風街加奈子のミステリー

@fu-yu-yu

風街加奈子の事件簿

 0プロローグ


「はぁもう最悪……」

 十九時過ぎから突然降り出した大雨の中、スーツ姿のサラリーマンがちらほらと歩く駅前の大通り。艶々な黒髪を一つに束ね真っ黒なパンツスーツを身にまとった風街加奈子は、雨に濡れないように気をつけながらも自宅のマンションまでの道のりを足早に歩いていた。片手で小さな紺色の折り畳み傘を握って、もう片方の手で中身が濡れないようにと鞄を体の正面で抱きかかえる。夏もそろそろ終わりを迎える時期ではあるが、じめじめとした熱気が彼女のスーツにまとわりついてくる。

 時刻はすでに二十二時を回っていた。連日の空き巣事件の捜査でここ最近は残業続き、それに加えてこの大雨。加奈子はこんな日くらい職場まで車で迎えに来てくれる優しい彼氏や優雅にタクシーで帰れるようなお金なんかが降ってきてくれてもいいじゃないかと、叶いもしない愚痴を心の中でこぼす。もちろんそんな彼女の思いは空しく、雨はザァザァと音を立てて加奈子が二駅隣のデパートで買った少しお高いスーツを無情にもびしょびしょに濡らしていくだけだった。

 駅から歩いて十五分ほどのマンションに着くと、傘を開いたまま玄関に干して、それから濡れてすっかり色が濃くなったスーツを最近購入したばかりの乾燥機に突っ込んだ。軽くシャワーを浴びた後は睡魔と空腹が同時に襲いかかってくるが、まずは化粧水やらなんやらを丁寧に顔に塗っていく。それから艶々な黒髪を維持するためにとヘアケア用品とドライヤーを手にするあたり、同僚たちから密かに美人と言われるだけのことはある。

 しっかり髪を乾かした後は昼の残りのコンビニ弁当を頬張るとなけなしの力を振り絞って歯磨きを済ませシングルベッドに飛び込む。

 それからゆっくりとベッドの上を転がると、うつ伏せの状態で頭を上げる体勢になる。枕元の明かりをつけ、側に置いてある加奈子の好きなミステリー作家の新作を開く。加奈子にとっての至福のひとときが始まった。就寝前にミステリー小説を読むのが、彼女の一日の楽しみなのである。

 しかし手元の小説を三行読むか読まないか。加奈子が疲労の溜まった体をベッドに沈めてから彼女の寝息が聞こえてくるまでにかかった時間は、たったのそれくらいであった。


 1 発見


 翌朝。そんな加奈子を叩き起こすのは、優しい彼氏でも目覚まし時計のアラーム音ですらもなく、上司からの電話だった。加奈子は無意識のうちに拒否と書かれた赤いボタンを押そうとする指をどうにか動かして電話に出る。

「はい風街です。おはようございます、はい……」

 一通り話を聞いてから電話を切ると、ふぅとため息をついて枕に顔をうずめる。それから三秒後、眠気を振り払うかのようにがばっとベッドから起き上がってカーテンを開けた。雨はすっかり止んだようで、窓についた水滴に朝焼けが反射する。しかし加奈子には窓から薄っすらと降り注ぐ朝日をのんびりと浴びるような時間の余裕はなく、さっそく昨日干した真っ黒なパンツスーツに着替え始めた。

 加奈子が一人暮らしを始める前に想像していたようなコーンフレークにヨーグルト、フルーツたっぷりの優雅な朝食はどこへやら、朝ご飯はスーパーで安売りされていたロールパンを野菜ジュースで流し込む。それから洗面所に移動して鏡の前で鎖骨まで伸びた黒髪を一つに束ねる。この艶々の黒髪よりもブラックな早朝の呼び出しに、仮病でも使おうかという思いが一瞬たりとも頭をよぎらないのが風街加奈子の良いところでもあり、怖いところでもある。

 二十分ほどで仕事モードを整えると、鞄を片手に急いで家を出た。


 風街加奈子は警視庁立川署勤務の現役刑事だ。

 男だらけの職場で比較的若手の女性刑事である彼女はいるだけで華とでも言うべきだろうか。本人はいたって真面目でしっかり者、上司への気遣いもできる健気な刑事だが、幼い頃からの推理小説好きが影響してか少し事件好きな変わり者でもある。

