牛肉と馬鈴薯とゾンビ
泡野瑤子
1
「
――
――わ、分からん。
ここはファミリーレストラン「フラワリー」。某大学の正門を出て国道の反対側という立地のため、金曜日の夜八時を過ぎてもいまだ店内は学生たちのにぎやかな歓談に満たされている。週末の合コンに備えて作戦会議を開く男子たち、みんなで一緒に勉強しようと言って集まったのに結局世間話に明け暮れる女子たち、食事もそこそこに手を握り合って見つめ合っているカップル等々。
そんな中、文庫本片手に独りうんうん唸っている川野は彼らと同窓の学徒でありながら、明らかに異質な存在であった。
川野は二年の浪人生活を経て、今年の四月に某大学の文学部へ入学した。文学部を志望したのは、文学に強い興味関心があったからではなく、単に理数系科目が全くの不得手であったためである。小説を読むのは嫌いではないが、時々流行のエンタメ小説を読んで面白がってみるくらいで、いわゆる純文学に類する小説とはほとんど無縁の生活を送ってきた。まして明治以前の小説など、高校の授業か受験勉強でその一端に触れたのみである。
とはいえ川野もせっかく文学部に入ったのだから、これからは昔の小説にも積極的に手を伸ばしてみたいとは思っているのだ。その手始めに選択した授業が、彼が人生で初めて遭遇した文学の試練となった。
試練とは、国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』。
言わずと知れた明治文学の名篇であるが、いまや内容まで知っている人は多くないのではないだろうか。この小説は肉じゃが発明記でも、洋食のシェフがステーキの付け合わせに最適な野菜を求めてジャガイモに辿り着く物語でもない。ちなみに川野はそのように想像していた。
作中に出てくる「牛肉」と「馬鈴薯」とは、それぞれ実際主義と理想主義とを象徴する語である。明治
そこへ後からやって来た
なるほど、その恋人に生き返って欲しいとか、もう一度会いたいとか、そういう願い事なのかな?
川野はそんな風に想像し、また作中に登場する
「
……はい?
いわく、岡本は恋人の死を嘆き悲しんだが、それは恋人がこの世から消えてしまったことに対する悲痛であって、死なる事実そのものに対する感情ではない。彼は「死ちょう事実に驚きたい」と願っているのだ。
教授は川野ら受講生にレポートを課した。この岡本の願いについて、原稿用紙五~七枚程度で自由に論述せよ、という内容である。
川野は岡本の願いが理解できない。
いや、頭では理解できるつもりだ。人間界の習慣と常識とが身に染みついて、自然界の摂理に新鮮な驚異を見出せないことを嘆いているのだろう。それでも川野は、恋人の死を経験してなお「死ちょう事実に驚きたい」と言ってしまえる岡本に共感できないのだ。
――驚けないからなんだっていうんだ。それほど大事なことなのか?
作中でも、この岡本の願いは同席した男たちの共感を呼ばなかった。
川野もまったく同意見である。こんな状態では、レポートに何を書けばいいのかさっぱり分からない。
慌てているのは自分だけで、周りの二歳年下の同級生たちはみな平気の
提出期限は次の火曜一限。自宅にいるとついついサボってしまうので、このファミレスにタブレットPCを持ち込んだ。やる気を出すために、奮発してビーフステーキのセットも注文してみた。だが、牛肉と付け合わせの揚げた馬鈴薯を平らげても、肝心のレポートは一向に進まない。
「お客様。本日は混雑しておりますので、お席のほう九十分制とさせていただいております」
ついに店員から退去命令を下された。仲間たちと盛り上がっているならともかく、ひとりで長居して追い出されるのは少々恥ずかしい。
はっと顔を上げ、思わず「すみません」と口走ったそのとき。
店員がニヤリと笑う。
「……というのは、嘘でございます」
店員の胸元の名札には、「研修中」の文字と、「
「なんだ、お前かよ……」
「お前とは何だ。表先輩と呼びたまえ」
「なんでお前がここで働いてるんだよ」
