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 文学部の一年生には、人文学の分野を広く浅く学ぶ必修授業が課せられる。

 川野かわのが月曜一限に受ける講義は西洋史である。担当の千々石ちぢわ教授の口からプロイセンのフリードリヒ二世の名前が出ると、オーストリア継承戦争より先にジャガイモ令を連想してしまうあたりおもてに毒されている。

 異変は、そのとき起きた。

「ジャ、ジャガイモォォォォ……」

 川野は初め空耳かと思った。振り返ると講義室の最後方で、机に突っ伏して寝ている生徒が低い声で呻いている。彼は確か西にし君といったか。長崎出身の陽気な男子だ。

「居眠りするのは勝手だが、授業の障りになるほど寝言を言われるのは困るな」

 千々石教授が苦笑して、みながどっと笑う。

「ジャガイモォォォァァァ」

 さっきより一段と大きな声。また西君である。

「ちょっとユタカ、いいかげん起きなよ」

 ひとつ前の席に座っていた同学年のマドンナ喜多村きたむらサキさんが、頭をつつこうと腕を伸ばす。

 ガブッ!

 女子たちが一斉に悲鳴を上げる。突然起き上がった西君が、あろうことか喜多村さんの腕に噛みついたのである!

 ――えっ、西君と喜多村さんってそういう関係? いやそれにしても、ちょっと猟奇的すぎやしないか?

 川野は野次馬めいた気分で眺めていたが、顔を上げた西君と目が合ったときにただならぬ異常に気づいた。

 肌が、緑色だったのである。

「ジャジャジャジャ、ジャガガガイモモモォォォォ!」

 狂ったような金切り声。今度は西君ではなく、噛みつかれた喜多村さんだった。彼女のみずみずしい白い肌があっという間に濁った緑色に変色していく。かと思うと、大丈夫かと心配する隣の女子に飛びかかる。騒然となった。西君に噛みつかれた喜多村さんが、喜多村さんに噛みつかれた女子が、次々に緑色の肌になって他の生徒を襲う。その生徒もまた緑色になる。まるでゾンビだ。

「緑化だ! 緑化が伝染してる!」

 川野は我知らず叫んでいた。もう授業どころではない。生徒たちが続々と講義室から逃げ出す。川野も後に続いた。

「いい加減にしたまえ、授業中だぞ!」

 千々石教授はひとり威厳を保ち場を納めようとしたが、群がるゾンビたちの前ではあまりにも無力であった。

 川野は廊下へ飛び出した。一度だけ振り返る。他のゾンビと同様に白目を剥いて緑化してしまった千々石教授と目が合ったとき、言い知れぬ恐怖が背筋を走った。

 とにかく逃げなければ。講義棟を全力で駆け抜け、外へ飛び出した。幸運なことに、川野は足が速かった。

 全く状況が理解できないまま、とりあえず家に帰ろうと裏門を目指す。だが時すでに遅かった。法学部や経済学部のほうからも、次々に阿鼻叫喚が聞こえてくる。裏門では緑色のゾンビと化した生徒や教員が大挙し、ジャガイモォ、ジャガイモォと不気味な大合唱を響かせている。少し遠いが、人気ひとけのない道を選んで正門に回るしかなさそうだ。

 正門側には理系の学部棟が集中している。ゾンビに出くわさないよう、構内の中央通りを避けてなるべく外塀沿いに歩いた。

 やがて畑が見えてきた。農学部の実験用農場である。

 ――そうだ、表は大丈夫だろうか。

 ちょうど近くに物置がある。川野はその陰に隠れてスマホを見た。

 五分前に大学本部からの緊急連絡メールが一斉発信されていた。学生や教員がゾンビ化する非常事態発生につき本日は全講義休講、すでに登校してしまった者は速やかに帰宅し、事態が鎮静化するまで絶対に大学周辺には近づかないようにとの内容であった。

 表も同じメールを読んでいるはずである。

〈大丈夫か? お前はゾンビになってないよな?〉とLINEを送った。

 返信はすぐに来た。

〈レポートが終わらず徹夜をしたため,通常時よりは幾分ゾンビに近い〉

 無事なようで、ひとまず胸を撫で下ろす。

〈いまどこ?〉

〈家だ〉

〈よし、そのまま家にいろよ〉

 スマホから顔を上げたとき、すぐそばに男のゾンビが目を剥いて迫っていた。

「ひっ」以上の声が出ない。「ジャガイモォォォ」と低い唸り声が直接耳元に注がれる。

 もう駄目だと思った瞬間、ドンと強い打撃音がしてゾンビが横ざまに倒れた。

「君、大丈夫ですか。立てますか?」

 白髪交じりの眼鏡の男性が、くわを携えて立っていた。身にまとった白衣には返り血が散っている。

「農学部の中村なかむらです。ゾンビではありませんので、安心してください」

 思い出した、中村敏樹なかむらとしき教授だ。

「もしかして、表の指導教官の……?」

「おや、表君のお知り合いですか」

 中村教授は表情を和らげ、川野に手を貸してくれた。

「表君は非常に研究熱心な子ですよね。君は文系ですか?」

 川野は頷き、名乗ってここへ逃げてきた経緯を話した。

「そうですか。文系エリアはそんなひどいことに……。幸い理系エリアでは、ゾンビ化した人はさほど多くありませんでした」

「あの、中村先生、いったい何が起こっているんでしょうか?」

 中村教授は再び表情を険しくし、眼鏡をくいと上げた。

「まだ断定はできませんが……正門を出たところにある『フラワリー』というファミレスがあるでしょう。そのフライドポテトの原料に、安全性が確認されていない新品種『トワアカリ』が混入していたことと関連があるかもしれません」

