片道切符を握りしめて

じゅじゅ/limelight

線香花火

 ————カタンコトン、カタンコトン


 さっきまで私が乗っていた電車が発車する音が聞こえる。

 夏の夜は、日中の暑さを忘れてしまいそうなくらいに、半袖では肌寒かった。

 

 左手に片道切符を握りしめて歩く。

 終点までの切符だったが正直、どこでもよかった。遠くにいければそれでよかった。

 

 家を飛び出したときに、間違えて履いてきたサンダルのサイズが小さいせいで、靴擦れを起こしている感覚が気持ち悪い。暗闇の中、街灯を頼りに足早に、されど足音一つもたてずに電車の中から見えた砂浜へ向かう。


 水面に街の光が反射したキラキラした海のおもかげはどこにもなく、水の動きがわずかに見えるくらいの、暗い海。


 海水が波を打つ音だけが耳に入る全ての音を独占した。

 黒い海には月の光が反射して、さっき見た輝く海とは違う、深藍の海が広がっている。

 走って消耗し、酸素を求めている肺が吸い込んだ空気に確かな塩の味がした。

 

 「……ここでいっか」


 変わらず目の前で波を打ち続ける海に向かって、小さく呟いた。

 あんなにキラキラした海より、こんな暗い海の方が私に相応しい、そう思えてきた。

 それから、海を無心に眺めてしばらく経った時、背後から砂を踏む小さな足音がした。


 ————死ねるならもうなんでもいいか。


 私は覚悟を決め、振り向くとそこには私とさほど年が離れていなそうな少女が立っていた。てっきり、凶器を持ったおじさんが立っているのかと、少し拍子抜けだった。

 小麦色の少し焼けた肌を持った彼女は白のワンピースを纏って、まさに海の少女というイメージを体現した容姿をしていた。

 

 落胆と安堵が同時に私に襲いかかる。もしこの子が、鋭いナイフでも持っていたなら、私は迷わず刺してくれと頼んだだろう。


 「あなた、見ない顔ね。どうしたの? 夜にここに来て」


 彼女は私の隣に座って、海を見ながら話し始めた。見た目からくるイメージとは違う、無機質な声だった。


 「……海に来たくて」


 私は言葉に詰まりながら答える。しかし、彼女はなにも言わないまま海を眺めていた。変わらない表情、活気を失った目、固く閉ざされた唇……私はどうしても彼女が気になって海を一目見ては視線を移していた。


 「ちょっと待ってて」

 

 そう言って、その子は立ち上がってどこかへ行ってしまった。

 ここに来てから時間はだいぶ経ったはずだ。冷たい海の風が吹きつける。


 ————もう、いいよね。


 私は素早く立ち上がり、海に足を踏み入れた。

 まるで冬の海であるかのような、凍ってしまいそうな感覚がつま先から全身へ伝わっていく。


 膝の部分まで水に浸かり、身体全体が寒すぎて警告の信号を出し始めた頃に、砂浜から叫ぶ声が聞こえた。


 「待って! 」


 さっきの子の声がした。思わず振り返ると、彼女はなにか大きな袋を片手に、砂浜から私を呼んでいた。そしてすぐにそれを放り、海まで私を引き戻しに入った。

 冷たい水の中をぴちゃぴちゃと無造作に進んで、彼女はあっという間に私の手を掴んだ。


 「もう! 私、ちょっと待ってって言ったよね!? 」


 そう言って、私の手を引いてズカズカ歩いてと砂浜へ戻っていく。すっかり冷たくなった私の手とは違い、人肌の温かさがその手にはこもっていた。


 「ほら、これ。一緒にやらない? 」


 なにを持ってきたのだろうと、私は海に入った反動びしょ濡れで震えながら彼女を見ると、線香花火セットだった。

 もう片方の手には、ライター。


 「っくしゅん! 」


 寒い、身体が震える。もし、このまま進んでいたなら感じるはずのない感覚が、感情が私の中で渦巻いていた。けれど、彼女は頬を膨らませて、近くに落ちていた木の枝を持って私に対して、


