第9話
稜星はこの日、書庫に仕事で使う資料を取りに行った。それ自体は何ら、特別なことでは無い。いつものことだ。
「……」
だが、そこに迷夜の姿があれば話は別だと思う。
「…後宮の妃って、そんな簡単に出歩けるものなのか?」
つい、呟く稜星である。
迷夜は踏み台の上に立ち、そのまま本を読んでいた。稜星以外にも文官はちらほらいるが、その誰もが遠巻きにしている。本日は柑子色の装束の迷夜は、書庫の中で凄まじく浮いていたが、当人は気にした様子も無く、本を読み耽っている。どうやら周囲など見えていないらしい。大した集中力だ。
とりあえず。近付いて、声を掛ける。
「迷夜」
一瞬、間があった。しかし、目の前の少女はふっと、こちらに戻ってきた。
「あら。稜星さん」
踏み台の上にいる所為で、稜星よりわずかに目線が高い。だけどこの前より距離は近くなった。その不思議な距離感で微笑まれる。
「……。何やってるんだ、こんなところで」
「本読んでる」
それは見れば分かる。どう言ったものか。
「…。踏み台に立ったままで読んでると危なくないか? 他に使いたい人もいるかも知れないし、下りた方が」
「あ、そうね。独り占めしてちゃ、駄目ね」
飛ぶようにふわりと下りてくる。身長差が元に戻って稜星は、何故か安堵と…勿体無さを覚えた。
「そ、れはそうと」
何かを誤魔化すような口調になって、焦る。
「ん?」
少女は特に気に留めなかったらしく、ただこちらの言葉を促した。
「…孝心は、きちんと仕事してるのか?」
今日この日の、後宮の門番は孝心の当番だった、と記憶している。なのに、迷夜は出歩いている。先程呟いたことをもう一度。
「後宮の妃って、そんな簡単に出歩けるものなのか?」
その疑問に対して、迷夜は首を傾げた。
「さあ、どうなのかしらね? 今日はとりあえず梢花と門まで行ってみて、門番さんが違う人だったら引き返そうかな、って考えてたんだけど。孝心さんだったから」
「……」
「梢花には門のところで待ってもらって、私は書庫が気になったから来てみたのよね。退屈だったし。今日はまだ下見のつもりで」
「……」
「待たせてるんだから、早目に戻らないといけないんだけど、つい集中しちゃってたわ。声掛けてくれてありがとう、稜星さん」
「……俺はまぁ良いとして、孝心を絶妙に利用しようとするそのやり方。うっかり称賛したくなった」
門番が止めないなら、迷夜がここに居るのもあり、だろう。
相変わらず、周囲の人間は遠巻きにこちらを見ている。ここまでの会話は特別小声にしていない。堂々としている方が却って、色々探られない。…と言うより周囲には、関わり合いになりたくない、と思われていそうだ。
「今日はね。梢花に藤色着せてみたのよ。首飾りは、銀に真珠。上品な感じに仕上がったと思うの。孝心さん、褒めようとして言葉が出てこないみたいでね。稜星さんにも是非見てほしいわ」
人によっては関わり合いになりたくないような人間の話を、真面目に聞いている稜星だ。自分は逃げそびれたらしい。それが嫌じゃないのが、困る。
迷夜と知り合ってほんの数日。この少女は分かり易いような掴みどころのないような言動で、こちらを巻き込む。
「せっかくのお誘いだけど、俺も仕事があるからな」
「そっかー。残念ね。…私ももう戻らなくっちゃ」
「孝心に『ちゃんと仕事しろよ』って言っといてくれ」
「分かったわ」
顔を見合わせて笑い合い、そこで別れることにした。迷夜が本を戻そうと、もう一度踏み台に上る。
本の表紙に『荷王家逸話集』と書かれているのが見えた。
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