出席番号16番はおとしものが多い

降矢あめ

出席番号16番はおとしものが多い



 遠くでピアノの音が聞こえる。映画サウンド・オブ・ミュージックのマイ・フェイバリット・シングス。春の心地よい気温に瞼が下がる。


カララン。


足元で高い音がして顔を上げると前の席の女子と目が合った。


「ごめんおこしちゃって」

「ああ」


 数秒間僕たちは見つめあい、首を傾げる。


「あの、おこしちゃって」

「うん」


 彼女は微笑んだまま僕のことを見ている。


「どうかした」

「だから、おとしたの」


 指された先、僕の足元には緑のペンと桜の花びらが転がっていた。






 佐藤実桜はおとしものが多い。


「落とした」


 東雲大地はつい今しがた廊下に落ちたものを拾う。


「さすが東雲くん。私の落とし物係」

「…」


 大地は拾ったものを呆れ気味に見た。


「学校にバスタオル」

「それはねー」


 実桜は背中を向けてバスタオルでマントのように身体を覆うと、振り返りぱっとバスタオルを広げた。


「ちょっと期待した?」


 しない。


「佐藤さん面白いね」


 川井は腹を抱えて笑いながら大地の背中を叩く。


「水泳の授業はまだ先」

「東雲くん反応薄くてつまんない」

「佐藤さん、それが東雲大地というやつなの。つれないやつなのよ」


 否定はしないから背中を叩くな。控えめに笑う実桜からまたひらひらと、落ちた。

 佐藤実桜はおとしものが多い。


「そういえば東雲くん今日家来る?」


 ついでに重要なことをさらっと言う。


「そろそろあの作戦、始動しようと思って」






「どうかした?」

「いや別に」


 大地はごまかすようにコップを手に取った。女子の部屋に入ったのはいつぶりだろう。あまりジロジロ見ては失礼だと思いながらも珍しさについ視線が動いてしまう。


「あれ佐藤さん?」

「うん、小学校の運動会。かわいいでしょ」

「…お母さんびっくりしてた」

「どっちかといえば面白がってたけど」


ふふっと笑う実桜に大地は小さくため息をついた。


「付き合ってるって何?」

「特別な存在として認めてもらうには恋人が一番でしょう」

「…そもそも家来る必要ある?」

「もしかして東雲くん、緊張した?」


 質問に質問で返されるのは好きじゃない。いつもの大地ならすぐに反論するが、実桜の指摘があながち間違いでもないため言葉に詰まってしまう。思春期の男子が同じクラスの女子生徒の家に訪ねるというのは緊張しないはずがない。さらにそれが恋人としてであればなおさらのこと。しかしその事実を認めたくないのもまた思春期というものである。