「まったく、こんな朝から殺人事件だなんて物騒ね」

 そう呟きながらも、殺人事件という響きは加奈子のやる気に火をつける。

 目の前に立つ二階建ての小さなアパートは、白く塗装された外壁が汚れて灰色になっている。まあどこにでもありそうな少し古びたアパートだ。周りには数台のパトカーと少々の野次馬が集まっており、アパートの入り口付近には「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープが張られている。

 加奈子は野次馬を横目に規制線の中に入ると、ドアの前に立つ制服巡査に挨拶して階段を上り、二〇三号室の田上と書かれた部屋に入った。

 玄関には無造作に脱ぎ散らかされている男物の黒い靴と、隅には女物のローヒールが並んでいる。加奈子は手袋を付けながら短い廊下を進み、鑑識や検視官の集まるリビングに足を踏み入れた。

 部屋の正面には薄型のテレビとミニテーブル、茶色のソファーが置かれている。奥の壁にはベランダにつながる窓があり、壁際の棚にはデジタル時計や本が並べられていた。目立つ家具はそれくらいの質素な部屋だが、床にはゴミ袋や男物の服、ミニテーブル周辺には開けっ放しのカバンやお酒の缶などが散乱しており、お世辞にもきれいとは言い難かった。そんな中――

 ソファーとミニテーブルの間に、一人の男性が横たわっていた。

 明るい茶色に染められた髪は肩まで伸びており、上下とも藍色のスウェットを着ている。年齢は二十代後半といったところだろう。その腹部にはナイフのようなものが刺さっており、滲んだ血が変色して固まっている。男の顔色からすでに息絶えていることは明らかだった。覚悟はしていたものの、周囲に飛び散り滲んだ血の跡に加奈子はうっと顔をしかめる。

 遺体を確認すると、腹部に刺さったナイフ以外に首を絞められたような跡や外傷はない。死因はナイフで刺されたことによる失血死だろう。

 それから近くに落ちているカバンに目を向けると、黒い二つ折りの財布が顔を出している。鑑識に許可を取って中を開いてみると、お札だけが抜き取られているようだった。

「強盗殺人、と言ったところかしら」

「なるほどね」

「うわぁ、小鳥遊警部」

 遺体を観察していた加奈子の背後から、加奈子を早朝にたたき起こした張本人が顔を出した。

「うわぁ、とは何だい風街君。すまないね、お待たせしてしまったかな」

「いえ全然」

「こんな早朝から事件だなんて、世の中物騒だよなぁ」

 小鳥遊警部はどこかで聞いたようなセリフを言うと、眠そうな目を細めて気怠げにため息をつく。

 上司に気づかいのできる優秀な部下である加奈子はそうですよねぇと相槌を打ちながらも、その表情は小鳥遊警部のものとは真逆である。

 小鳥遊警部はその優れた観察眼から若くして出世した優秀な警部であり、加奈子の尊敬する上司である。加奈子が新人の頃からお世話になっていて、加奈子の拙い推理を聞いては褒めてくれる優しい人だ。このブラックな環境でも心を折らずに刑事をしてこられたのは、半分は加奈子の事件に対する静かな情熱と、もう半分は彼のおかげと言っても過言ではないだろう。

 ただ、パーマをかけた髪に高そうなスーツを着くずす姿は、警察というよりはやる気のないサラリーマンのそれである。それに加えて眠そうな目つきとおっとりとした言動は、ただでさえ少ない彼の優秀そうな雰囲気を八割以上削り取っていた。

「それで……状況はどうなっているんだい?」

 片手をポケットに突っ込みながらそう尋ねる小鳥遊警部に、側に立つ若い男性の巡査が答える。

「被害者は田上綾人氏、二十七歳男性です。大学を三年間留年したのちに退学。その後は定職につかずにアルバイト生活を送っていたようです。先ほど検視の結果が出たのですが、死亡推定時刻は今日の深夜一時前後で、死因は腹部を刃物で刺されたことによる失血死。凶器は包丁で、指紋は検出されませんでした。傷の深さから自殺の可能性は極めて低く、何者かに刺殺されたと思われます」

