第13話「審判の夜」

 夜が深まり、厳粛な教会の会議室に大司教たちが集まっていた。巨大な丸いテーブルを囲み、薄暗い灯りが静かに揺れている。テーブルを囲む大司教たちの顔には、それぞれ異なる感情が浮かんでいた。焦燥、怒り、恐怖、そして何よりも――迷い。


「アキラが、次々と勇者を辞職させている……! このまま放っておけば、教会の秩序は崩壊する!」


 短気で知られる大司教ベルモンドは、感情を抑えきれず声を荒げた。その目は、他の大司教たちを鋭く見渡していた。ベルモンドの心の中には、かつて異端者として親友を処刑した時の苦い記憶が渦巻いていた。彼が秩序を守ろうとする執念は、過去の傷を癒すためのものであり、その痛みが再び蘇ることを恐れていた。


「だが、彼がしていることは本当に悪なのか?」


 冷静な大司教セルジュが静かに問いかけた。その言葉は他の大司教たちを戸惑わせたが、次第にざわめきが広がっていった。彼の背後には、かつて異端の疑いをかけられた恐怖が影のようにまとわりついていた。セルジュはその疑念を払い除けるように声を低くして続ける。


「勇者たちの力が制御不能となり、危険を招くのは事実だ。だが、彼を討とうとすることが、我々自身の権威を揺るがすことにはならないか?」


 会議室の空気は鉛のように重く、呼吸すら困難だった。大司教たちは、各々が何かに押し潰されるような沈黙の中で、互いの顔を見合うことすら避けていた。感情的な反応を見せる大司教たちもいれば、言葉を飲み込む者もいた。


「教会の秩序を守ることが何よりも重要だ。彼を放置すれば、我々の権力は失墜し、教会そのものが崩壊する」


 保守的な大司教マルコムが強く言い放った。彼は教会の伝統を崇拝し、アキラの存在を重大な脅威とみなしていた。マルコムにとって、教会の秩序を守ることは自分の家族の名誉を守ることでもあった。その誇りと信念が、彼を頑なにし、柔軟さを欠けさせていた。


 やがて沈黙が支配した会議室。そこへ、最も権威ある大司教グレゴリウスが立ち上がった。その動きだけで、全体に重々しい威圧感が広がる。


「アキラを排除するには……禁忌に触れるしかない。天使を、召喚する!」


 彼の言葉に、全員が息を飲んだ。天使召喚はかつて教会が守護者として呼び出した強大な力だったが、同時に制御を誤れば破滅を招く禁忌でもあった。


「しかし……天使を召喚することには、我々全員が命を賭けるほどのリスクが伴います」


 若く未熟な大司教ジュリアンが声を震わせながら問いかけた。彼は他の大司教たちに圧倒され、普段は自らの意見を押し殺していたが、この時ばかりは勇気を振り絞った。


「それでも他に選択肢はない。我々が築き上げてきた秩序が崩壊すれば、世界は混沌に陥るだろう」


 グレゴリウスの厳粛な言葉に、他の大司教たちも次第に頷き始めた。彼らはアキラの脅威に対抗するため、禁忌に手を染める覚悟を決めた。



 天使を召喚するための儀式は、教会の地下深くで最も厳重に封印された部屋で行われた。その場所は、聖堂と同様の規模で天井まで非常に高い作りであった。暗闇に沈んだ部屋の中央、荘厳な古代の祭壇がじわりと光を放ち、その光が不気味に広がり始めた。大司教たちは、その光に包まれながらも、それぞれが心の奥に恐怖を抱えていた。


「もしこの儀式が失敗すれば……我々全員が灰になるかもしれない」


 緊張した声で呟いたのはマルコムだった。彼の手は微かに震えていた。その震えが、彼の心の奥底に巣食う恐怖を露呈しているかのようだった。それでも彼の目には揺るぎない決意が宿り、瞳は鋭く光っていた。彼は信じていた。自分たちが行うこの儀式こそが、世界を救う唯一の手段であると。


 一方、若いジュリアンは言葉を失い、視線を床に落とした。会議室で繰り広げられる激しい議論に圧倒され、彼は一歩も動けず、ただ静かにその光景を見つめることしかできなかった。心臓の鼓動が耳元で響き、汗が額を伝っていた。未熟な彼には、状況の深刻さが理解できないわけではなかった。しかし、自分が何をすべきか、どのように行動すべきかを理解するには経験が足りなかった。


