第4話 出会いⅣ

 優しく柔らかい夜気が熱を帯びた頭に心地よい。


 クララは両腕を上げてぐっと伸びをする。襟元にひやりとした風が入り込む。吹き抜けたその風がカーディガンの裾をはためかせる。


 夜だ、とクララは思った。


 午後9時過ぎ。濃紺の空に、街灯に飲み込まれることなく生き残った明るい星々がぽつぽつと点を打っている。


 クララの前をゆったりと歩くエミリーの髪が、背中の上で揺れて星月の青白い光をキラキラと反射している。


 不意に、エミリーが振り返って彗星の目を細めて微笑んだ。


 クララは小走りで駆け寄って、クララの隣に並んだ。磁石のように吸い寄せられて、肩が触れそうになるたびに少しだけ距離を取った。


 2人分のレザーソールが石畳を打つ不揃いなリズムが静かな夜に響いた。


 フォックスウッド・バークは寮から10分ほど歩いたところにある歴史ある公園。オークの木が立ち並ぶ園内の中央では、石造りの噴水が控えめに水を噴き上げている。水柱から散る飛沫が星の光にきらきらと輝いて幻想的だ。クララとエミリーは噴水の前を通り過ぎ、公園の南にそびえ立つ時計塔へと真っ直ぐに向かった。


 時計塔の正面に立ち、クララは今にも天を裂きそうな灰色の尖塔を見上げた。月を背後に隠し、その荘厳たるシルエットを夜空に映している。


 その古い時計塔は今では時を刻んでいない。9時50分のあたりを指したまま100年近く時を固定し続けている。永遠に時を刻み続けるものだと誰もが信じていたこの時計が死んだとき、この街の誰もが驚き悲しんだものだ。そんな話を遠い昔に祖父から聞いたことを、クララは思い出した。


 クララの耳の中で記憶の底からリフレインした祖父の穏やかで低い声に、エミリーの涼やかな声が混じる。


「暗き影に隠れた秘密

星々の導きで蘇る……」


 手にルーズリーフを持ち、詩を読み上げていたエミリーがふっと時計塔を見上げた。


「私が思うに、この『暗き影』とはこの時計塔の影でしょう。『星々の導き』とあるので時間帯は間違いなく夜。そして……」エミリーは地面を指差した。時計塔の影が地面に小さな正方形の小窓をつくり、そそに星明かりが何かを示唆するように集積している。「その場所はおそらくここのことでしょう」


 そう言って、エミリーはローファーのつま先で光の正方形の中にある土を抉る。ざくざくと柔らかい土を何度か掘り返しているうちに、カツン、と何か固いものを蹴る音が響いた。クララはとっさにしゃがみ、土をそっと手で退かす。中から出てきた、燻した金色に鈍く光るそれを土から抜いて、星の光にさらした。


 鍵だ。全体的に歴史による摩耗が感じられ、キーヘッドには細かい模様が彫刻されている。


「これが……『秘密』……?」クララはつぶやいた。


「おそらく『秘密』の一部でしょう」エミリーは言った。「鍵は何かを開けるためにあるものですから、これを使う場所がどこかにあるはずです」


「使う場所?」


「そうです。ですがそれを知るためには詩の意味をもう少し深く考える必要が――」


 そのとき、ざり、と突然近くで何者かが土を蹴る音がした。


 2人の間に緊張が走る。身体がこわばってその場で立ち尽くしていると、再び音がした。その音は規則的で、ゆっくりと近づいてくる。クララがびくりと肩を震わせてどこかへ逃げようと足を引くと、エミリーの手がクララの手首を強く掴んだ。


「こっちです」


 鋭い囁き声がしたかと思うと、クララの身体がぐんっと引っ張られる。エミリーがクララの手首を掴んだまま走り出した。


 2人は時計塔の影にとっさに隠れる。物音ひとつ立てないように息を殺す。


 強く握られた手から緊張が伝わる。彼女も少しは怖いのかもしれない。そう思うと、クララの心細さはわずかに和らいだ。


 規則的だった土を蹴る音は、時計塔のすぐ近くで突然止んだ。クララはエミリーに身を寄せて、空いている手でエミリーの腕にそっとすがった。


 耳に痛いほどの静寂が夜気に響き渡る。


 しばらくの静寂のあと、やがて諦めたように、再び夜に響いたその音はだんだんと遠ざかっていく。クララはそっと顔を覗かせて音の正体を確かめようとした。


 暗がりの中、ふさふさとした尻尾を悠然と振って去っていく、大きな犬、あるいは小さな狼の後ろ姿が見えた。


「どうやら、ただの動物だったみたいですね」エミリーが小声で言った。


「だね」


 2人は顔を見合わせ、ほっと息をつく。


 クララは何気なくカーディガンのポケットからモバイルを取り出した。時間を確認すると、既に午後11時が6分後に迫っていた。


「ああ、もうこんな時間」


 寮の門限は午後11時。その時間を過ぎると寮の出入り口は翌日の午前6時まで開かない。


「今日のところは寮に帰って、続きはまた明日にしましょうか」エミリーは言った。「鍵、失くさないようにしっかりと持っておいてくださいね」

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