第14話「喪失と欲望の狭間」

 イザベラがヒルジの丘の古い教会に足を踏み入れた瞬間、冷たい風が彼女の肌を刺すように吹きつけた。空には不吉な雲が立ち込め、薄暗い雰囲気が辺りを包んでいた。その瞬間、彼女の胸の奥で不安が揺らぎ始めた。サキュバスとして覚醒した彼女は、その力に対する複雑な満足感と共に、徐々に自分自身を蝕む暗い側面に気づき始めていた。力を使うたびに、記憶が曖昧になり、過去の自分が薄れていく感覚が彼女を苛んでいた。


 その時、外側の者が再び現れた。彼の存在は不気味で、まるで運命が彼女をどこかへ誘っているかのようだった。冷静な口調で、「イザベラ、君にはもう一つの任務をお願いしたい」と彼は言った。その声には冷たさが漂っていた。「先の『ある人物を探れ』という任務よりも、こちらを優先して対応してもらえると助かるかな?」その言葉には何か深い意図が隠されているように感じられた。「ある特定の人物を誘惑し、その者が抱える秘密を暴いて欲しい。ただし、この任務は……君自身にも、非常に重要なものとなるだろう。覚悟はいいか?」彼の瞳が一瞬だけ光り、イザベラはその意図を探ろうとしたが、その深奥には何も見えなかった。その問いかけに込められた不気味な予感が、彼女の心をざわめかせた。


 その瞬間、イザベラの中で抑えきれない感情が爆発した。彼女の心の奥底に潜んでいた憎しみが突如として噴き出した。「アキラ……」その名前が心の中で響き、彼女の意識を支配し始めた。彼女を退職に追い込んだアキラ。その憎しみが心の底から沸き上がり、サキュバスとしての本能が、彼との再会を切望していた。しかし、同時に彼女はその感情を抑え、与えられた任務に集中するしかなかった。


「私に任せて」イザベラは冷たく鋭い目で外側の者を見つめ、力強い声で答えた。しかし、その内心では、彼女は任務の本当の目的が何であるのかを理解できず、迷い始めていた。外側の者が何を企んでいるのか、その意図がますます掴めなくなっていく中で、彼女は自分がどこに向かっているのかさえも見失いつつあった。


 教会内で高い地位を持つ標的に向かう途中、イザベラは過去の自分の記憶が断片的に蘇るのを感じた。かつては冷酷な司教として権力を追い求めていた彼女だが、今やその姿は完全に変わり果てている。彼女を導いたかつての野心や目的はぼやけて見え、その変化に対する不安が彼女の胸に重くのしかかっていた。


「彼は私の魅力に抗えるかしら?」自信を装いながらも、微かな不安がイザベラの心を掠めた。サキュバスとしての力を使うたびに、彼女は自分が何者であるかを見失っていく感覚を抱いていた。彼女の力は強力な武器であり、同時に自身を蝕む危険な毒でもあった。そして、外側の者が彼女を試しているのではないかという疑念が、彼女の心の奥底で膨らんでいった。



 イザベラが標的の司祭に一歩近づくと、彼の目がわずかに動いた。驚き、そして一瞬の警戒がその目に宿る。「気づかれた?」イザベラの心拍が一瞬早まる。だが、次の瞬間にはその警戒が魅了に変わり、彼の顔に微笑が浮かんだ。「これは……天使か、それとも悪魔か?」と、司祭は囁いた。その言葉が彼女に向けられたのか、それとも己に言い聞かせたのか、判断がつかないまま、イザベラは再び一歩踏み込む。だが、彼の微笑みの裏に潜む何かが、彼女の心に不安の種を植えつけた。「この男、ただの標的ではない……」


 しかし、彼女はその思いを振り払い、任務に集中するしかなかった。イザベラは標的に優しく微笑みかけ、彼の心を完全に支配するための言葉を紡ぎ出した。甘美な誘惑の言葉は彼を徐々に支配下に置いていったが、その一方で、イザベラは自身がどんどん変わっていくことに対する戸惑いを深めていた。誘惑の力が強まるたびに、彼女の意志が薄れていく感覚が彼女を蝕んでいた。


「あなたの心の奥に隠された秘密……私に教えてくれる?」彼女の囁きには拒絶できない魅惑が込められており、標的は徐々に全ての抵抗を失っていった。しかし、その言葉を発するたびに、彼女の中で何かが崩れ落ちていくのを感じていた。標的の秘密を暴くたびに、自分の存在が薄れていく感覚が彼女を蝕んでいった。


 標的がアキラとの接触について語り始めた時、その言葉の一つ一つがイザベラの胸に突き刺さった。「アキラは……お前を救おうとしていたのだ、イザベラ。全ては、お前のために仕組まれたことだ」と、標的は呟いた。イザベラの心臓が止まり、次に打つまでの間に、彼女の中で何かが崩れ去った。「彼が……私を救おうとしていた?」一瞬の混乱が心を支配したが、すぐに冷たい現実が押し寄せてきた。もしこれが真実なら、今までの全てが覆る——彼女の存在、目的、そしてアキラとの関わりまでも。だが、その真偽を確かめる術は、もはやなかった。



