第35話
十七年前。稜星の母、喜雨は殺された。幼い稜星の目の前でのことだった。
その日は昼間なのに薄暗い空で、いつ雨が降るか、と構えているような心持ちだったのを覚えている。
稜星と喜雨は、父である氷輪と静かに王都の外れで暮らしていた。普段は派手なことを好まず、小さな家での倹しい生活を送る三人だったが、数日前に喜雨の両親の家に行き、帰って来たばかりだった。喜雨の両親の家は富裕層の豪邸が建ち並ぶような場所にあり、同じ王都でも稜星の家とは趣が全く異なるものだった。そこで初めて伯父や従弟たちとも会い、大いにはしゃいだ稜星は、帰って来て早々に熱を出した。
じいちゃんとばあちゃんの家は楽しいけど、たまに行くので良い。違い過ぎて、疲れちゃう。
熱が引いた稜星がそんな感想を漏らすと、喜雨は嬉しそうに笑った。
後に聞いたところによると、喜雨は己の兄である遊道とは仲が良かったが、氷輪との結婚に両親以上に強く反対したのも、遊道だったそうだ、『主従関係が崩れる』と言って。
が、二人は押し切った。駆け落ち同然で飛び出し、結婚した。その頃既に氷輪の両親や祖父母はいなかったから、頼るものの無い生活が始まった。だが二人は幸せで、後に稜星が産まれたのだ。
数日前の喜雨の実家への訪問は、ようやく遊道が妹を許す気になったために実現したらしい。遊道も妻を得て、子を得て、思うところがあったのだろう。妹一家を家へと招待したのだ。
熱が下がった稜星を連れて、喜雨は買い物に出かけ、帰り道だった。人目の少ない裏通り。そこで待ち構えていたのは、知らない三人の男たちだった。
喜雨の顔色が変わったのを、稜星は見た。
男たちは『その子どもをこちらに渡せ』と喜雨に言った。喜雨は首を振り、稜星を抱き上げると来た道を走って引き返した。男たちは追ってきた。男たちは喜雨に追い縋り、髪を掴み引き倒して、それでも息子を抱きしめて放さない喜雨に、刃を振り上げた。稜星は喜雨越しにそれを見ていた。
何処からか制止の声がした。刃を振り上げた男はその声に少し手元を狂わせた。本当は喜雨も稜星も一刀の元に切り捨てるつもりだったのだろうか。だが、その声に惑わされ、稜星は腕に軽く傷を負っただけで済んだ。
喜雨は、母は。
稜星はしばらく動けなかった。この場に居るのは危険だ、なんてその時は考えられなかった。母が抱き締めているからで。その腕が緩まないからで。自分も放したくは無くて。
男たちが去って行く。また声が聞こえた。先程の制止の、声。覚えはないが、結果的には自分を救ってくれた、声。
呆然としたまま、顔を上げる。腕が痛い。いや、そんなことより。
誰だろう、この人。頑なにこちらと目を合わせない。とても狼狽えていて、可哀想になってきたくらいだ。じいちゃんよりも年上に見える。
声が聞こえた。今度は知っている。間違えようも無い。
「…父さん」
掠れた声が出た。その声に驚いたかのように、知らない人がびくりと体を震わせた。目が、合った。…そうしてその人は走って行った。
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