「トワ……アカリ?」

 それは「フラワリー」の親会社であるワクシーフードサービス株式会社が研究開発を進めていた「奇跡のジャガイモ」だと、中村教授は言う。

「川野君、ジャガイモというのは、光に当たると緑になるのは知っていますか」

「はい。有毒なソラニンやチャコニンが生成されて、食中毒の原因になるから緑化したジャガイモは食べるなって、表がよく言ってました」

「さすが表君のお友達ですね」

 教授が微笑む。

「ジャガイモはおいしいですが、実は扱いを誤ると非常に危険な食べ物です。今日こんにちみなが当たり前にジャガイモを食べられているのは、生産から流通、小売に至るまであらゆる人々が力を尽くしてくれているからなのです。光に当てても緑化しないジャガイモを作ることは、ジャガイモに関わるあらゆる産業に携わる人々にとって大きな夢です。私たちも目下もっか有毒物質を生成しないジャガイモの研究を進めているところですが、一朝一夕に成果が出るものではありません。しかしワクシー社もまた、独自の方法で『トワアカリ』を開発し栽培していました。私は研究者として、彼らの開発過程では別の有毒物質が生まれるのではないかと常々疑問を感じていたところなのですが……」

 昨日、中村教授は研究のため大学に来て、帰りにフラワリーでスパゲティを食べた。そのとき偶然に教え子四人と隣の席になったが、フライドポテトを食べていた生徒二人が今朝ゾンビ化してしまったのだそうだ。

「つまり……トワアカリが誤ってフラワリーのフライドポテトになってしまって、それを食べた人が緑色のゾンビになってしまった、と?」

 教授は渋い顔をして頷いた。

「まさかこんなことになるとは思っていませんでした。ジャガイモの代わりに人間が緑化してゾンビ化するとは、これまでの自然界の常識を著しく逸脱しています。……『トワアカリ』という名前には、『いくら光に当たっても緑化しない』、そして『永遠に人類の希望となる』という二つの意味が込められているそうです。しかしこれでは人類の希望どころか、大いなる災厄ではありませんか」

 教授すら想定しなかった事態。「死ちょう事実」どころか「ゾンビ化ちょう事実」である。これなら岡本も喫驚びっくりだろう……などと言っている場合ではない。

 そのときスマホが鳴った。表からのLINEだ。

〈「牛肉と馬鈴薯」読了した.腹が減ったのでフラワリーに向かっている.休講で暇ならお前も来ないか〉

 川野は慌てて電話をかけるが、表は出なかった。

〈だめだ、フラワリーには行くな!〉

 メッセージを送っても既読にならない。スマホを持つ手が震えた。

「大変だ……」

「どうしました?」

「表がゾンビにされてしまうかもしれない」

 震えは恐怖とともに全身へ拡がる。しかし川野は直ちに決断していた。

「助けに行かなくちゃ」

「いけません、『フラワリー』へ行くのは危険です。従業員にもゾンビ化している人がいる可能性は否定できません。本学の外ではまだ大きなゾンビ騒ぎは起きていないようですから、今のうちに家に帰りなさい」

 川野は頑なに首を振った。

 ゾンビになってしまった千々石教授の目が、脳裏に焼き付いて離れない。ゾンビのひと噛みで、千々石教授が長年かけて培ってきた知性と教養は瞬く間に失われてしまったのだ。表を同じ目に遭わせるわけにはいかない。

「表は優秀で、将来有望で、大きな夢を持っていて、俺なんかよりずっと価値のある人間です。それに……何より、俺の親友だから」

 最後は照れ臭くなってはにかんだ。

「……分かりました」

 覚悟を決めた川野を、中村教授はもう引き留めようとはしなかった。

「しかし川野君、どうか忘れないでください。人間の価値は、優秀さや将来の展望の有無で決まるものではありません。少なくとも、いま君が取ろうとしている行動は、そんなものよりずっと尊いと私は思います」

 中村教授は物置の鍵を開け、川野のために二本目の鍬を取り出してくれた。

「私は学内に取り残されている人がいないか、見回ってきます。表君をよろしく頼みますよ」

「ありがとうございます。先生もどうかご無事で」

 鍬を強く握りしめ、川野は「フラワリー」へ向かって走り出した。

 正門を出るまでに、ゾンビは次々に川野に襲いかかってきた。理系らしい男子学生が緑色になっている。学食のおばさんも警備員のおじさんも緑色になっている。ごめんなさいと心の中で謝りながら、川野は彼らに鍬を振り下ろした。