「財布から現金が抜き取られているようだが、他に盗品は?」

「被害者のスマートフォンが見つかりませんでした」

「スマホか……」

 巡査の説明が一通り終わると、加奈子は昨日まとめた資料の内容を思い浮べた。

 ここ最近立川市内で空き巣事件が多発しており、その犯人はまだ捕まっていない。何件かの目撃情報はあるものの決定的な手掛かりを得られずに、捜査は行き詰まっているのだ。現金を抜かれた財布、というのは加奈子に、そしてきっと小鳥遊警部にも直近の空き巣事件を思い起こさせただろう。

「この事件、最近の空き巣事件と同一犯の犯行なのでしょうか」

 加奈子の言葉に小鳥遊警部はうーん、と人差し指を額に当てて、風街くんはどう考えているんだい? とその細い目を加奈子のほうへ向ける。

「私は、同一犯の可能性もあると思いますが……ただ犯行時刻が気になります。今までの空き巣犯は正午過ぎから夕方、家に人がいない時間帯を狙っての犯行でした。ただ今回の犯行は深夜一時前後。周りに人目はないかもしれませんが、家の中に人がいる確率は高いです。空き巣をしていた人が、わざわざそんな時間に犯行時刻を変える理由が分かりません」

「ああ、その通りだね」

 小鳥遊警部はそう言って優しく目を細めるので、加奈子は少し嬉しくなる。

 警部は、まだ何とも言えないが、と前置きして口を開く。

「僕も空き巣と同一犯と考えるのは危険な気がするよ。偶然タイミングがかぶってしまっただけで、空き巣とは全く関係のない強盗殺人……または強盗殺人に見せかけた計画殺人、という可能性もあると僕は思う」

「そうですね」


 それから加奈子は小鳥遊警部と手分けして現場の状態を確認した。

 まずこのアパートの管理人に問い合わせたところ、防犯カメラはついていないとのことだった。またこの部屋の玄関のドアは普段からしっかり施錠しているようで、昨晩鍵が開けっぱなしだったという可能性は低いという。玄関のドアの鍵穴に細工した形跡などはなく、鍵を無理やり破り侵入した可能性は低そうである。窓の鍵も同様で、そしてそれらも小林優花が遺体を発見したときから閉まっていたという。まあ例えリビングにある大きな窓の鍵が開いていたとしても、唯一足場となりそうな雨樋は人一人体重をかければ折れてしまいそうだ。それに加えて昨夜は大雨が降っていたため、窓からの侵入も厳しいと考えて良いだろう。

 そこまでのことが判明すると、加奈子たちの中にあった二つの選択肢――強盗殺人、あるいは強盗殺人に見せかけた意図的な殺人――はあっさりと一つに絞られた。

「この事件、強盗が目的の殺人という可能性は低そう、ですよね」

 再びリビングに戻った加奈子がそう口にすると、小鳥遊警部もそうだね、と細い目を加奈子に向ける。

「状況からして強盗殺人と判断するにはあまりにも都合がつかない。これからは田上綾人の部屋に出入りできる者による殺人を視野に入れて捜査を進めようか」

「はい」

 警部の言葉に頷く加奈子の頭の中には、真っ赤な文字かつシリアスなフォントで「殺人事件」という四字熟語が浮かんでいる。小鳥遊警部は闘志をみなぎらせる加奈子の表情を見て、また始まったなと苦笑しながらそんな彼女の背を軽くポンと叩く。

「そろそろ、第一発見者の彼女から話を聞いてみようじゃないか」

 小鳥遊警部はそう言うと、はい! と元気よく返事をする加奈子を連れてリビングの隣にある寝室のドアをノックした。


 2 第一発見者


 第一発見者は被害者と同棲している小林優花氏、二十四歳。現在は週五でアパレル系の企業に勤務している、どこか気の弱そうな小柄な女性だ。被害者とは大学生の頃から交際関係にあり、一年ほど前に同棲を始めたそうだ。しかし昨日は友人と飲んだ後そのまま友人宅に泊まっており、六時過ぎに帰宅した際被害者の発見に至ったという。

「昨日は仕事が早く終わったので十八時過ぎに帰宅しました。その後は大学からの友人と二人で……佐々木美空という子です。彼女に連絡したら十九時前には家に着く電車に乗れそうだと言っていたので、私から誘って彼女の住むアパートで飲む約束をしました。着替えて少し休んだ後、十九時半頃だったと思います。家を出てコンビニに寄ってから歩いて彼女の家へ向かいました」

