子が並んだ廊下を駆け抜けようとしたとき、その障子が一斉に破れた。そこから姿を現したのは、アシダカさんが悪性と呼んだあの気持ち悪い人影。
「やだやだ! 邪魔するのこいつら!?」
ゆらゆらと悪性は私たちの方に向かってくる。どうやってオオヒメちゃんをかばいながらすり抜けようか、と私が考えた時、オオヒメちゃんが私の前に立った。
「あなたたちは夢の中から出さないわ」
オオヒメちゃんの手が振られると、細い糸が指先から伸びて悪性に絡みつく。糸は悪性と天井の
「すごい……」
「私、ツチグモだから。糸を繰るのは得意なんだ」
オオヒメちゃんは私の方を向いて得意そうな顔をする。
特撮とかの敵キャラみたいだとちょっと思ったけど、失礼なので言わないでおいた。当然だよね。
「里子ちゃんが入ってきたところを探そう。きっとまた――」
オオヒメちゃんの言葉と同時に、縛られた悪性を無視して別の悪性が障子の向こう側から姿を現そうとしているのが見えた。
「分かった。もう少し走ろう!」
私がうなずいたときだった。
「そこにいたのか! 人間!」
廊下の向こう側から、大声と共に大きなキツネが走ってきた。
本当に大きい。動物園で見たライオンよりも大きいんじゃないかな。
わずかに全身が光っていて、何だか神秘的な雰囲気がある。
私たちのところで大きなキツネは立ち止まると、こっちを見る。
「え……忍君?」
キツネの声には聞き覚えがあった。
以前晴盟さんのところに相談に来たキツネの男の子、葛城忍君の声だよ!
「ふん。よく分かったな、人間」
キツネ――じゃなくて忍君は相変わらず私にはそっけないなあ。
「晴盟さんが呼んだの?」
「安倍晴明に頭を下げて頼まれたら嫌とは言えないだろう。お前のせいで僕は今日お茶の
忍君はきっと本当の姿だと思うキツネの姿に戻っても、雰囲気は全然人間の時と変わらないなあ。
「まったく、なんでただの人間がオオマガツヒ様の夢に一人で飛び込むんだ? バカなんだな、そうだな?」
私が何か言い返そうとしたとき、オオヒメちゃんが私をかばった。
「里子ちゃんを馬鹿にしないで下さい、葛城の息子さん」
「も、申し訳ありませんっ」
オオヒメちゃんがそう言ったとたん、忍君は手の平を返した。
しっぽを垂らして、耳を伏せてものすごい早さであやまるのを見て私は呆れちゃった。
「うわあ……いきなりぺこぺこして格好悪い」
「うるさい! この方はツチグモの一族の姫様だぞ! この礼儀知らず! って言うか、さっさと乗れ!」
そう言われて、私は忍君の背中にまたがった。忍君はオオヒメちゃんには丁寧に言う。
「――どうぞお乗り下さい」
私はあまりの態度の違いに、思わずじっとりとした目で忍君を見ちゃう。
「そんな目で見るな!」
すぐに忍君は気付いて叫ぶ。
でも、忍君はここまで来てくれた。しかも、本人が言うには、茶道の稽古をサボって来てくれたんだ。そのことは感謝しないとね。
「ありがとう、忍君」
私がそう言うと、忍君はぶんぶんと首を振った。
まるで、顔にクモの巣がくっついてうっとうしいから振り払うみたいな仕草だなあ。
「――お、お前のおかげでお母様と仲直りできたからな。借りを返すだけだ」
なんだか素直じゃない答えだったけど、私は少し嬉しくなった。
「行くぞ、捕まってろ! 姫様は案内をお願いいたします!」
忍君が走り出す。
私は忍君のつやつやの毛を握りしめ、オオヒメちゃんは指からの糸を忍君の胴体に巻き付けた。
◆
忍君が廊下を走る。どこまでも同じような光景が続く。
でもオオヒメちゃんには分かるらしく、忍君に行き先を教えている。
さっきから地鳴りが止まらない。建物そのものが崩れるんじゃないかと思うくらい揺れている。
まるで、朝が近づいてきて、少しずつ夢から覚めていく時みたいだ。
この建物の外は、もう夜明けなんだろうか。
「追いついてくる! もっと速く走って、忍君!」
忍君が走り始めた時から、悪性の動きが変わった。
私たちだけの時はゆらゆらとさ迷うような動きだったのに、まるで忍君のスピードに合わせるかのように、ゴキブリのような気持ち悪い動きで追いかけてくる。
「僕に命令するな!」
忍君はいつものように叫ぶ。
けれども、今回はそれだけじゃなかった。
「ああもう。おい人間、僕のしっぽの毛を抜いて投げろ!」
「えっ!?」
「いいからやれ! 何かあいつらを邪魔するものを思い浮かべながら投げるんだ!」
言ってることがよく分からないよ。
でも、西遊記の孫悟空が、自分の毛を抜いて沢山の分身を作った話を思い出した。そんな感じかな。
私の日常とはかけ離れた話だけど、これは夢の中なんだからそういうことだってできるに違いない。
私は気合いを入れて、忍君の毛を掴んで思いっきり引っ張った。
ぶちぶちっ、と音を立てて毛が抜ける。
「痛ぁっ!? 抜きすぎだバカバカバカ! この下手くそ!」
忍君が叫ぶ。
ごめん! 本当にごめんなさい!