「ともかくお母さんに紹介する目的は達成したし、それに問題点もわかった」

「ああ」


 大地はつい先程会った実桜の母親を思い浮かべた。


「で、どっちから告白したの?」


 実桜の母親の言葉に大地と実桜は同時に答えた。


「東雲くんだよ」

「佐藤さんです」


 恋人という設定にいささか不満はあるもののこうなった以上やり切るしかない。実桜はノートを開くと出会い、きっかけ、付き合い始めた日などを一行空きに書き出す。


「出会いは入学式、きっかけは席が近くになったこと、付き合い始めたのは…先週?」

「急すぎる。バレンタインくらいが妥当」

「それだと私が東雲くんに告白したみたいじゃない」

「同じようなもんだろ」


 大地の言葉に実桜は口を尖らせる。


「でも断らなかった」

「それはただの好奇心で」

「好奇心、だけ?」


 好奇心が大半を占めている。それだけかと問われれば答えに悩む。


「東雲くん、ヨーロッパでは男性から女性に花を贈るのがバレンタ」

「却下」


 結局どちらから告白したのか、という問いに対してはなんとなくごまかすことになった。


「忘れ物はない?」


 いたずらっぽく笑う実桜に「はいはい」と返す。


「じゃあまた明日」


 ひらひらと動いた実桜の手から落ちたものを大地は拾った。


「気をつけて、またいつでも来てね。大地くん」





 大地が帰宅すると玄関には普段見ない父親の靴があった。


「遅かったな」

「ただいま」


 家族であっても父親がいつもはいない時間に家にいるというのはどことなく居心地が悪い。大地は自室に向かおうとしてふと立ち止まった。


「あのさ」

「なんだ」


 大地は足元の枯れ葉を指す。


「これが視えるのって遺伝なんだよね」

「おそらくそうだろう」


 会話はそこで終わった。大地は自室の扉を閉めるとゆっくりと椅子に腰を下ろす。


「やっぱり」


 言葉にするとそれはより一層現実味を帯びた。机の上、写真の中の母は相変わらず優しく微笑んでいる。






「佐藤さん今日も休みだって」

「…知ってる」


 明日には梅雨前線が日本列島を通過するらしい。佐藤実桜は連休明けから学校に来ていない。生ぬるい風が廊下をゆっくりと吹き抜けた。


「 あのさ」


 次の言葉は予想がついた。


「付き合って」

「ない」


 大地がすかさず否定すると川井は足を止めた。


「知ってる」


 いつもの陽気な声ではなかった。大地の脳裏に母が亡くなった後の思い出が蘇る。


「かわ」

「見舞いくらい行ったら?身体弱いんだろ」


 大地の肩に優しく触れ去っていく背中があの時と同じようだった。




「大地くん」


 扉が開くと実桜の母親は手を口に当てて目を大きく見開いた。


「来てくれたの?」

「…プリント届けに」


 ぷっと吹き出すと「実桜喜ぶわ」と大地を家に上げた。


「来なくてもよかったのに」


 大地を見るなり実桜は慌てて布団にくるまった。


「別に来たくて来たんじゃ」


 鋭い目つきに大地は顔を背ける。部屋は前に来た時よりも少し散らかっていて、小学校の運動会の写真の横には依然として伏せられた写真立てがあった。


「ごめん」


 大地の視線に気がついたのか調子が悪いのか、発せられた声はか細い。


「会いたくなかったよね」

「…お互い様、だろ」


 今日のことを言っているのではないとわかった。


「ありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」


 大地が覗き込むと実桜は目を閉じて寝息を立てていた。







 大地はクラスの中で目立つ生徒ではない。容姿、運動、学力、全てにおいて特別秀でているわけではないし、ムードメーカーや問題児でもない。しかし今、大地が教室に入った途端に騒がしかったクラスメイトが波打つように静まった。慣れない状況を不審に思いながらも大地は席に着く。


「東雲、佐藤と付き合ってんの?」


 クラスのムードメーカー外山の一言で大地は事態を察した。


「家まで行ったらしいじゃん」

「二人はそういう関係なんですかー」


 大きな声で聞えよがしに問いかける声とひそひそ話す声。こうなる可能性について考えていなかったわけではない。でもどうでもよかった。次の一言を聞くまでは。


「お前の父親、不倫してたんだろ」


 顔が熱くなる。


「東雲くんの父親って昔よく夕方のニュースに出てたらしいよ」

「干されたんだろ。かわいそ」

「お母さんも亡くなったって」


 不倫。女の人と。会ってた。母さんじゃない人と。悪いこと。最低。

 息が苦しい。光が眩しい。なんだか画面の向こうを見ているみたいだ。

 大地の意識はプツンと途切れた。






 ピアノの音が聞こえる。映画サウンド・オブ・ミュージックのマイ・フェイバリット・シングス。目を開けると黒いアップライトピアノの前で跳ねるように鍵盤を鳴らす母がいた。


