第3話 出会いⅢ
オーガスティン学院の所有する寮のひとつであるエルムウッド・ホールは、コーヒースタンドから1駅離れた住宅街で古めかしい威厳を放っていた。
コーヒースタンドを出たクララとエミリーは、最寄りの地下鉄に乗り込んで1駅やり過ごし、再び地上へ戻った。
その間、2人の間に言葉はなかった。クララにとっては気まずい沈黙だったが、詩と暗号の書かれた紙に夢中になっているエミリーに話しかけるのはためらわれたのだ。
駅から少し歩いて寮に着く頃、夕日は地平線に沈み、金星が西の空に輝いていた。
薄明の淡い紺色に染め上げられ赤みを失いかけている煉瓦造りのフラットの前に2人は並ぶ。
エミリーは木製の扉を守る閂のようなセンサーにカードキーをかざした。がちゃり、と大袈裟な音を立てて鍵が外れた。門を押し開けると、エミリーは振り返った。
「私の部屋は2階にあるのですが、階段でも平気ですか?」
「そのくらいなら余裕だよ」クララは笑った。
2人は小柄なアンドロイドが見張るカウンターの前を通り過ぎ、エレベーター横の階段を上がる。それから廊下に出て、エミリーは『2D』と彫られた扉の前で立ち止まった。
エミリーが扉を開けて部屋に入る。後ろ手に扉を支えてくれたことに小さく礼を言いながら、クララも彼女に続いた。
部屋に入るなり、エミリーはメインルームの窓を勢いよく開け放った。まだ太陽の温度を残した暖かい宵闇の空気が入り込む。
クララはエミリーにそっとついていきながら、初めて入るシングルルームの物珍しさにきょろきょろとあたりを見回した。
「どうかしましたか?」
窓の開き具合を調節し、レースのカーテンを引いたエミリーが振り返ってクララに尋ねた。
声をかけられ、不躾な行為だったと気づいたクララはぱっと顔を赤くして弁明した。
「ごめん、シングルルームって初めて入ったものだから新鮮で……」
「クララはツインルームを選んだのですか?」エミリーはデスクの上から1枚のルーズリーフとボールペンを取りながら言った。
「うん」とクララ。「やっぱり誰かの気配を感じながら生活したいなって」
エミリーは納得したように微笑んだ。それから壁から突き出している突起をひねってオレンジの照明をうっすらとつけ、ベッドに向かうとそこに浅く腰掛けて、膝の上にルーズリーフと詩が書かれた例の紙、それが挟まれていた本を積み上げた。
「クララ」
エミリーはぽんぽん、と彼女の隣を叩いた。
クララは誘われるままに隣に座った。2人分の重みにベッドが沈む。
「どうやって解いていくつもりなの?」
「ここに来るまでに少し考えていたのですが、この詩は恐らくシーザー暗号でしょう」とエミリー。「もちろん、奇妙な絵の部分は除いての話ですが」
クララが首を傾げた。
エミリーは立ち上がり、本棚からするりと1冊の分厚いハードカバーを取り出した。そして、本をぱらぱらとめくりながらクララとの距離をさらに詰めてベッドに座り直し、スカート越しに触れそうなほど近づいた2人の脚の上に本を置いた。
「ほら、これです」クララは言った。
白く細い指が紙上の細かい文字の下をすうっと線を引くようになぞる。クララはその指先を目で追い、シーザー暗号についての概略を読んだ。
「要するに、アルファベットを任意の一定の文字数だけシフトさせて作る暗号のことです」エミリーは言った。「かなり古典的ですが、ぱっと見る分には十分暗号として機能するでしょう」
クララは感心して頷いた。エミリーは物知りなのだろうか、それとも知識の領域が異なるのだろうか。後者だったらいいのに、とクララは思った。そうであるならば、いつかきっとエミリーの力になれる。
「解いてみます?」エミリーはペンとルーズリーフを差し出した。
「エミリーが教えてくれるなら」
そう言って、クララは差し出されたものに手を伸ばした。
どうやらエミリーは機械や科学には詳しいらしいが、クララは数字や暗号に強いわけではない。
「どこから手をつければ?」クララは尋ねた。
「そうですね……」エミリーは少し考える。「まだシーザー暗号であると断定できるわけではありませんから、少し長めの単語をひとつだけ訳してみましょう」
エミリーの丁寧で優しい手ほどきのもと、ゆっくりと暗号を解いていく。クララは脚の上に置いたルーズリーフにペンを走らせる。1文字シフトさせてみる。意味が通らない。ぐちゃぐちゃとインクの黒い靄でかき消して、今度は2文字シフトさせてみる。消して、シフト。シフトさせて、消す。
繰り返して13度目のシフト、ようやくランダムだった文字列が意味をなした。
「わ、やった……!」クララはペンを握りしめ、新緑色の目の中で火花を輝かせた。
「『隠された真実』……どういう意味でしょう」エミリーはルーズリーフを覗き込んで唸った。「全貌が気になりますね。続きも解いてみましょう」
記号はひとまず無視し、詩の部分のみ解読を進める。どうやらこの詩は英語だけでなく、イタリア語やドイツ語、ラテン語など様々な言語が入り混じっているようで、覚えのない単語が現れるたびにモバイルで調べながら2人は解読を進めた。
気づけば、部屋を満たす空気はすっかりまともな夜気になっていた。クララは満足げにため息をつき、ボールペンをノックしてペン先をしまう。2人は顔を見合わせた。
解読は終了したのだ。
とはいっても全てを解読できたわけではない。記号の意味するところは結局分からず、その不可思議な記号をそのまま伏せ字のように置いている。それでもある程度意味が通るまでは解読できた。
膝の上のルーズリーフには、すっかり様相を変えた新しい詩が、少女らしい手書きの優しく小さい文字で並ぶ。エミリーが夢遊病のつぶやきのような、小さな声で読み上げる。
「星の光が夜空を繋ぎ
遠き記憶を蘇らせる
時の風が囁く声に……」
少しずつ、こんがらがっていた秘密が解かれていく。
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