 それは単なる疑念ではなく、彼女の心の奥底でくすぶる未練と、アキラとの繋がりを求める切実な欲求だった。しかし、その感情が果たして本物なのか、それとも力が彼女に植え付けた虚偽なのか、彼女にはもう分からなかった。


 任務を成功させ、標的の全ての秘密を暴いた後、イザベラは自らの力に対する不安と満足感の狭間で揺れていた。「これが……私の新たな力……」彼女は自分が変わり果ててしまったことに気づき、自己の喪失感に苛まれるようになった。サキュバスとしての力は強大であればあるほど、彼女から何か大切なものを奪い去っていることに気づいていた。力が増大するたびに、彼女の記憶がさらに曖昧になり、かつて自分がどんな人間だったのかさえも思い出せなくなりつつあった。


 イザベラはアキラに関連する陰謀の核心に近づくために次のステップを考え始めたが、その過程でサキュバスとしての力が自身の人間性を蝕んでいることに気づいた。力を使うたびに、自分が何者であったかを思い出せなくなり、孤独感が深まっていく。それはまるで、自分の存在が少しずつ消えていくかのような感覚だった。過去の喜びや悲しみが遠い過去の記憶として消え去りつつあった。


「私が何者であったか……もう思い出せない……」イザベラは鏡の前に立ち、自らの姿を見つめた。かつて輝いていた瞳は、今や冷たく光を失い、その奥底に闇が広がっている。髪は漆黒に変わり、肌は青白く、生命を奪われたように見えた。彼女は自らの手を見つめた。細長く、まるで骸骨のように変わり果てた指が、彼女の意志に反して震えている。「これが……私なの?」と、鏡の中のサキュバスが嘲笑を浮かべたかのように見えた。イザベラは目を背けようとしたが、鏡の中の自分から目を逸らすことができなかった。


 標的を操ることに成功しても、彼女は内心で徐々に崩れ落ちていく自分を感じていた。サキュバスとしての力が増大する一方で、人間らしい感情が薄れていく感覚に不安を覚え、次第に孤独と無力感に苛まれていく。かつて感じた喜びや悲しみが遠い記憶となり、自分がただの力の器になってしまうのではないかという恐怖が彼女を支配し始めた。


 イザベラの内面的な葛藤は、彼女の行動や思考に強く反映されている。彼女は新たな力に酔いしれる一方で、自分が何者であったかを忘れ始めていることに気づき、自己の喪失感に苛まれる。その一方で、外側の者は彼女の変化を楽しんでいるようであり、彼が何を企んでいるのか、ますます謎めいていく。彼女の迷いと不安を感じながらも、彼はまるで彼女の苦しみが望む結果であるかのように微笑んでいた。


「君の進化は見事だ、イザベラ。だが、その力が何をもたらすか……君自身が選ぶべきだろうね」彼の言葉はまるで遠い未来を暗示するかのように響き、イザベラの心に新たな疑念と不安を植え付けた。外側の者の言葉が、彼女の心の中に新たな闇を落とした。


 標的の人物が明かした秘密は、教会内部で進行中の陰謀やアキラに関する重要な情報を含んでいた。アキラと教会の間には複雑な関係があり、その関係は今後さらに複雑化していくことが示唆された。イザベラはこの情報を元に、次の一手を考え始めるが、サキュバスとしての力が増大するにつれ、自分の意志が徐々に薄れていくのを感じる。まるで、自分が単なる駒に過ぎないかのように。


「アキラ……彼は何を考えているのかしら……?」イザベラは標的の言葉を反芻しながら、アキラと教会との関係を考え直す。彼女の中で、アキラに対する感情が徐々に変化していくのを感じながらも、それが何であるのかを理解するにはまだ時間がかかりそうだった。しかし、その感情が彼女を強く引き寄せていることは間違いなかった。彼女の心の中に芽生えた疑念と欲望が、彼女を再び動かし始めていた。


 イザベラがサキュバスとしての力を使うことで、教会内部にどのような影響を与えるのか、そして彼女自身がどのように変わっていくのか、物語は次第にクライマックスへと向かっていく。彼女が再びアキラと対峙する瞬間が近づくにつれ、彼女の心の中で新たな葛藤が芽生えていく。それは、彼女が完全にサキュバスとしての存在に堕ちるのか、それともかつての自分を取り戻すのかという、究極の選択に直面する瞬間へと導かれる。彼女の心の迷いが晴れることはあるのか、それとも彼女はこのまま力に溺れていくのか――その答えは、彼女自身の選択にかかっていた。

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俺だけ勇者専用の『退職代行者』全勇者を消し去る本当の理由 〜神はお前を許さず、外側の者はお前を導く〜 雨井 雪ノ介 @amei_yukinosuke

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