ちょっと気合いを入れすぎた。
邪魔するもの、と言われても思いつかないけど、とにかくがむしゃらに私はその毛を後ろに放り投げる。
けれども、忍君の毛はたちまち床に落ちるのと同時に、沢山のタケノコに変化した。
ものすごい勢いでそれは竹林になり、私たちを追いかける悪性の行く手を阻んでくれる。
「良くやった! 上出来だぞ人間!」
一応忍君がほめてくれた。
これで少し追っ手が減ったけど、たちまち別の悪性が天井やふすまの隙間からずるずると出てくる。
厚さのない影のように姿を現したと思ったら、すぐにそれはふくれ上がって私たちを追ってきた。
本当に気持ち悪い。
「また来たぞ。もう一回やれ!」
忍君がそう言うけど、微妙に声が震えているのが分かる。
「痛いよ?」
「が、我慢する!」
その覚悟に私も応えて、慎重に少しだけ毛を抜いた。
今度は、忍君が痛がって叫ぶことはなかった。
もう一度投げると、今度はその毛はものすごい大きな沢山のリンゴになって、悪性を巻き込んで廊下の向こうまでごろごろと勝手に転がっていく。
「――黄泉の国から逃げるイザナギノミコトみたい」
それまで必死になって糸を使って忍君にしがみついていたオオヒメちゃんが、感動した感じでつぶやいた。
「神話を再現できるとは光栄です、姫様」
忍君がかしこまった口調でそのつぶやきに応えた。
地鳴りがどんどんひどくなり、壁や床が崩れ始める。
忍君が大きくジャンプして、ものすごい土ぼこりと一緒に崩れていく屋根から飛び出した。
初めて見る屋敷の外。けれどもそこは真っ暗だ。上下左右も分からない。
けれどもすぐに、忍君は私が降りてきた階段を見つけて走り出した。
しつこいことに、まだ悪性が追いかけてくる。
「もう少し……!」
私はほとんど反射的に、忍君のしっぽに手を伸ばして、多めに毛を引っこ抜く。
「痛いっ!」
「ごめん忍君!」
そう言いつつ、私は思いっきり毛を放り投げる。
今度は後ろじゃなくて前だ。普通だったら風にさらわれて散り散りになっていくはずの忍君の狐の毛は、私の思い描く形になっていく。
それは、上から伸びていく太い太い木の根。
「木の根……」
「サクラの木の根! 野火桜の根っこだよ!」
忍君は追いかける悪性から逃れて、サクラの木の根にジャンプして駆け上がっていく。どんどんと上へ、上へ。
目覚めのその先に。眠りの終わりへ。
少しずつ周囲が明るくなっていく。
ゆっくりと目が覚めていくときの、まぶたの裏で見る朝の光のような明るさ。
私はふと振り返った。
後ろに見えたのは、暗闇でもなければオオヒメちゃんがいた家でもない。
どこまでも広がる雄大な光景。
きれいな海と砂浜。
林はどんどん遠くになるに従って森になり、その先には山が続いている。
どこかは分からないけど、私たちの住む日本そのものの光景。
そしてなによりも、そのすべてに横たわる、とてつもない大きさのオロチがいた。
どれだけ大きいのか、想像もできないほどの巨大さ。
日本という国そのものと同じくらい大きいんじゃないだろか。
ヘビにまぶたはないってテレビでやっていたけど、私はなんとなく分かった。
あのオロチは眠っているんだ。
あれがきっと、オオヒメちゃんが言っていたオオマガツヒ様なんだろう。
私たちは、オオマガツヒ様の見る夢のほんの端っこにいただけだ。
でも、私もオオヒメちゃんも、オオマガツヒ様の見る夢から出なくちゃいけない。夢から覚めたいと、私たちは願っている。
「皆さーん! こっちですー!」
私が忍君の背中で目を上げると、上からオレンジ色のしましまのネコが降ってきた。しっぽにロープが結んである。
「寅吉!?」
思いっきり両手を広げて、ムササビみたいに落ちてくる寅吉を私は抱きとめた。
すぐに寅吉は私から離れて、忍君にしがみつく。
「準備万端です! 蘆屋道満様! ツチグモの大将!」
同時に、寅吉のしっぽに結ばれたロープが真上に引っ張られた。
「痛いニャン!!」
もちろん寅吉がそう叫ぶけど、涙目になりながら寅吉は忍君を離さない。
