10 私が残る

「マボロッシー! ありがとう! 私がさみしかった時、いつもいっしょにいてくれて、ありがとう!」


 マボロッシーは、何も答えない。

 ただやさしい目で、山崎さんを見下ろしている。


「マボロッシー! 今日はね、お別れを言いに来たの! 私のことを忘れないでね! 私もマボロッシーのこと、忘れないから! 絶対に、絶対に、忘れないから!」


 だけど……それは本当に、一瞬の出来事だった。


 マボロッシーがいる世界と、私たちがいる世界が、いきなりグラグラと揺れはじめる。

 まるで地震のように。

 魔法陣の書き換えをしているロボくんが、珍しくあわてた声を上げた。


「2人とも、もうもたないです! この空間の歪みは、まもなく閉じられます! 早く! 早くこの魔法陣から出てください!」


「マボロッシー! さようなら! 元気でね! マボロッシー! ありがとう!」


 そう叫ぶ山崎さんに、マボロッシーはうなずくように首を動かした。

 私たちに背を向け、さっきまでいた場所に戻りはじめる。


 そしてそれを見た時――私たちはハッと大きく目を見開いた。


 マボロッシーの向こうに……マボロッシーと同じ首長竜の影が見えた。

 二つの影が並び、静かにこちらを見つめている。


「マボロッシー! あなたにもお友だちができたんだね! あなたももう、一人じゃないんだね!」


 それが、私たちがマボロッシーを見た最後だった。

 私たちの目の前の空間が、ゆっくりと閉じられていく。

 2つの世界が、インクをたらした水のように、不気味な渦を巻いていく。


「山崎佳穂さん! 早く出てください!」


 そう叫び、ロボくんが山崎さんの背中を突き飛ばした。

 すると山崎さんが、転ぶように魔法陣から飛び出し、私たちの目の前からフッと消えていく。


 山崎さんは、たぶん私たちの元の世界に戻った。

 良かった……。

 彼女とマボロッシーを、最後に会わせてあげることができた。

 私がそう胸をなでおろしていると、ロボくんがあわてた口調で私に続ける。


「それじゃあ、次に鈴木春世さんが出てください!」


「え? ロボくんもいっしょに出ようよ!」


「いえ。もうボクの力だけでは、この魔法陣を維持することができないんです……」


「それって……どういうこと?」


「この魔方陣は、時空の歪みに引っかかってしまいました。今の状態でここから出れるのは、あと一人だけです。だったら鈴木春世さんではなく、ボクが残ります」


「ちょ、ちょっと待って、ロボくん! な、なんでロボくんが残るの? 私が、私が残るよ! これをやるって言い出したの、私だし!」


「いいんですよ。元の世界に戻るのは、鈴木春世さんの方がいいです。ボクなんか、戻ったって、何の役にも立ちませんから」


「なんで! あと一人残らなきゃいけないんだったら、私が残る!」


「いいえ。残るのはボクです。さぁ、鈴木春世さん。行ってください」


「行かない! ロボくんがいっしょじゃなきゃ、私、戻らない!」


「もう本当に時間がないんです! 早く! 早く魔法陣から――」


「行かないってば!」


 ロボくんが、私をムリヤリ魔法陣から出そうとする。

 だけど私は、魔法陣から出るギリギリで、思いっきり踏んばった。

 必死の形相で、ロボくんに言う。


「わかったよ、ロボくん! じゃあ最後に――私の話を聞いて! これを聞いてくれたら、私はロボくんの言うことを聞く! 元の世界に戻る! だからお願い! 最後に、ロボくんに伝えておきたいことがあるの!」


「な、何ですか? ボクに伝えておきたいことって?」


「あのね、ロボくん。じつはこれ、今まで誰にも言ってないことなんだけど……」


 小さな声で私が言うと、ロボくんが「え? 何ですか?」と耳を近づけてきた。

 それが――私のチャンスだった。


 油断して私に近づいてきたロボくんを、私は思いっきり魔法陣の外に突き飛ばす。

 さすがのロボくんもそれにはバランスを崩し、よろけるように魔法陣から転げ出ていくしかない。


「す、鈴木春世さん! どうして!」


「これは私が言い出したことなんだよ。残るなら、私が残る。さようなら、ロボくん。色々とありがとう。スカイによろしくね」


 魔法陣から出たロボくんが、そのまま姿を消していく。

 私は、一人で魔法陣の中に取り残され――覚悟を決めた。


 私はこれから、マボロッシーがいるこの大昔の世界で生きていく。

 それしかない。

 でも、まぁ、無理だよね。


 私、基本、泳げないし。

 おまけにこんな海の、ド真ん中からのスタート。

 陸になんか、たどり着けるわけがない。

 たぶん私は、これからおぼれて死ぬんだと思う。


 でも……良かったよ……。

 ロボくんを元の世界に戻すことができたし、山崎さんをマボロッシーに会わせることもできた。

 私みたいな人間でも、誰かの役に立つことができたんだ。

 それだけで、本当に良かったよ……。


 目の前の風景。

 そのほとんどが、完全に海だけになる。

 時空の歪みが完全に閉じられようとしていた。


 さようなら、みんな……。

 ありがとう……。

 こんな私に、色々とやさしくしてくれて、本当にありがとうね……。


「何、カッコつけてんだよ、お前?」


「え……」


 どこからともなく聞こえてきたその声の直後――めちゃくちゃ素早い動きで、何かが私の手に巻きついてくる。

 ハッとして、私は自分の手首に巻きついたものを見た。


 木の、ツル?

 長い、植物のツルだった……。


「きゃっ!」


 いきなり、私は思いっきりそのツルに全身を引っ張られる。

 ものすごい力だった。


 気がつくと、いつの間にか私の目の前に、小さな裂け目が見えた。

 これって――何?

 空間の、亀裂?


 穴だ!

 私の体が、わずかに開いているその穴の中に強引に引っ張られていく。


 ビックリするほど素早いスピードで、私はその裂け目を通り抜けた。

 それと同時に、私はゴロゴロと地面を転がっていく。


 何? 何? 何?

 えっと……ここは、どこ?


 私、どうなったの?

 ここ……海じゃなくて、土?

 地面?


 ってことは……ここって、マボロッシーがいた世界の海じゃなくて、私たちが住んでいる世界?

 運動場?


「も、もしかして……戻れたの?」


 地面から体を起こし、私はボーゼンとつぶやく。

 手首に巻きついた木のツルを見つめた。

 その先を目でたどる。


 ブランコに乗った人影が、めちゃくちゃバカにしたような顔で私を見ていた。

 彼の手には、私を引っぱった木のツルの先が握られている。


「ヤバかったな、春世。もう少しでお前、あっちの世界に一人で取り残されるとこだったぞ。こういうことをやるんなら、次からは前もって裏山の守り神にひと声かけろ」


 そうほほ笑む高身長のイケメン男子が口の端っこでクールに笑う。


「スカイ……」


 私が彼の名前を呼ぶと、スカイはなんだかテレくさそうに私の手首に巻きついたツルをほどいてくれた。

 立ち上がった私のそばにロボくんと山崎さんが駆け寄ってくる。


 私たちは運動場で向かい合ったまま、しばらくの間、お互いの無事を喜んでいた。

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