「起きたの?」


 優しく微笑み、肩のあたりで揃えられた髪を揺らす。


「大地はこれを弾くとすぐ起きるわね」


 その時、母の後からすーすーと寝息が聞こえた。


「あら、みっちゃんは寝ちゃったみたい」




「大地」


 目を開けると川井がベッドの横に座っていた。


「よかった。教室で倒れたらしいじゃん。朝来たら大地のクラスが騒がしくて見に行ったら、驚いたよ」

「…重かっただろ」

「いや、ここまで運んだのは岩下。後で礼言っとけよ」


 意外だった。岩下は寡黙でクラスメイトと話しているのを見たことがない。


「父親のことか」


 川井の声がワントーン下がる。


「全然治らないな」


 川井は指でトントンと自分の腕を叩くと顎をしゃくる。気が付かなかった。大地の腕に大きな絆創膏が貼ってある。


「椅子持ち上げたところで岩下が止めに入ったってこと。柔道部様々だな」


 無意識なのか川井がおでこに手を当てる。


「…ごめん」

「俺に謝るなよ」


 何も言えずにいるとカーテンが揺れて保健室の先生が顔を出した。


「川井くん、もうそろそろ教室に戻りなさい」


 「はい」と立ち上がり、そういえばと続ける。


「佐藤さんも来てた。心配そうに見てたよ」





 帰り道が長く、遠く感じる。大地は重たい身体を引きずるように坂道を歩いていた。


「下手くそ」


 後ろを振り返ると空は灰色の雲で覆われている。大地の立っている地点から2番目に近い電柱の陰に制服のスカートが揺れていた。


「ストーカー」

「あ、気づいてた?」


 少し気まずそうに佐藤実桜が姿を現す。


「昔の忍者だったら殺されてたね。よかった~現代に生まれて」


 ボソリとつぶやいた言葉を大地は聞き逃さなかった。まぁ今殺されなくてもどうせ死ぬんだけど。


「家、来る?」





 窓の外では雨が降りはじめたらしい。部屋の明かりを点けようと伸ばした大地の手を実桜は止めた。


「このままでいい」

「でも」


 床には楽譜が散らばっている。何年も前から。

 実桜が足元の楽譜を拾い上げた。


「なにか弾いてよ」


 ホコリを被ったカバーを外し、鍵盤の蓋を開く。薄暗い部屋では鍵盤の白さが眩しかった。


「弾いてないんだ、ずっと」


 身体がこわばる。実桜は椅子に座るとゆっくりと指を動かした。


「ねこ」

「踏んじゃった」


 にやりと笑い、椅子を叩く。


「弾けると思った?私もしばらく弾いてないの」


 大地は吸い寄せられるように実桜の隣に座った。目の前に楽譜が置かれる。

 マイ・フェイバリット・シングス。

 指が覚えている。何度も一緒に辿った音符。足音が近づいてくるような不穏なメロディー。実桜の頭が大地の肩に触れた。 


「よく眠れるな」

「だってあれを聞くと楽しい夢が見られそうだから」


 大地はあの曲を聴くと不安になる。これから何か悪いことが起こりそうな気がしてくる。


「大丈夫だよ」


 寝言なのかわからない声で実桜は続ける。


「大丈夫」


 ゆっくりとたしかに発せられた音は不思議と大地を動かした。固い地面に雫が落ちる。


「ペンを落としたのはわざとだって言ったら、どうする?」


 大地が黙っていると実桜は「どうもしないか」と言って寝返りを打つ。うなじがほんのり桃色に染まっていた。










 雨粒が傘に落ちて音を立てる。滑り落ちてまた音を立てる。大地は傘を閉じると石突きでコンクリートを数回叩いた。


「いらっしゃい」


 扉の向こうから実桜の母親が大地を出迎えた。エアコンがついているのか冷たい空気が流れてくる。玄関には畳まれたダンボールがいくつか置かれていた。


「暑いのに来てくれてありがとう。実桜も喜んでると思うわ」


 実桜の部屋に入ると机の上の大きな写真が目に入る。

 佐藤実桜の葬式は8月の猛暑日に執り行なわれた。葬式には学校の同級生らが参列し大地もその一人だった。すすり泣く声の他に無関心な顔、好奇の眼差し。どうやら実桜は大地と母親以外の誰にも自分の余命について話していないようだった。