「天使よ、我らが呼びかけに応え、地上に降り立ちたまえ……」


 グレゴリウスが厳粛な声で唱えると、部屋の空気が一気に変わった。青白い光が魔法陣を包み込むと、空間そのものが歪み、圧倒的な力が辺りを支配する。その瞬間、祭壇の上に、金色の翼を広げた天使の姿が浮かび上がった。天使の目は無機質でありながら、全てを見透かすような冷たい光を放っていた。



 その天使は圧倒的な存在感を放っていた。背中には六枚の巨大な翼が広がり、金色の光に包まれた全身は神々しさと冷酷さを同時に漂わせている。彼の目は大司教たちを冷たく見下ろし、その一瞥だけで彼らの心を深く揺さぶった。


「誰が我を呼び覚ましたか……」


 天使の声は低く響き渡り、大司教たちはその声に圧倒され、言葉を失った。ようやくグレゴリウスが一歩前に進み、声を張り上げた。


「アキラという名の異端者が、神々の秩序を乱しています。その力を持って彼を排除していただきたい」


 天使は無表情で彼を見下ろし、短く答えた。


「自己を見失った者は、我が裁くべき存在ではない。しかし、力を制御できぬ者が秩序を乱すなら、それを正すのが我が使命だ」


 天使はその言葉の後、部屋を見回し、全員に冷たい視線を向けた。


「この中に、女神に対する裏切り者がいる……」


 その言葉に会議室の空気は凍りつき、全員が無意識に息を止めた。


 大司教たちは互いに不安そうに顔を見合わせた。ベルモンドは鋭い目で他の者を見回し、ふとマルコムを睨んだが、すぐに目を逸らして深呼吸した。過去の裏切りの記憶が甦り、自らの判断に疑念を抱き始めたのだ。


「裏切り者……この中にいるというのか……」


 冷静を装っていたセルジュも、心の中に得体の知れない恐怖が広がるのを感じていた。彼は眉をひそめ、静かに呟いた。


「確かに、この中には裏切り者がいるのかもしれない。だが、それを天使が知っているとは……」


 その言葉に、会議室の緊張感が一層高まった。グレゴリウスが低い声で言い放つ。


「言い逃れはできんぞ、マルコム。お前の行動は全て見透かされている」


 それに対し、マルコムは顔を赤らめ、反論する。


「何を言う、グレゴリウス! そちらこそ何を隠しているのだ!」


 天使の前だというのに、マルコムとグレゴリウスの間で言い争いが激しさを増す中、他の大司教たちも次第に巻き込まれていった。それぞれが己の正義を主張し、地下の大聖堂は完全に混乱の渦に包まれた。


 ジュリアンはその光景を見つめながら、自分の無力さを感じていた。大司教たちの中で最も若く、経験も浅い彼は、他者に対して自らの意見を強く主張できない自分に苛立ちを覚えていた。彼の心には、教会の未来が大きな岐路に立たされていることへの恐れが渦巻いていたが、口を開く勇気はなかった。


 その時、天使が再び口を開いた。


「我が任務は、秩序を乱す者を排除することだ。今、その者の力がどこにあるのか、我には見えている……」


 天使の目が一瞬鋭く光り、その瞬間、彼の目が遥か遠く、アキラの存在を察知したかのように見えた。彼は背中の六枚の翼を大きく広げ、まるで風が吹き荒れるような音を立てた。


「秩序を乱す者を……排除する」


 そう言い放つと、天使は巨大な翼を一振りし、強烈な風を巻き起こして部屋を飛び去った。彼の姿は一瞬にして教会の天井をすり抜け、夜空へと消えていった。


 部屋には再び重苦しい沈黙が広がった。大司教たちは天使が飛び去った後、互いに顔を見合わせ、不安と恐れに包まれながら立ち尽くしていた。


「これで、本当に良かったのだろうか……」


 セルジュは静かに呟いたが、その言葉には確信が欠けていた。彼の心の中には、教会が選んだ道が本当に正しいのかという疑念が渦巻いていた。しかし、彼はその思いを言葉にする勇気を持たなかった。


「制御可能な毒物と制御不可能な毒物では、前者の方がまだ扱いやすい……だが、我々は最も制御が困難なものを選んでしまった……」


 セルジュの呟きが薄暗い会議室に静かに響いたが、その言葉に応じる者はいなかった。

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