「先週からアルバイトを始めた。『フラワリー』のフライドポテトが旨くなったと聞いてな。お前もさっき食べたろう」
言われて川野は付け合わせのフライドポテトの味を思い出してみた。三日月形に切られた皮付きのフライドポテトは、確かにほくほくして甘かったような気がする。
「北海道産のホッカイコガネだ。綺麗な黄金色だったろう? ホッカイコガネはトヨシロと北海51号を交配して作られた品種で、還元糖の含量が少ないので揚げても
また表のジャガイモうんちくが始まった。
表は容貌こそ色白で長身、青首大根が黒縁眼鏡をかけたような男だが、無類のジャガイモマニアである。農学部に入ったのもジャガイモの研究をするためで、いずれ
「つまり、フライドポテト目当てでバイト始めたってこと?」
「うむ。『フラワリー』はアルバイトでも社員割引が利くのだ。肉料理の付け合わせだけでなく、単品もあるぞ」
「どうせ毎日フライドポテトばっかり食べてるんだろ」
「よく分かったな。毎日夕方から夜の時間帯にシフトを入れて、勤務前に三皿ずつ食べている。勤務三日目にして店長から『フライドオモテ君』とのありがたい異名を頂戴した」
ありがたいなら何よりだ。
「して川野、お前はなぜここに来た? ホッカイコガネが目当てではなかろう」
川野は文庫本の表紙を見せて、レポートを書きに来たが全然進んでいないことを説明した。「馬鈴薯」の文字に、表が「ほう」と声を上げる。
「表、お前は『牛肉と馬鈴薯』読んだことあるの?」
「無論、題名は知っているが……読んだことはないな。これは馬鈴薯研究者として盲点だった。面目ない」
「なんで謝るのさ」
「素直になるがいい。レポートが書けないから、先輩たる俺の助力を求めているんだろう?」
「そんなつもりじゃ……」
川野は口ごもった。
表は理系科目だけでなく国語も得意であった。彼に助けを求めるのは癪だが、背に腹は代えられない状況なのは確かだ。
「あいにく俺もレポートが重なっていて土日は厳しいが、月曜は二限の後夕方からシフトだ。独歩の作品なら著作権が切れているからスマホさえあればネットで読めるだろう。空き時間に『牛肉と馬鈴薯』を読んで、その後ここで合流することは可能だ」
この大学の理系学部は、文系学部より実験や課題が多く忙しい。三年生にもなればなおさらだろう。
「忙しいなら、無理に手伝ってくれなくていいんだぞ」
「いいや、馬鈴薯小説を読む好機だ。ぜひ協力しよう」
だが表は迷惑がるどころか進んで力を貸してくれようとする。
「まあ、そこまで言うなら……」
変人だけどいいやつなんだよな、と川野は心の中で感謝する。
二人は月曜の夜八時にこの店で落ち合うことを約束し、この日は別れた。
川野も表も実家が遠く、ひとり暮らしである。大学の裏門側に住む川野は、表と帰り道が逆方向である。川野はときどきスマホに目をやりながら夜道を歩いた。SNSはもっぱら眺めるだけで、自分からはほとんど発信しない。
反対に表は頻繁に更新している。たいてい専門的なジャガイモの話ばかりで川野にはほとんど意味が分からないが、同好の士はいるようで数十人のフォロワーと日々濃密なジャガイモ談義をしているようだ。
〈月曜まで忙しいので浮上しない.諸君,火曜にまた会おう.〉
句読点代わりのカンマとピリオドがいかにも表らしい。彼は「浮上しない」と決めたら、その通りにする男である。
表の書き込みは、川野を大いに発奮させた。
――俺も頑張ろう。土日はネットを見ないぞ。
薄志弱行の川野にしては珍しく、土日はネット断ちに成功した。代わりに大学図書館に足を運び、独歩の他作品や先行研究に当たり、自分なりにレポートの方向性を考えてみる。表の見解を鵜呑みにするのではなく、拙くても自分の考えを書いてみようと思った。
だから、二人の青年は見ていなかったのだ。日曜の夕方、インターネットの片隅に流れた小さなニュース記事を。
〈ファミレス「フラワリー」、原材料のジャガイモに開発途中の新品種を誤って使用か〉
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