 小林優花は痩せている体を両手で抱えながら、少し震えた声で昨日の行動を話した。気の弱そうな性格に加えて彼女の見た光景が相当なショックだったのだろうか。かなり怯えているように見えた。

「その後はずっと美空と一緒に、彼女の家で飲んでいました。私はそんなにお酒に強い方ではなくて二十三時前には寝てしまったようで、それから六時前に目が覚めて、仕事もあるので同じく寝ていた友人に一言かけてから帰ってきました。そうしたら家の鍵が開いていて」

「田上氏の遺体を発見したのですね?」

「はい」

 加奈子の問いかけに頷くと、彼女は俯いて薄茶色のカーディガンの裾をぎゅっと握った。

 メモを取りながら相槌を打っていた加奈子は、では何点か質問させていただきますね、と前置きすると、俯く小林優花に目線を合わせながら口を開いた。

「まず田上綾人についてですが、普段どのような性格でしょうか。誰かから恨まれているなど、何か彼が殺されるような心当たりはありますか?」

 加奈子の質問に、小林優花は少し顔をしかめる。

「綾人は普段はあまり口を開かないような人です。毎日適当な時間に起きて、バイトに行ってお酒を飲んでの繰り返しです。彼の交友関係はあまり知らないのですが、酒癖が悪いので何かトラブルに巻き込まれたりはしているかもしれません。ときどき外で飲んでいるようですし」

「昨日は外で飲まれていましたか?」

「いえ、昨日はバイト帰りにコンビニかどこかで買ってきて家で飲んだのだと思います。外に飲みに行くことがあるとは言いましたけど、そんな頻繁には行きませんし、家でかなりの量を飲んでいたようだったので」

 加奈子はミニテーブルの周りに散乱していた空き缶を思い出す。確かに外で飲んでおきながらあれだけの量を飲むなんてことはそうないだろう。

 加奈子は分かりました、と頷いて次の質問を投げかけた。

「では、この部屋の鍵を持っているのは田上綾人さんと小林優花さんのお二人だけでしょうか?」

「はい、私と綾人だけです。アパートの管理人も合鍵は持っていないと言っていました」

「では昨日の時点でどちらかが鍵をなくしていたというようなことは?」

「私は自分で持っていましたし、綾人も昨日は私が家を出た後に帰ってきたので鍵は持っていたと思います」

 ということは、昨晩使うことのできたこの家の鍵は小林優花の持っているものだけということになる。加奈子はちらっと小鳥遊警部に目を向けてから、分かりました、と相槌を打った。

 それから手帳を見ながら何点か確認を取ると、加奈子は何か質問はないかという意味を込めて小鳥遊警部のほうを見る。警部は「一つ確認だけ」と言ってその細い目を小林優花に向けた。

「今日の午前一時前後、あなたは友人宅で寝ていたということでよろしいかな?」

「はい」

「そのときご友人は?」

「本人に聞かないと分からないのですが、今日も仕事があると言っていたので、きっとそんなに遅くまでは起きていなかったと思います」

「なるほどねぇ」

 小鳥遊警部はそれ以上何か質問する様子はなさそうだったので、加奈子はメモを閉じて小林優花と向き合う。

「ありがとうございました。ではまた何か思い出したことがあれば教えてください」

 そう言って頭を下げると、加奈子たちは寝室を後にした。


 その後加奈子たちは同じアパートの住人たちからも聞き込みを行なったが、犯行時間が深夜であるため有力な情報は得られなかった。

 再びリビングに戻ると、加奈子たちは今までの情報を整理しながら犯人の絞り込みを始めた。

「可能性があるのはこの家の鍵を持っている小林優花、またはその鍵を盗んで使うことのできた佐々木美空でしょうか? 小林優花の話を聞く限り、彼女たちはお互いが寝ている間に田上綾人の部屋へ行き彼を殺害することは十分可能です。あ、でも共犯という可能性もありますね」

 小鳥遊警部はその通りだね、と頷く。

「ただ、もし共犯だとしたらわざわざ二人で同じ部屋にいたというのに、どちらにもアリバイがないというのはおかしいと思わないかい? それと犯人は田上綾人の知り合いという可能性もある。それなら事前に連絡しておけば鍵を開けておいてもらうことができるのでね。まあ平日の深夜に、という疑問はぬぐい切れないが、彼のような人の友人ならありえないこともない」

