第19話
迷夜は後宮の庭園を歩いていた。三日三晩続いた雨で、地面が泥濘んでいる。軽く裾を持ち上げ、慎重に歩く。
傍らに梢花はいない。先程、部屋にて茶器を盛大にひっくり返していたので、その片付けをしている。ここに居たとしたら、今度はどろどろの地面に足を取られて転がらないか、が心配になるところだった。
長雨が嘘のように晴れ渡っている。
今日の迷夜の装束は空色だが、これなら実際の空で充分だった。…だけど自分にも、その色をお裾分けしてもらえたと思うことにした。そうすればちょっと幸せ気分が増える。
後宮の庭園には造られた小さな川がある。雨のせいでそれが溢れたらしい。流石に妃たちにはどうにもできないので、門の外から土木を担当する官を呼ぶことになり、十人くらいの男性が庭園を右往左往していた。後宮内の勝手が分からないようだ。当然だが。
迷夜の見立てでは、人工の川が溢れたとしてもほんのちょっとのことのように思えた。無闇に近付かなければ大丈夫。それよりももっと、王城の外の、被害が多かった地域に官を派遣してほしいな、と心の中で息を吐く。
「迷夜」
名を呼ばれて、そちらを見る。稜星が足元を気にしながら近付いてくるところだった。
「稜星さん。…こういう川とか整備する担当の人?」
「いや、違う。俺は部署が決まってない」
そんなことがあるのか。迷夜は目を丸くする。
「科挙、は」
「一応、三年前に受かったけど」
おお、すごい。
「ただ、俺は上司にずけずけものを言い過ぎるらしくて。煙たがられて、色々たらい回しにされてる」
この前の自分みたいだ、と仲間意識を感じた。多分、恋麗や元上司にはたまったものじゃないだろうけど。
「ま、俺みたいのよりも、真っ当な官が外の大きい河川を見に行けるなら、俺がこっちに来るのも悪くないかとは考えるけど。…後宮の妃に言うことじゃ無いか」
最後の部分でそう笑う。
「ううん。大きい河川の氾濫は怖いから、気に掛けて見に行ってくれるのは良いと思うし。稜星さんがこっちに来てくれたのも、有り難いわよ」
外にも手が回っているなら問題無い。それに、稜星は気を配ってくれている。俺みたいなの、では全然無い。
「そういえば、今、私と話してても平気なの?」
「今は休憩時間だからな。…ああ、そうだ。矢厳に聞いたんだが」
迷夜と稜星は、川を見るともなく見ながら話していた。すると。
「?」
くすくすと、幾人かの笑い声が聞こえた。休憩時間の官たちでは無く、女性たちのもの。
振り向くと、四人の女性が集まって、こちらを指して喋っていた。うち二人は覚えがある。恋麗の取り巻きだ。恋麗本人はいない。まだ謹慎中か。後の二人はそれぞれの侍女だろうか。
「……何だ、あれ」
稜星が迷夜にのみ聞こえる声で尋ねてくる。
「一週間くらい前、私が揉めた、と言うか何と言うか…まあ、揉めた妃の知り合いだと思うけど」
「あ、正にその話。矢厳から聞いた。宰相の娘を負かしたんだって?」
「正確には、あの場で勝ってたのは王后様じゃないかしら…」
稜星が繰り返す。
「王后、ね…」
そんな稜星の声がかき消される。
「そちらの方。新しい妃の方」
「貴女って、妾腹の子なのでしょう?」
「実の母親は昔、妓女だったとか」
「それで。貴女も殿方を誑かしているのね」
そんな話か。この一週間ほどでわざわざ調べたのか。ご苦労なことだ。後宮の退屈の極みと言えよう。
「そんな方が後宮入りなんて」
「嫌だわ。わたくしたちの品位まで疑われてしまいかねないのでは」
しかし、顔見知りとしてただ話していただけ、の稜星まで巻き込むのはいただけない。妙な噂になっては困るだろう。
「迷夜」
どう対処すべきか、結構真剣に頭を悩ませたところで、当人が呼んでくる。真顔だ。
「なぁに?」
「迷夜は自分の母君を好きか?」
「勿論」
考える前に答えていた。いつ如何なる時も変わることの無い答えだ。優しい義母も、厳しい父も、無関心を装う母のことも大好きだ。
稜星が破顔する。
「じゃ、何の問題も無いな」
「……。うん」
全くだ。どこを探しても問題なんて見当たらない。それに、稜星が先に気が付いたことに戸惑った。
戸惑いを誤魔化すためにも、取り巻きたちを眺めた。大人しめの装束。自ら先頭には立たない女性たち。恋麗に指示されたことなのかは読めなかった。指示無しでも『あの妃をやっつけました』とご機嫌取りを考えることもあると思う。
さて、と。
「私の後宮入りが不満だとおっしゃいます? では、担当の方に談判しては如何でしょうか? …ただ、妾腹であることも母のことも、許家は隠してもいない単なる事実で、調べればすぐに分かること。実際、そうでしたでしょう? それをふまえた上で、私は妃になることを了承されている筈ですが」
女性たちが黙り込む。
迷夜にすれば、出自について他者に色々言われまくるのは慣れている。周りの人間は親切な人たちが多かったが、それでも平穏無事の中にも悪意は存在するのだ。家族は好きだし、迷夜とて傷ついたりはしないが、煩わしくはある。
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