望潮

往雪

望潮




 僕は彼女の背中から視線を背けると、「……シオマネキ」と呟いた。


 彼女はしゃがんだまま首をこちらに振り返らせると、目を輝かせた。

「このカニ、シオマネキって名前なの?」


 彼女はそう言って、両手でハサミの形を作りながら首を傾げる。その天然な仕草に僕は一切の興味がない振りをして、遥か高くの橋梁の裏側を眺めながら返す。


「……そうだよ。潮を望む、でシオマネキ」

「へぇ、いい名前だね。名倉なくら海理かいりと同じくらい、いい名前」


 彼女はまたシオマネキの方に興味を移したようで、左右で大きさの違うハサミを持つ白っぽいカニを、つんつんと指先で突っついている。

 シオマネキはというと、巨大な敵にハサミを振り上げ威嚇しているようだけど、何の意味も為していない。むしろ彼女はカニが反応を示して上機嫌のようだ。


「なんでそこで僕の名前が出るんだよ」

「んー……、いい名前っていう共通点があるから?」


「…………」

「あ、黙った。恥ずかしくなるといつも黙っちゃうんだから」


 くすくすと笑う彼女に、僕は視線も言葉も返さない。でも、この場所を去るのも違うというか負けた気がして、結局何もできずにいる。




     ◇




 彼女──逸水いつみ渚沙なぎさと僕が出会ったのは、剣道部の部活をサボって、橋の下で時間を潰していた時のことだった。

 部活では先輩達にイジられ、家に帰れば部活はどうしたと父親に怒られ。

 そこで僕が居座ることにしたのが、この橋の下だった。


 たまに散歩をしているお爺さんが通るくらいで、人通りはほとんどない。川が近いため残暑を凌げるくらいの涼しさもある。そんな場所。

 ようやく見つけた僕だけの居場所だと思っていたところに、彼女はやってきた。


 さらっとした長い髪に人懐っこそうな笑顔。最初は向こうも、こんな場所に人がいることに驚いたようで、どこか距離感のある礼儀正しいやりとりをしていた。


「──すみません。私もここ、いいですか?」

「…………ああ、うん。いいよ。別に僕の所有地ってわけでもないし」


 その時のやりとりに、僕は今でも騙されたと思っている。


 そして。今日も今日とて、時間を潰している僕の前に彼女は現れる。


「……逸水」

「ふっふー、正解。足音だけでわかっちゃった?」


 僕とは違う高校の制服を着た黒髪の少女が、こちらを見て笑みを浮かべる。


「いや。階段下りる時から見えてた」

「……ってことは、私のスカートの中とか見てたってこと? 名倉くん、えっちだ」


「ち、ちがっ……! はぁ……⁉ 別に逸水のとか何のキョーミもないし……!」

「えぇ、そんなに怒らなくたって。せっかく暇潰し仲間なんだしさぁ」


 前々から気付いていたことではあったけれど、逸水は僕をからかうのが好きだ。

 静かに省エネに過ごしたい僕としては迷惑極まりない。


 その他にも、僕が持っていたグミは全部食うし、スポーツドリンクは間接キスとか考えるのがアホらしく思えるくらい、水筒に口をつけてごくごく飲むし。

 身長は僕より少し低いくせに、かなり態度はデカくて何気に胸もデカい。

 ……いや、後者の情報はいらなかったか。


 なんにせよ、僕はこのひと月ほどで逸水のほとんどを知った。

 だけど、そんな僕でも知らないことがあった。


 ──例えば。


「なんで、逸水は毎日ここに来んの?」


 僕が文庫本の文字を追いながら聞くと、逸水は僕のあげたクロスワードパズル(以前、貸したら書き込まれた)から視線を上げて、髪を耳にかきあげた。


「なんでって。それは名倉くんもそうじゃない?」

「……僕は部活サボってるだけだから。別に意味があって来てるわけじゃない」


「私は……そうだなぁ。今は名倉くんに会いに来てるだけだよ」

「なにそれ」


「あ、信じてないな。ほんとだよ?」

「……蓼食う虫も好き好きって言うけどさ。僕と会って、何か面白いの?」

「たで?」

「普通虫でも食べないような辛い植物」


「おぉー。名倉くん物知りだよね。だからかな、話してて面白いの」

「……別に面白くはないでしょ」

「え? 面白いよ。名倉くんと話してると、楽しい」

「…………なら、いいけど」


 あまりに明け透けに言われて、僕はさっきまで以上に顔を俯かせる。もはや文庫本の文字も読めないけど、何より今の顔を逸水に見られたくはなかった。


「あ。照れてる?」

「……照れてないし」


 にまーっと擬音がつきそうな笑みを作る逸水から、僕は目を逸らす。


 そんな風に。逸水の奇行や言葉に、僕はいつも考えさせられる。

 見た目がよくて性格も多分、いい。そんな逸水がなぜ僕なんかと会っているのか。ずっと考えてはいるけど、今のところ答えは出ていない。


 ──六時半になって、僕が家に帰るのと同じタイミングで、逸水も家に帰っているのだと思う。思う、というのは僕の方がいつも先に帰るからだ。


 逸水にも何か事情があるのかもしれない。でも、僕は深入りしない。

 したところでどうにもならないことの方が、この世の中きっと多いからだ。




     ◇




 僕が部活をサボると、毎日のように逸水はやってきた。

 そうでなくても来ているのかと思って一度聞いてみたが、「名倉くんが来てない時は来てないよ。多分、波長が合うんじゃないかな?」なんてことを言っていた。


 それは、僕と波長が合っているんじゃない。

 部活のスケジュールを組んでいる顧問の先生と波長が合うんだ。


 ──ともあれ、僕がいる日は毎日逸水もやってきた。