「フラワリー」はもう目の前だ。赤信号が灯り、続々と通り過ぎる車が行く手を阻む。大学構内の異変はまだ知られていないらしい。血に濡れた鍬を携えた川野を見て、通行人がぎょっとして立ち止まる。向かい側の「フラワリー」に視線をやると、転げるように店内から出てきた親子連れの姿が見えた。「誰か助けて! ゾンビよ!」と切迫した叫び声が響き渡る。

「すみません、いま非常事態なんです! 通してください!」

 スマホを取り出して警察に通報しようとしている通行人もいる。ゾンビを撲殺したら殺人罪に問われるのだろうか? ――いまはそんなことを気にしている場合ではない。事態は一刻を争う。とにかく表を助けに行かなくては。

 信号が青に変わるやいなや、川野は全力で走り出す。「フラワリー」の前にたかり始めた野次馬を押しのけ、店内へ突入した。

「ジャッガィモイモォ!」

「いらっしゃいませ」の代わりに、ゾンビの店員が飛びかかってくる。すんでのところでそれを撃退し、次いでサラリーマン風のゾンビを蹴飛ばした。店内にはもう、毒されていない人間はいないのだろうか。

「表! 表、どこだ!」

 川野は声の限りに叫んだ。客席に友の姿は見えない。もしかして手遅れなのか。不安がよぎったそのとき、

「その声、川野か?」

 厨房の奥から、表の声が聞こえた。

「フライドォォォ、オモテクンンンンン」

 用具室で、表は店長らしきゾンビに壁際まで詰め寄られていた。なんとかモップで防いでいるが、いまにも頬にかじりつかれそうである。

 川野はゾンビ店長の後頭部目がけて鍬を振り下ろした、が、素早く反応したゾンビ店長に鍬を払いのけられ、勢いよく押し倒されてしまう。

 ゾンビ店長の大きな口が、川野の首元へ迫る。止めようとする表はあえなく片手で突き飛ばされた。二人がかりで敵わぬとは、なんたる怪力。川野も必死で押し返すものの、すぐに力負けしてしまうのは目に見えていた。

「表、いまのうちに逃げろ!」

「何を言う、お前を置いて逃げられるものか!」

 いつも眼鏡の奥で不敵に輝いている瞳が揺らいでいる。表からその答えが聞けただけで、川野は十分満足であった。

「お前には夢があるんだろ! ジャガイモで世界を救うんだろ! こんなところで終わっちゃだめだ!」

 表はしばしためらった後、「すまん、川野」と走り去って行った。そうだ、それでいい。

 表、世界を救ってくれ。生き延びていつか真の「トワアカリ」を作ってくれ。

「ジャガイモォォォォ……」

 もうこれ以上力が入らない。限界だ。 

 川野は静かに目を閉じる。最後に聞いたゾンビの呻きは、友が愛してやまぬそれの名前であった。

 


 ――川野。

 誰かが呼ぶ声が聞こえる。ゾンビになっても、聴覚はあるものらしい。

「川野、起きろ」

 聞き覚えのある声だ。そうだ、表の声だ。ゾンビにも人間だったころの記憶はあるのか。

「おい」

 ぺちぺち、と頬に軽い打撃。がくんと頭が揺れて、川野ははっと目を開く。

 川野は「フラワリー」の客席にいた。しげしげと自分の両手を見る。見慣れた、ごく一般的な黄色人種の肌だ。

「……あれ? 緑化してない?」

「お前、寝ぼけているな? ジャガイモでもあるまいし、人間が緑化するものか」

 正面には怪訝な顔をした表が座っている。

「ええと……何だったっけ」

 川野は眠い目をこする。どこまでが現実で、どこまでが夢だったのか分からない。

「『牛肉と馬鈴薯』のレポートだろう」

「そうだった……ごめん、変な夢見てた」

 いやに現実味のある夢だった。

「だろうな。いろいろ寝言を言っていたぞ」

「何て言ってた?」

「別に……いろいろだ」

 なぜか表の顔が少し赤くなった。

「して川野よ、レポートの方向性は決まったのか?」

「うん。『牛肉と馬鈴薯』は、岡本の願いについて書いた小説としてじゃなく、強い夢や願望を抱いている人の孤独感を描いた小説として読んでみるのはどうだろうと思ってさ」

 岡本の願いに共感するのは難しい。それならどうすればあの小説を面白く読めるのか、川野は自分なりに考えた。

「お前もそうだけど、岡本みたいに強い願いや夢を持ってる人ってすごいよな。でも思いが強ければ強いほど、他人からは理解されにくくなると思うんだ。俺にはいまんとこ夢も願いも別にないけど、お前も岡本みたいにちょっとは孤独なのかなー、なんて思ったりしてな」

「そんな風に言ってくれる人は少ない。……ありがとう、川野」

「なんだよ、今日はやけにしおらしいなあ」

 店員が注文の品を運んできた。山盛りのフライドポテトはもちろんホッカイコガネだ。

「食うぞ! 今日は俺のおごりだ」

「ああ、ありがたく頂くとしよう」

 黄金色に輝く芋の山の前で、二人は揃って「いただきます」と手を合わせた。(了)

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