 出された麦茶で喉を潤し、目の前の人物を観察する。


「実桜は最後に何を落としていったの?」

 葬式の日、去ろうとする大地に実桜の母親は尋ねた。こめかみから嫌な汗が伝ったことを覚えている。


「前にある人に聞いたことがあるの。人はみんな何かを落としながら生きている、それが彼には見えるんだって。当時は半信半疑だったけれど実桜が私に見えないものを見ているって気がついたときにその話を思い出した。ああこの子はあの人と同じものを見ているんだ、って」


 大地は実桜とはじめて話したときのことを思い出す。緑のペンと一緒に落ちていた花びらは実桜の「おとしもの」だった。




「最後の『おとしもの』を拾って欲しい」

 実桜からそう頼まれたとき、大地はしばらく身体を動かせなかった。最後の『おとしもの』は通常の『おとしもの』よりも早く消えてしまう。死に目に会える人でなければ拾うことは難しいだろう。それに実桜はもしかしたら。

 大地の脳裏に儚く消えた桜の花びらが蘇った。


「大丈夫、策はあるから」


 付き合っているフリも実桜の家に来ていたのもすべてそのためだった。実桜の母親に顔を覚えてもらい死の瞬間に立ち会うため。おかげで大地は病院で実桜の最期の『おとしもの』を拾うことができた。





「拾ったんでしょう?」

「、、、はい」


 大地の様子に実桜の母親が訝しげな表情をする。

 今日まで必死に考えた。どうして実桜は最期の『おとしもの』を自分に託したのか?これを自分はどうするべきなのか?正解は今もわからない。でも、今しかない。チャンスは、今しかない。


「死ぬことは悪いことじゃない」


 大地は実桜の母親をまっすぐに見つめ、次の言葉を発した。


「だけどお母さんは死なないで、と」

「…どういうこと?」

「実桜さんの残した、伝言です」


 実桜の最後の『おとしもの』は種だった。小指ほどの大きさの丸い種。それを手にした瞬間、大地は聞いた。


「お母さんを助けて」


 実桜の心の叫びが大地の脳内に響き渡った。それと同時に母親への軽蔑、感謝、怒り、、、そして大地に対する思い。頭が痛い。今でも、痛い。


「私を生きる理由にするのはまだ許せる。けど、死ぬ理由にするのは許さない。死んでも許さない」


 みるみるうちに実桜の母親の目には涙が溜まり、溢れた。葬式でも崩さなかった顔が崩れていく。


「どうしてわかったの?口にしたことなんてないのに」

「…娘だから」


 相変わらず窓の外では雨が降っている。





 病院の窓から見る景色はいつもどこか別世界のようで清潔に保たれた空間の異質さを際立たせていた。


「九月の雨、ね」


 母は外の景色を眺めて、どこか遠い日を見ていた。


「どこ見てるの」

「うーん、分かれ道かな」


 困ったような悲しいような複雑な表情だった、気がする。



「ありがとう。それと、ごめんなさい」


 帰り際、実桜の母親はまだ少し濡れている頬に手を当てて言った。大地は靴を履きながら言葉の意味を考えてみる。


「逆です」


 「ごめんなさい、ありがとう」この2つの言葉を一緒に言うとき、母はいつも決まってごめんなさいを先に言っていた。


「そうね。さくらはいつもそうだった」


 私もさくらだけど、と実桜と同じように笑う。実桜が生きていたら歳を重ねるにつれてますます母親に似ていたのかもしれない。






 雨上がりの道を傘を片手に歩く。雨の匂いと雫の落ちる音。今日のことをいつかまた思い出すのだろうと、なんとなく思った。

 

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