「確かに……その可能性もありますね」

 小鳥遊警部の言葉に頷きながらも、加奈子には先ほどの小林優花の言動が引っかっていた。

 もし田上綾人の殺害が計画的な犯行であったとするならば、このタイミングでわざわざ友人の家に飲みに行くというのはアリバイ作りのように見える。それにあのやけに怯えた態度も気になった。二人が交際関係にあるというのならトラブルはつきものだろうから、殺害の動機ならいくらでもありそうだ。

 加奈子の頭の中では「第一発見者を疑うのは捜査の鉄則」という言葉がぐるぐると回っている。今回の事件はその言葉通り、とことん疑った方が良さそうである。

 そこまで考えて、加奈子は新人の頃に小鳥遊警部によく言われていた「真っ直ぐなのは良いことだが、君は少々突っ走りすぎてしまうところがあるからね」という言葉を思い出す。

「とりあえず小林優花の証言の確認も含めて、佐々木美空から話を聞かないと何も始まらないですね。私は佐々木美空に話を聞きに行ってきます」

「おお、いい働きっぷりじゃないか」

 小鳥遊がそう言うと、加奈子は足早にアパートの一室を後にする。その行動力は称賛に値するが、人の話を最後まで聞くのも大切である。

「ただ佐々木美空は今日も仕事だと言っていたんじゃないか……ってもういない。今は平日の真昼間だぞ、風街君」

 小鳥遊警部はやれやれというように肩をすくめながらも、健気に頑張る後輩を止める気はないようだった。


 3 恋人間のトラブル


 そんな加奈子たちのもとに「空き巣犯が捕まった」という連絡が入ってきたのは、その日の午後三時過ぎのことだった。犯人の取り調べから空き巣事件と殺人事件が同一犯の犯行ではないということが明確となり、加奈子は残業の原因となる要素が一つ減って安堵のため息をつく。

 また、加奈子が案の定不在だった佐々木美空のアパートへ行った帰りに近隣にあるコンビニの防犯カメラを確認すると、昨夜七時半過ぎにお酒と菓子類を購入する小林優花の姿と、零時少し前にお酒を購入する田上綾人の姿が映っていた。

 それからは田上綾人のバイト先や大学の頃の同級生を辿って仲の深い友人を何人か尋ねたのだが、ほとんどの人が午前一時前後のアリバイはないものの、家を訪ねるようなやりとりをしていた者もいなかった。


 その日の夕方。加奈子と小鳥遊警部は、小鳥遊警部の愛車であるシルバーのクラウンに乗って佐々木美空の住むアパートへと向かっていた。

 どこからか聞こえてくる防災無線は、今日空き巣犯が捕まったことを告げている。

 佐々木美空の住むアパートは、被害者のアパートから車で五分ほどの所にある。比較的新しそうな建物はベージュに塗装されており、どこかこじんまりとした雰囲気が漂っていた。階段下にある郵便ポストの名前を確認して二階へ上がると、佐々木と書かれたシールの貼ってある部屋の前に着く。

 加奈子は軽く身だしなみを整えてから、手帳を片手にインターホンを押す。しかし数十秒経っても返事はなく、もう一度押してみるも反応はない。

「少し早かったかな」

 小鳥遊警部がそう言うも、加奈子は再びインターホンを押した。

「午前中に来たときはここに傘が干してあったので、一度家には帰ってきているはずなのですが……」

 加奈子はそう言いながら、ドア横にある格子付きの窓を指さす。昼間は確かにそこにベージュの長傘が掛かっていたはずなのだが。

 加奈子の指もそろそろ疲れてきたという頃に、ようやく中から「はぁい」と気の抜けたような返事が返ってくる。 「どちらさまですか?」という問いかけに、加奈子たちが手帳を見せながら警察だと名乗ると、慌てたように玄関のドアが開いた。中から出てきた女性は細身の長身で、右手で丸眼鏡を押し上げる仕草からはどこか繊細さがうかがえた。

「佐々木美空さんでしょうか? 田上綾人さんの件でお話をお伺いしたいのですが」

 加奈子がそう言うと、佐々木美空は戸惑いの表情を浮かべながらも、優花から聞きましたと言って加奈子たちを部屋の中に案内する。

「すみません、寝てしまっていて」

「いいえ、こちらこそお邪魔します」

 お茶を用意しようとする佐々木美空に、お構いなくと言って席についてもらうと、さっそく本題に入った。

 加奈子が佐々木美空の昨夜の行動について尋ねると、彼女は淡々と昨日の行動を順を追って話した。

「二十三時頃に優花が寝た後は、私は今日も仕事があったので軽く片付けをしてシャワーを浴びました。優花にも声をかけたのですが起きる気配がなかったので、そのまま零時過ぎに私も寝ました」