「偉い! 寅吉! 帰ったら高級猫缶また買ってあげる!」
「約束ですからね! ごちそうになりま~すっ!」
忍君がサクラの木の根を蹴ると、一気に私たちは引っ張り上げられる。
見上げると、上に神社の境内へと繋がる穴が空いている。そこからロープを引っ張っているのは、導満君とアシダカさんだ。
「オオヒメ――!」
「お兄さん――!」
私たちが釣り上げられた魚みたいに穴から飛び出した瞬間、二人の声が境内に響いた。
◆
七歳の私がいた。
私は泣いていた。
たしか、迷子になったんだっけ。
いつものように誰もいない加茂神社にたどり着く。
泣き付かれた私は、野火桜の根元で上を見上げる。
その瞬間、空の色が変わった――
◆
「……
気がつくと私は、ぽつんと一人きりで加茂神社の境内に立っていた。
ううん、一人じゃない。
私の隣に静かに姿を現したのは晴盟さんだ。
晴盟さんは私を見ないで、野火桜を見上げる。あの時の私みたいに。
「その内の一本がこの野火桜だ。果たしてそれが本当かどうかは知らぬ。八百比丘尼などいないのかもしれない。サクラの木は無関係かもしれない。だが――」
オオヒメちゃんも、アシダカさんも、忍君も寅吉も導満君もいない。
でも、晴盟さんだけがいる。まるで、目が覚める寸前の夢の名残みたいに。
「八百比丘尼はオロチを列島の真下に封じるためにサクラの木を植えたのかもしれない。少なくとも、そのように長年思われることによって、野火桜はオオマガツヒの夢との架け橋となったようだな」
改めて、晴盟さんは私を見る。
いつものように女の人よりもきれいな顔で、何を考えているのかちょっと分からないけど、優しそうな目で。
「そうだったんだ」
「そうだったのだよ、里子よ」
私はそれ以上何も言わない。でも、ようやく分かったんだ。
晴盟さんに教えてもらったわけじゃない。
私はこれから目を覚ますから、今自分がどういう感じなのか分かっただけ。
「お前は神隠しから帰ってきたのではない。今もまだ、神隠しの最中なのだ」
そうなんだ。
私が七歳の時、あの空の色が変わった時。
その時からずっと、私は神隠しから帰ってこなかったんだ。
私はずっと、あの時から夢の中にいた。
「だから、晴盟さんみたいなのがいたんだね。夢の中だもん。平安時代の人が今ここにいてもおかしくないよね」
私にだけ晴盟さんが見えているのに、晴盟さんはお店に入って飲み食いできる。そもそも、平安時代の人が今ここにいる。
しゃべるタヌキにネコにキツネに、夢の中でしかいけない家。ツチグモ。そしてオロチ。
私の日常がこんな不思議でいっぱいだったのも、全部これが夢なんだってことで説明できちゃう。
私はオオヒメちゃんと同じ、野火桜に連れてこられた夢見だった。
私の夢が深くなって、もう一人の夢見だったオオヒメちゃんは夢に囚われた。
全部、私が神隠しのままだったからだ。
「夢も捨てたものではないぞ。なにしろ、この晴盟は――」
私は、晴盟さんの言葉の先を代わりに言う。
「私の夢見た人、なんだよね」
「さよう。私も導満殿も、里子の夢から生まれた存在よ。ははは、楽しかったぞ、里子」
本当に楽しそうに晴盟さんは笑う。
晴盟さんは、私の夢の中の登場人物だったんだ。
テレビか本で見た安倍晴明のイメージが、なんとなく形になったのかな。
お父さんもお母さんも忙しくて、あんまり構ってもらえない私が作り出した、私のお友だち。
ついでに導満君まで出てきたのは、ちょっと予想外だけど。
夢の登場人物って言っても、今の晴盟さんは私とは無関係に自分の人生を楽しんでいるみたいだ。
「おいしかった、じゃないの?」
もうこうやって話ができる時間はほんの少しだけ。
それが分かっていても、私はついつい意地悪なことを言っちゃう。
「うむ、あれは――」
「あれは、私の神隠しの問題をなんとかしてくれる代金、じゃないの?」
私の予想を聞いて、晴盟さんは素直にうなずいた。