 「まったく、そんなことだろうと思ってたよ。思ってはいたけど、本当に実行する瞬間を見たのは初めてだったわよ……」

 「……」


 風邪引いても知らないからね、と付け加えて、彼女はため息を吐いた。そして、湿った木の枝に何度かライターを当てて火をつけると、線香花火を取り出した。


 「ほーら、これ。少しは気が紛れるでしょ? 」


 半ば強制的に押し付けられた花火を受け取る。私は彼女と同じように、木の枝に花火を押し付けた。


 付けては、離して。付けては、離す。それでも、花火はなかなか点いてくれなかった。試行錯誤を繰り返している間、彼女はじっと花火を火に当てて、オレンジ色の炎を見つめていた。


 「なんであんなこと、しようと思ったの? 」


 彼女は真剣な眼差しで私の目を見て直接語りかけてくる。


 理由。理由なら山ほどある。学校、友達、勉強、さっきだって両親と喧嘩して家を飛び出したくらいだ。

 何度死のうと思ったか、わからない。でも、私はずっとその一歩を踏み出せずにのうのうと生きていた。

 苦しいとわかってるのに、生きててもいいことなんてないのに。


 彼女の視線から逃げるように私は火を見つめた。すると、彼女は「ふっ」と鼻で笑い、声を高くして、


 「あなたがしようとしてたことは、この火を見るより明らかなのだけど、あなたの考えは私がいくらこの火を見てもわからないのは残念ね」

 

 なんだかレベルの高い愚痴を吐かれている気がする。彼女は続けた。


 「私の友達がね、ここであなたと同じようなことをして、いなくなっちゃったの」


 その言葉に、私の視線は自然と彼女へと移行された。目の前にいる少女は、目に涙を浮かべて、苦笑していた。


 「私はそれを事前に知ってたんだけどね、止められなかったの。そしたら次の日、海の上にあいつが浮かんでてさぁ。それはもう大騒ぎだったよね」


 それでさ、と続けて話される言葉に耳を傾けながら、私は試しに花火を上げてみると、それはパチパチと眩しい火花を散らし始めた。


 「っ!点いたよ!! 」


 刹那、線香花火から見る海は真っ暗闇だった海から一変し、今まで見たことがないくらいに光り輝くものとなった。


 思わず子供のようにはしゃぐ私を見て彼女も花火を上げると、私たちの足元に輝く火花とその音だけが響いた。

 それから、花火はすぐになくなってしまった。けれど、彼女は袋からまた2本取り出して、


 「まだあるから、一緒にやろ? 」

 

 何分、何時間経ったのかはわからない。私たちはずっと花火に火をつけては、次のものへと、線香花火を消費していく。


 「次、先に途切れた方の負けね」


 「これ、音がめっちゃでかいやつじゃない!? ほら、やってみて! 」


 「やっぱり花火って綺麗ね〜」


 出会った時からは想像もできないような、明るい声が夜の閑静な砂浜を飛んでいく。彼女は、悲しい話をしていたときの表情からは程遠い、太陽のような笑顔を浮かべていた。


 ————プツッ。


 何分、何時間経ったのかはわからない。最後の花火が燃え尽きたときには、私の中に激しく渦巻いていた感情は無くなっていた。


 そして、海は来た時とは比べ物にならないくらいに光に満ちたものとなっていた。それは、私が死に場所に相応しいと感じた場所とは、程遠いもので————。


 「そう言えば、左手のそれ」


 左手? と思い、左手を見ると、握りつぶしてくしゃくしゃになった、来た時に買った片道切符があった。


 「もし、もし。また死にたくなったら、ここに来て。私が相手になってあげる」


 そう言って、彼女は立ち上がった。夜風が冷たい。さっきまで聞こえなかった、海が波を打つ音がまた耳に入るようになった。


 「どうして、何のために————」


 歩き去る彼女を見つめながら、私は問いかけた。すると、彼女は立ち止まって振り返り、


 「あ、これから片道切符は買っちゃダメよ。ここに来たあなたを、必ず戻すから。往復切符を買ってちょうだい」


 そう、残して彼女は暗闇の中へ走り去った。それからしばらく、一人、海岸に取り残された。


 ……家に帰ろう。怒られると思うけど、それでもいいや。


 私はその晩、海の近くの駅から往復切符を買って、再び電車の中に乗り込んだ。

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