 加奈子は話を聞きながら十八時頃からの佐々木美空と小林優花の行動を照らし合わせてみるが、特に相違点はない。加奈子は手帳にメモしていた質問事項に軽く目を通すと、佐々木美空と目を合わせた。

「お二人は、よくお互いの家で一緒に飲まれるのですか?」

「ええ、優花とは月に二、三回くらいの頻度で飲んでいます。場所は加奈子は綾人さんと住んでいるので、居酒屋に行くか私の家で飲むかのどちらかです。優花が同棲を始めてから彼女の家で飲んだのは綾人さんが家を空けていたときに一度だけ、だった気がします」

「では小林優花が家に来てから、どちらかが長時間席を外すなどということはありましたか?」

「いいえ、優花は家に来てから一度も外へ出ていませんし、私も十九時前に仕事から帰ってきてからは外に出ていません。トイレで席を立つことくらいならありましたけど、ほんの数分程度です」

「その後、小林優花さんが起きたような気配はしませんでしたか? 玄関から物音がしただとか」

「そんなことはなかったと思いますが」

 加奈子の質問にそう答えると、佐々木美空は表情を険しくさせる。

「もしかして優花のことを疑っているんですか?」

「あくまで参考として……」

「そんなはずはありませんよ」

 加奈子の言葉に被せるように、佐々木美空は先ほどよりも低い声を発した。

「確かに優花には田上綾人を殺す動機があるかもしれません。ただあの子はそんなことしない、とても優しい子なんです!」

 佐々木美空は血相を変えて加奈子たちに食って掛かった。そのあまりの豹変ぶりに加奈子たちは面食らう。

「ちょっと、佐々木さん。落ち着いてください」

 小鳥遊警部は佐々木美空の肩に手を置いて彼女をなだめる。

「ところであなた今、小林優花には田上綾人を殺す動機がある、とおっしゃいましたね」

「……はい」

 佐々木美空は少し深呼吸して落ち着いた後、警部の質問にそう答えた。

「優花から、聞いていませんか? 優花が彼氏の田上綾人からDVを受けてる、って……」

 その言葉に、加奈子は驚きのあまり目を見開く。

「昨日もその相談を受けていました。とはいえ、私も詳しく聞いたのは昨日が初めてなのですが」

 佐々木美空は続ける。

「優花は気が弱いところもありますけど、もっと明るい子でした。大学のときだってこんな私に声をかけてくれてましたし。だけどあの男と同棲するようになって半年が経った頃からでしょうか、だんだんと元気がなくなっていって、会うたびに痩せているように感じました。何だか変だと思っていたのですが、優花に聞いても話してくれなかったんです」

 佐々木美空はそこまで一息で言うと、軽く息を吸って俯いた。

「昨日話を聞いて、私は警察に行くよう言いました。しかし彼女は頑なに拒むばかりで」

 それから彼女は、加奈子と小鳥遊警部を交互に見ながら必死に訴える。

「ただ、だからといって優花が彼を殺すはずがありません。彼女は本当に優しい子なんです! どうか彼女を疑うのはやめてください、お願いします」

「佐々木さん、どうか落ち着いてください。貴重な証言ありがとうございました」

 これ以上話を続けるのは困難だと判断した加奈子たちは、彼女をなだめると、もう一度小林優花の話を聞くために佐々木美空のアパートを後にした。


 外はもうすっかり日が暮れていた。小林優花のアパートへの道を戻りながら、加奈子は今までの証言を順を追って思い返していく。

 小林優花と佐々木美空、彼女たちの内のどちらかが犯人。二人の話を聞いて加奈子はそう確信した。

 小林優花を庇う佐々木美空の様子も、田上綾人について話す小林優花の様子もどちらもおかしい。どこかお互いがお互いを庇い合っているような、そんな印象を受けた。

 もしDVの話が本当であれば、明確な動機を持つ小林優花に疑いが向くことになるだろう。しかし小林優花は確実に犯人だと、佐々木美空は確実に白だと断定できる材料があるわけではない。