「よく分かっているな。こういうものはきちんと代価を払わなければならなくてな。その方が後腐れがない」
「ってことは――お別れかな。夢はいつか覚めるからね」
後腐れがない、って聞いて実感したんだ。
晴盟さんは、私とお別れすることが分かっているし、それを引き伸ばすつもりもないってことを、ね。
きっと晴盟さんにとっては、私が目を覚ますことが自然なんだろう。
ずっと神隠しのままっていうのはおかしいよね。
神隠しって言っても、現実に不思議なものが現れるだけだと思うけど、それでも私は目を覚まさなくちゃいけないんだろうか。
夢だったけど、私は晴盟さんといて楽しかった。
晴盟さんの後についていって、タヌキの兄弟のケンカの仲裁を眺めた。
その後しっかり高いコーヒーをおごらされた。
忍君がお母さんと仲直りするのにちょっとだけ手を貸すことができた。
夢の中、オオヒメちゃんと仲良くなった。
そしてお兄さんのアシダカさんの願いを聞いて、私は夢の中に潜り、オオヒメちゃんを助け出した。
不思議がいっぱいで、私は寂しくなんかなかった。
晴盟さんがいなかったら、私はきっと毎日寂しかっただろう。
だから……少しだけ目を覚ましたくないって思ってしまう。
でも。次の瞬間。
ものすごい地震が私たちを襲った。立ってられないくらいの揺れで、私は慌ててその場にしゃがむ。
大空が砕けた。
その向こうから、野火桜の下に広がっていたみたいな暗闇が姿を見せる。
「おや、オオマガツヒもずいぶんと寝相が悪いようだな。ただ寝返りをうつだけで、この夢が全壊してしまう」
晴盟さんは私にそう言いながら手を差し伸べてくれたから、なんとか私は立ち上がることができた。
砕けた大空からのぞく暗闇から、ものすごい沢山の悪性が、黒い雨みたいにしてこっちに落ちてくる。
え? ちょっと。私はもうじき目が覚めるんだけど、これは困るでしょ。
こんなことになるなんて、聞いてないけど。
「ちょ、ちょっと晴盟さん? これ、まずいんじゃない?」
慌てるしかない私にほほ笑んでから、晴盟さんは一歩前に出た。扇を開きながら、晴盟さんは私を見る。
「安心せよ、里子。この晴盟、
そして、晴盟さんは空を見上げる。もしかするとそのずっと先、夢のまた夢の先にいて、今もずっと眠っているオロチを見ていたのかも。
「――――使えない、とは一言も申しておらぬ」
晴盟さんが扇を空に向けた。
「幸いにして災いのオロチよ。今一度、安らかな夢の海へとご案内申し上げる」
晴盟さんの言葉と同時に、神社の境内が変わっていく。
まるで一枚の絵の上から別の絵を描いていくみたいに、周囲の景色が変わっていく。
平安時代の都の景色だ――と思う。
あれが羅城門かな。
あれが朱雀大路かな。
通りをにぎやかに歩くのはたくさんの妖怪。
陰陽師・安倍晴明って聞けばみんなが連想する、幻想と不思議の世界。
現実みたいな夢が、晴盟さんの夢で塗り替えられていく。そんな風に私は思った。
だってこの人は本物の安倍晴明じゃなくても、幻想も不思議をおおらかに受け入れて、しかもたまには利用だってするうさん臭い人――
――安部晴盟さんだ。
「これぞ我が夢――
落ちてきた悪性を次から次へと夢の都に引きずり込んでいく晴盟さんに、私はつい突っ込む。
「晴盟さん、それ、今適当に思いついた名前でしょ?」
「まさか。これは由緒正しい我が一族秘伝の術だぞ」
しれっとそんなことをいう晴盟さん。
でもだんだんと、私は目の前のなにもかもから自分が遠くなっていくのを感じてきた。
きっと、私は目を覚ましていくんだ。だから、もう夢の景色がよく見えなくなっていくんだろうなあ。
「この晴盟、これが今生の別れとは思っておらぬ」
晴盟さんの声が最後に聞こえた。
「嘘が下手だね、晴盟さん」
私はそう言ってほほ笑む。せめて最後には、笑った私を見てもらいたくて。
「今度会ったときは、もう少し…………」
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