第5話 アボカドトースト

 静かで冷たく、乾燥した空気が漂う午前6時。


 エルムウッドホールのグランドフロアにあるランドリールームにいるのは、洗濯機の前で衣類の乾燥が終わるのを待ち構えているクララただ1人だった。いつもなら7時を少し回ってようやく起きるのだが、昨夜の余熱でうまく眠れなかったのだ。二度寝を試みるも結果は虚しく、かといって特にすることもないので、同室の少女を起こさないようそっと部屋を抜け出して洗濯物を片付けることにしたのだった。


 静かで清潔な部屋の中、ゴウンゴウンとドラム式洗濯機の稼働する音だけが聞こえる。小さな宇宙船の中でぐるぐると回転する布を対面の壁にもたれて眺めながら、クララは昨夜の公園での一幕をぼんやりと思い返していた。


 とても奇妙でスリルに満ちた体験だった。月明かりの下、時計塔の影で繋いだエミリーの手の力強さが脳裏に蘇る。ポケットの中に手を入れ、昨日拾った鍵にそっと触れる。まだ解き明かされていない謎が残っている。まだ冒険は終わっていない。


 ピー、と音が鳴り、洗濯機が停止した。クララは壁から背を離し、ランドリーバッグにまだ温かい制服のブラウスやタオルを無造作に放り込んだ。


 クララはランドリールームを後にしたが、やはりエントランスに人の気配はなかった。慣れない静けさにわずかに緊張しながら、エレベーターの前へ足音をあまり立てないように歩いた。


 クララが降りてきたときのままで静止しているエレベーターを開けるべく壁についたフラットボタンにのばした指先は、ボタンに触れるすんでのところでぴたりと止まった。エミリーのことがふとクララの頭によぎった。


 ランドリーバッグの中のブラウスのことはひとまず意識の外へ追いやることにした。楽観的な予感に引きずられながらエレベーターに背を向け、階段室の扉に手をかけた。


 階段を登って2階に出た。それから少し逡巡して、左へ折れて共同のキッチンへ向かう。


 これは彼女にとって一種の賭けだ。早朝に自室ではなくキッチンにエミリーがいるというわずかな期待を抱きながら、クララはゴム底のスニーカーで磨き抜かれたクリーム色のフローリングを進んだ。


* * *


 クララは賭けに勝った。


 エミリーはキッチンにいた。彼女の背後にある窓から柔らかな朝陽が差し込んで、ウッド調で統一された部屋やエミリーの赤みがかったブラウンの髪を暖かく彩っている。カウンターに頬杖をついて、彗星色の目で斜め上の空間をぼんやりと眺めていた。


「よかった、ここにいたんだ」クララはほっと胸を撫で下ろしながら言った。


「……ああ、クララ」


 エミリーは瞬きをしてクララに視線を送った。目の焦点はまだ微妙に合っていない。


「おはよう、エミリー」


 クララが声をかけると、エミリーはぼんやりした目で窓に目をやった。


「もうこんな時間ですか……」


「もしかして寝てないの?」


「ええ、どうしても気になったものですから……」あくびまじりにつぶやいた。「昨日見つけた鍵のこと……もう少しで分かりそうな気がするんです」


 そう言って再び虚空をぼんやりと見つめ出したエミリーに、クララはため息をついた。


「そんな状態で何か考えたってまともな案が出てくるとは思えないよ」クララは言った。「今のエミリーに必要なのは、栄養と休息」


 まだ世界に着地できていないようなエミリーの目をまっすぐ見つめてクララは微笑んだ。


「おいで、息抜きが必要だよ」


* * *


 いかにも平日の朝らしく、コンクリートと鉄の店内にエミリーとクララを除いておよそ客と呼べる人は、スーツを着た若いサラリーマン風の男が1人いるだけだった。


 エルムウッド・ホールの対面に建つ喫茶店にて。出入り口にほど近いボックス席で、メニュー表を見るともなく見ているエミリーをクララはじっと見つめている。


「エミリーは決まった?」


「ん……私はブレンドコーヒーを……」


「それだけ?」


「集中が途切れて意識がまともに現実に戻って、今すごく眠たいんですよ。とてもじゃないですが固形物は……」クララはあくびを噛み殺しながら言った。


「なら、私の頼むトーストを半分ずつに分けようよ。それくらいなら食べられる?」


「さあどうでしょう。見てみなければわかりません」


 クララはまだ現実と精神世界の間で足止めを食らっているようだった。


 注文を終えてしばらく、穏やかそうなウェイトレスがテーブルに分厚いトーストをテーブルに運んだ。


 エミリーの前にはブレンドコーヒー、クララの前にはハーブティー、中央には温かそうで分厚いトーストが並べられた。トーストの上でペースト状のアボカドの上でチーズが溶けている。真ん中のあたりで斜めに切られていて、1枚の長方形は2枚の台形に分断されている。


「おいしそうですね」クララは言った。


「おいしいよ。私、この店に朝に来たら必ず頼むんだ」


 クララはトーストを手に取り、大きな一口でかじる。


 エミリーもそっとトーストに手を伸ばし、小さくかじる。


 エミリーは驚いたように目を丸くした。


「ね、おいしいでしょう?」クララは笑った。


 エミリーは無言で頷いて、続きを口に入れた。結局エミリーは残さずに食べ切った。


 トーストを食べ切った2人は、少し冷めた飲み物を少しずつ飲みながら、思考がもつれていきそうなほどゆったりとした空気の中に身を浸していた。


「食べ終わったら図書館に行きませんか?」エミリーは言った。「昨日の続きをしましょう」


「さっきまで眠いって言ってたんだから、少しは休んだほうがいいんじゃない? それにもうすぐ講義が……」


「もうまったく眠くありません」エミリーははっきりと言った。「それに、クララのその性格から想像するに、今日くらいサボったとしても出席日数なら十分でしょう」


 クララは何か言う代わりに小さく低く唸った。


「たまには息抜きも必要ですよ」


 エミリーはいたずらっぽく笑った。

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星空の下の秘密 佐熊カズサ @cloudy00

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