「困ったもんですね」

 加奈子はため息をつきながら、ちらっと小鳥遊警部の表情をうかがう。

「…………警部?」

 加奈子は彼の表情に、思わず目を見開いた。

 まっすぐに前を見つめる小鳥遊警部の細い目が、さらに細くなっていた。しかしそれはいつも加奈子の推理を褒めるときとは違う、まるで獲物を見つけた猫のような雰囲気を醸し出していて加奈子の背筋には寒気が走る。

 加奈子には分かる。この小鳥遊警部の表情は、犯人が分かったときにするものだ。

 それから警部は前を向いたまま、ゆっくりと口を開いた。

「風街君――は一つ、嘘をついているみたいだね」


 4 犯人


 小鳥遊警部は、事件の犯人が分かったとしてもその人を大勢の前で名指しするようなことは決してしない。

 彼の優れた観察眼は事件解決には不可欠であるし、本人もそれを分かったうえで刑事をしている。しかしと言うべきか、だからこそと言うべきか。彼の人に対する感覚は誰よりも繊細だということに、加奈子は最近気づき始めていた。

 でも加奈子は警部のそういうところが好きだし、尊敬してもしている。

 だから田上綾人の部屋で小林優花の話を聞き終えた後、小鳥遊警部の「ちょっと場所を変えようか」という言葉に加奈子は素直に従った。


 小鳥遊警部の愛車であるシルバーのクラウンの助手席にて。開いた窓から吹き込んだ昨日よりも少し涼やかな風が加奈子たちを撫でる。

「それで、犯人は一体誰なのですか?」

 加奈子は隣に座る小鳥遊警部に、先ほどの言葉の意味を尋ねた。すると警部はハンドル部分に軽く肘をついて、加奈子のほうを見ながらお決まりの文句を口にする。

「まずはその前に、風街君はどう思っているんだい?」

 加奈子はその言葉に頷くと、今思いつく可能性の範囲内で自分の考えを述べた。

 加奈子たちはあの後、田上綾人の部屋に戻ると、さっそく小林優花を呼び出した。DVについて尋ねると意外にもあっさりと事実だと認め、加奈子たちに言わなかった理由に関しては自分に疑いが向くことを避けるためだと言った。しかし小林優花は自分は殺していないと、何度もそう口にした。

 田上綾人によるDVが発覚した以上、田上綾人の部屋の鍵を使える人物の中で明確な動機を持つ者は小林優花となる。彼女が田上綾人を殺害したという証拠があるわけではないが、一番可能性が高いのは今のところ小林優花だと加奈子は考えていた。

「ただ少し気になるのは、もし小林優花が犯人だとしたらDVを受けていたことを隠すくらいですし、少しでも自分に疑いが向かないように田上綾人の鍵を隠したりするのではないかという点です。それと二人の話を聞いていると小林優花と佐々木美空がお互いに庇い合っているような、そんな気がするんです」

 加奈子が話し終わると、小鳥遊警部はああそうだね、と微笑んだ。

「風街君が覚えた違和感は、僕もまったくその通りだと思ったよ」

 小鳥遊警部にそう言われて、加奈子は少し嬉しくなる。

「君はいい着眼点を持っている。だからこそ、その違和感を見逃してはいけないよ」

 加奈子は、はいと頷くと、その言葉を心に刻んだ。加奈子の「いざと言うときに出てくる上司から言われた大切な言葉リスト」はこのようにして増えていくのだ。そんな加奈子を見て、小鳥遊警部はまだまだだなあという風に微笑んだ。

