終章 六

 新月溝の鉄柵は、監視の機械人形がいても修理はされていなかった。修理は後日と魁人が命じたらしい。解放されているすき間から、美静と、逢子を背負ったままの魁人がおりていく。

 水際に置かれていた残骸も、警備用機械人形によって見張られていた。


「これで動き出したらゾンビだな」

「機械人形のゾンビに襲われたところで何が恐ろしいっていうんだ。壊せばいいだけだろ」


 美静は鼻で笑ったが、魁人も薄く笑っていた。

 残骸は、愛玩用機械人形と警備用機械人形の二体だ。内部のデータはすでに魁人の電磁刀で破壊されている。この二体に入っていた二人はもう、いない。


「電脳空間に逃げたってことはないの」

「一季の無線通信を使った憑依現象には致命的な欠点がある。通信環境だ。だからあのとき、美静がこの近辺の無線通信を妨害電波ジャミングで遮断しておいたせいで、一季は逃げたくても逃げられなかった」


 そういえば、一季が警備用機械人形から涼風に戻ろうとしていたとき、どういうわけか果たせなかった。やむなく一季は涼風の体を無理に動かして、目的を果たそうと試みていた。てっきり、涼風が抵抗して受け入れなかっただけなのかと思っていたが、そうではなかったのか。無線通信環境が妨害電波に阻止されていたせいで、仕方なく、あんな……。


「この体に、一季は閉じこめられたまま。人と同じように肉体にとらわれたまま、俺に破壊された。いわば殺されたわけだ。あの男の狂気の沙汰となったデータはもう存在しない」


 電脳空間に一季のバックアップも残っていない。すべてを涼風に注ぎ、一季は死んでからも、二年の歳月をこの世で生きた。個人のデータは、この世から丸ごと消えてしまった。生き残った者たちの記憶の中にのみ、彼は在りし日の姿のまま存在する故人となった。


「逢子を殺そうとした涼風も、もういないよ」


 涼風は一季とは違う。彼女はまだやり直せる。基礎データは日々バックアップを取られていた。逢子を恋敵とみなし、人の頭を抜き取って殺そうとした情報保持の起点――一季のデータの乱入がなかった状態まで戻した涼風ならば、逢子が知るむかしの優しい涼風となって、また戻ってくる。開発局は愛玩用機械人形の試作実験をあきらめてはいないし、涼風から得られるデータもまだ欲しがっている。


 そう遠くないすぐの未来に、逢子の目の前には涼風が戻ってくる。


 地面におろされた逢子は、涼風の手を握った。体温もない、吹きさらしの風を浴びていた機械人形の手は冷たく、重い。

 胸に抱いて、逢子は告げた。


「約束どおり、姉様は私を守ってくれましたね。ありがとう、姉様。すぐに戻ってきてくださいね。私のこと、一人にしないっても言ってくれたでしょう」


 最後にして唯一の家族。私はあなたが戻ってきてくれる日を心待ちにしています。


「涙ぼろぼろのお別れになるかと思ったのにな」

「言い方が不謹慎なんだよな、君の場合」

「本音は?」

「惚れた女の泣き顔はそそるだろ」


 逢子の辛辣な視線を浴びた魁人は、なんでもないと手を振っていたが、まさか聞こえていないと思っているのなら、女を、それも元娼婦を舐めている。まあ、正真正銘の娼婦だった時代なんて、逢子にも涼風にもありはしないが。

 魁人に抱えあげられると、機械人形から離された。その場に残っていた美静も、オイルを振りかけると魁人の脇まで遠ざかる。


「私にやらせて」


 魁人が握っていたオイルライターを受け取り、着火した。強火の火柱は高いが、投げた先の機械人形から吹きあがった猛火の比ではない。二体の機械人形を包む炎が空に向かうのは、魂をより高いところへ運ぶ手伝いなのだろうなと、逢子は思った。


 涼風の着物も皮膚も髪も灰に化す灼熱は、離れていても伝わってくる。肌が焼けそうだ。頬が熱い。気のせい? 濡れてなんかいない。触ってないから分からないけど。


 逢子は魁人の胸に顔を埋めた。羽織と着流しと皮膚と肉の奥にある鼓動がもたらす彼の熱は、業火よりも熱い。魁人が、人として生きている証だ。


 夜空に向かって煌々と燃え盛る火柱につられて、夏の到来を知らせるあの大きな蛾が招かれてきた。


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怪奇心中物語 篝 麦秋 @ANITYA_

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