ある日、ファミレスにて

たなべ

ある日、ファミレスにて

 二階、窓際の席に通されて暫くして、

 「負の数っていうのはね、僕からすると虚構なんだよ」

 私を突き放した様に、彼は言った。彼はいつもそうだった。そうやって思慮深げなことを突然言い出すのだ。そしてそういう時は毎回、私が聞き役に回らなくてはならない。それは、新幹線の車窓を眺めているのと同じような感覚がする。遠くで響く雷鳴を聞き流している感じがする。でもそれで良かった。私には彼に意見できるほどいろいろなことに造詣が無かったし、何よりそんな気力が無かった。

 「負の数は人間が便宜上生み出したものだ。だからこの世界に元々、負の数っていうのは存在しないんだよ。まあだから何って話だろうけど」

 「まあそうだね」

 「全部全部、自然数さえあれば事足りてしまうんだ。分かるかい?」

 「分かんないよ」

 いつもの流れだ。彼の言う事に私が「分かんないよ」と言うまでがセットなのだ。そしてそうすると彼は滔々と自分の思っていることを語りだす。

 「例えば、単純にマイナス10度とかがあるだろう?これは何でと言っているんだと思う?人間が勝手に水の凝固点を零度と決めているからなんだ。そうしなければマイナス10度はマイナス10度にならないんだよ。10度にだって100度にだってなれるんだ。でも人間が扱いやすいからマイナス10度にしているだけなんだ」

 私は黙って頷く。

 「絶対温度っていうのがあってね。マイナス273度を0Kケルビンと名付けてしまうんだ。そうするとほら、マイナスなんて消えてしまう」

 「どうしてマイナス273度なの」

 珍しく私は彼に問うた。

 「それは、それ以上温度が下がらないからだよ。物体の温度っていうのは、要は原子の振動だ。原子が運動エネルギーを持っているから、それが簡単に言うと熱エネルギーに変換されて温度っていうものが発生するんだ。でもある温度でその振動が止まってしまう。まあ止まると言っても不確定性原理っていうのがあって...」

 それ以上は聞き取れなかった。定かではないが何やら、零点振動とか連成振動とか言っていた。一から十まで何を言っているのかは分からなかったが、彼は私が分からないという素振りを見せると、得意げにまた語りだすのだった。私は話半分に聞いていた。

 「ここで君はこう思うだろう。引き算があるじゃないかって。引き算にマイナスがあるじゃないかって。でもこれは残念ながら、僕に言わせると不正解だよ。引き算っていうのは演算だ。要は、ある数とある数があってその差分は何ですか、それを求めなさいっていう命令だ。だからこれは数じゃないんだ。従って負の数の存在の証左にはならない。な、ほら見ろ。この世界には自然数しか本質的には存在していないんだ」

 「小数とか分数があるじゃない」

 「ああ確かにあるさ。でもそいつらは結局のところ数列だ。その時点で自然数なんだよ。人とかに指示する時、便利だもんだから自然界に無いものを人間が勝手に作り出したんだよ」

 「どうして、数列だと自然数なの」

 「それは君、数列っていうのは数が順番に並んでいるだろう?あなたは一番目、あなたは二番目って。もう分かったんじゃないかな」

 「分かんないよ」

 「つまり全ての数に自然数が対応付けられてしまうんだよ。例えば0.1,0.2,0.3,0.4っていう数列があったとするだろう?0.2は君、何番目だい?」

 「二番目」

 「じゃあ0.3は?」

 「三番目」

 「そう。だから、どんな数列でもある数を取り出して何番目にあるか言えてしまうんだ。で、自然数は無限にあるだろう?つまりどんな長い数列でも順番を付けられるんだ。でそれはこういうことにならないかい?その数列、自然数に置き換えられませんか?って」

 「ふうん」

 「難しい言葉で言うと、写像だね」

 彼の話は終わった様である。彼は話し終えると水を飲む癖がある。私は彼の喉仏が静かに上下するのを黙って見ていた。その間、喉仏は三回往復した。そしてまた静かになった。さっきまであんなに沢山言葉を吐いていた彼の口は動かなくなった。まるで顔に紅色の装飾品を付けているようにそれは映った。

 「どうしてあなたはそんなにいろいろ知っているの」

 静寂を切り裂くように私は言った。すると彼は、

 「本を読むんだ」

 と随分優しい口調で言った。

 「よく読むの」

 「そうだね」

 「どうして読むの」

 「どうしてだろうなあ」

 そう言って彼は黙り込んでしまった。何故、彼が負の数をあれほど知っていたのに、自分のことはこんなに知らないのか分からなかった。

 「自分に興味が無いの」

 「いや、そういうわけじゃないんだ」

 「じゃあどうしてそんなに自分のことを知らないの」

 「知りたくないんだ」

 「どうして」

 「怖いんだよ」

 「怖い?」

 「うん。自分を知ってしまったら、もうその自分の像に規定されてしまう気がするんだ。自由に生きていけなくなる気がするんだ」

 「分かる気がするよ」

 「そうかい?」

 「うん」

 そうしてまた静寂が私たちを包んだ。窓の外を見ると、散々に雨。しとしとと私たちの沈黙の隙間を埋めるような雨音がする。街路を歩く人はみな傘を差している。

 「そろそろ帰ろうか」

 「うん」

 帰り道は水溜りだらけだった。私たちは右往左往しながら家に帰った。家に帰ると彼は真っ先にお風呂に入った。「外は汚れているからね」これが帰宅後の彼の口癖だった。私は彼がお風呂にいる間、彼の言ったことを反芻していた。「自分の像に規定されてしまう」彼は、彼が興味の無いところで印象的な言葉を漏らすのだ。そういうところが彼の面白いところではあるのだが。


 私はリビングのカーテンを開ける。すると雨の軌跡が沢山見える。いつまで続くのだろう、この雨は。漠然とそう思う。そしてカーテンを閉じる。雨音は鳴りやまない。

 「雨漏りでもするんじゃないかしら」

 思いもしないことを一人呟いた。

 

 

 

 

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ある日、ファミレスにて たなべ @tauma_2004

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