 それから小鳥遊警部が姿勢を正すのを合図にして、加奈子も聞く姿勢を整える。ピンと張った空気の中、小鳥遊警部はゆっくりと口を開いた。

「僕は今まで話を聞いた中で一人だけ、嘘をついている人がいると言ったね」

「はい」

 警部はそう言って、その長い指を一本天井へ向けた。

「佐々木美空は、十九時には仕事が終わって家にいた。そしてそれから一歩も外へは出ていない、そう証言していた」

 小鳥遊警部の言葉に、加奈子は頷く。しかしそれのどこが嘘だというのだろう。

「ただ風街君、君は午前中に佐々木美空の部屋に行ったとき、格子付きの窓にベージュの長傘が干してあったと、そう言っていたね?」

「はい、それが何か……」

 そう言いかけて、加奈子は昨日の夜の光景を思い出す。

 予報外の大雨に、役に立たない折り畳み傘。確か雨が降り始めた時刻は……

「その顔は、どうやら分かったようだね」

 小鳥遊警部はそう言っていつものように目を細めると、あとは君に譲ろうというように加奈子の肩をポンと叩く。

「はい。……昨日立川市周辺では、十九時過ぎから予報外の大雨が降り始めました。しかし十九時には帰宅し、それから家を出ていないはずの佐々木美空の家には長傘が干してあった。もしあの大雨が帰宅時間と多少かぶっていたとしても、使うとしたら折り畳み傘。ただでさえ彼女は電車通勤なのだから、雨の予報が出ていない日にわざわざ邪魔になる長傘を持っていく理由はありません」

 加奈子はそこで一旦区切ると、一度警部と目を合わせて口を開いた。

「つまり佐々木美空は昨日の十九時以降に、家から出ているということになる」

 小鳥遊警部は加奈子の言葉に、そういうことだというふうに頷く。

 加奈子の後に小鳥遊警部が続ける。

「小林優花は田上綾人に脅されていた。もし別れたり警察に言ったりしたら、彼女の職場や回りの人に写真か何かをばらまくとでも言われていたんじゃないかい? 彼女はそれを昨日、佐々木美空に相談した」

 加奈子は小林優花を庇う佐々木美空の様子を思い出す。彼女の小林優花への執着具合を見れば、殺害の動機には十分なり得ると加奈子は思った。

「佐々木美空は少し感情的なところもあるようだし、小林優花に対する恩のようなものは強そうだった。だから彼女が寝た後に田上綾人の部屋に侵入して彼を殺害し、強盗殺人に偽装して財布の中の現金とスマートフォンを盗んだ。はたまたスマートフォンを盗むのが目的で、田上綾人を殺害したのは彼が目を覚ましてしまったからかもしれないね。どちらにせよスマホだけを盗らなかったのは目的の盗品がスマホであることを偽装し、少しでも小林優花に疑いが掛からないようにするためだろう。最近空き巣が多発しているというのは防災無線でよく流れていたしね」

 加奈子は佐々木美空の家へ向かう途中に、防災無線から空き巣が捕まった、と流れていたのを思い出す。確かにここ最近立川市では、空き巣への警戒を呼び掛けているようだ。

「風街君が言っていた違和感――彼女たちがお互いに庇い合っているような気がするというのは、全くその通りだ。死亡推定時刻の前後に二つしかないこの家の鍵を使うことができる人物は小林優花と佐々木美空、この二人だけ。小林優花もそれに気がついていたんじゃないのかな。だから田上綾人殺害の犯人が佐々木美空だったときのことを考えて、彼女が殺害をする動機になりうる昨夜の相談のことを僕たちには話さなかった」

 警部はそこまで言うと、スマホを開いて着信がないかを確認する。

「ただ佐々木美空は突発的な犯行だったために、疑いは彼女の大切な友人である小林優花にかかってしまった。さらに彼女の発言はそれに拍車を掛けた。……もうそろそろ、連絡でも来るんじゃないかな」

 本部から佐々木美空が出頭したという連絡と、今日はもう解散だという指示が入ったのは、それから数分後のことだった。

 警部が話し終わると、車内には沈黙が流れる。加奈子の気のせいかもしれないが、小鳥遊警部は少し悲しそうな顔をしていた。

 警部の考えていることはなんとなく分かる。小林優花。DVに苦しんだ挙句、友人を失った今の彼女を救ってくれるものは、一体何なのだろうか。

 しばらくすると小鳥遊警部はタバコに火をつけて窓の外を眺め始めた。

「警部ー、ラーメン食べに行きましょうよー。働きすぎて疲れました」

 だから加奈子は車の窓を全開にして、明るい声でそう言った。

 何時だと思っているんだいと苦笑する警部に、加奈子はだってお腹が空いたんですもんと返すと、小鳥遊警部はやれやれと笑ってシルバーのクラウンのエンジンをかけた。何かと部下に甘い上司である。

 タバコよりラーメンの方が美味しいんだと力説する加奈子の声をBGMに、シルバーのクラウンは微かに灯りの灯った夜道をゆったりと走り抜けていった。

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