 そうして他愛ない会話をして、たまにじゃれてくる逸水を受け流して。

 色んな事に疑問を持つ逸水の質問に答えて、尊敬の眼差しで見られたりして。


 逸水と橋の下で出会ってから、ひと月と二週間が経とうとする頃には。

 僕は逸水との時間を、それなりに心地いい時間として過ごしていた。



     ◇



「──ここって、高架下っていうんだっけ。いつも陰で涼しいよね」

「…………」


 ふと川に向かって呟かれた逸水の言葉に、僕は気紛れで返す。


「……高架橋じゃなくて、橋梁ね」

「それって何か違うの?」

「高架橋は地上に連続して置かれた橋のことだから。ここはただの橋の下」


 僕らの住む田舎街には大きな川が一本流れていて、ここはその川に架る大きな橋の下だ。水色の橋の下は、たまに上を車が通行するときは結構うるさい。

 下は、潮が引いている時は干潟が出ていて、コンクリートの台を降りればすぐに川に入れる。汽水域の川だから足もべたつくし、入りたくはないけど。


「そうなんだ。やっぱり物知り……」

「別に、一般教養だから」


 なんて、文庫本を読みながら返す僕は、素直になれない。


「ねえ……名倉くんってさ。恋愛についても、詳しいの?」

 ──と。急に真後ろから声が聞こえて、僕はびくっと肩を跳ねさせた。


「は……⁉ なっ……」


 急に詰められた距離に、僕は全く動揺を隠せず文庫本を取り落とす。じりじりと寄ってくる逸水に、僕は座ったまま移動して距離を取ろうとする。


 だがそんな抵抗も空しく──おでこ同士がこつんと当たった。


 いつも余裕のある逸水の顔が、見たこともないくらい真っ赤になっていた。今まさに沈みゆく夕日の関係もあるだろうけど、多分理由はそれじゃない。


「く……詳しくない、けど……」

 と、なんとか捻り出された言葉を聞いてか、逸水は口角を上げた。


「うん。──知ってた」

 そう言って。あまりにも唐突に。


 橋の下に流れる時間が止まった。──かのように、僕には思えた。


 逸水は僕の顔に両手を添えて、そっと唇を重ねてきた。

 まっすぐこちらを見る潤んだ瞳と目が合う。紅潮し切った顔に、なぜか涙が一筋流れて。はっと気づいたように逸水は僕から離れ、袖で涙を拭った。


「……今までありがと、名倉くん」

「ちょ……っ、待っ……」


 僕が呼び止めるのも聞かず、逸水は僕の前から走り去った。

 ──たったった、という微かな足音だけが僕の耳にこだましていた。

 



     ◇




 それから後、逸水は一度も橋の下に顔を出さなくなった。


 他に誰も来なくなった僕の居場所は、思っていた以上に静かで。どれだけ逸水という少女が明るく騒がしかったのかを、僕は知ることになった。


 あんな別れ方をした以上、向こうもこっちが気になって顔が出せないんじゃないかと思った時もあった。……ただそれにしたって、五日は来なさすぎだ。

 なにかあったんじゃないのか。逸水も多分、何か抱えていたようだったし。


 考えれば考えるほどに、いてもいられなくなって。

 だけど、僕は逸水の連絡先も知らない。どこの高校に通っているのかも、何も。彼女のことを知っているようで、何も知らなかったのだと思い知らされた。


 ──なんて、ひたすら考えているうちに空は暗くなってきていた。

 考えていても答えは出ないのに、今の僕には立ち上がる気力がなかった。

 そうしてぼーっと、潮の満ちた川に沈む夕日の欠片を眺めていると。


 僕の後ろを、この辺りをよく散歩しているお爺さんが通りかかった。

 そこで、僕ははっと息を飲んだ。


 こんな時間にも散歩してるのかと思ったのと同時に、お爺さんなら僕がここに来ていないときの逸水のことを知っているかもしれない、と思い至ったのだ。


「──す、すみません。僕、怪しいものじゃないんですけど……っ」

 と、めちゃくちゃ怪しそうな入りで、僕はお爺さんの前にエントリーする。


 しかしお爺さんは「ああ」と優しげに口角を上げた。いい人だ。


「どうしたんだい? こんな遅くに」

「すみません。ここ最近、僕と一緒にいた女の子のことなんですけど……最近見なくって。よくこの辺りを散歩してるお爺さんなら、何か知ってると思って……」


 途切れ途切れに僕は言葉を連ねる。元々、知らない人に説明するのは苦手だ。

 対人能力の低さを露見しながら僕がなんとか説明すると、お爺さんはしばらく唸って考え込んだ後──すまなさそうに頭を掻いた。


「すまんが……君のことは何度か見ているが、女の子は……知らんなあ」




「は──?」




 と、思わずそんな声が喉奥から漏れた。

 僕と逸水が会っている時にも、お爺さんは何度か後ろを通りかかったことがある。それなのに、知らないはずがない。まさか、覚えてないのか。


「そんなはず……その子、逸水っていって。ここによく来る、高校生の子で……っ」


「ここによく来る、高校生の女の子……、逸水……というと。いや、まさか……」

「まさかってことは、知ってるんですか⁉ 何でもいいので教えてください……! お礼ならまた後日にでもしますから、どうか、お願いします……っ‼」


 我ながらストーカーっぽい言葉だな、と思いながら懇願する。


 ──お爺さんは困ったような顔をして。言葉を何度か詰まらせて。

 それから、「君が知っている子とは限らんが……」と言って、説明を始めた。




     ◇




 お爺さんは、知っていることを全部教えてくれた。


 ──逸水という少女は、確かにここによく来ていた。

 ──お爺さんにもちゃんと挨拶をするいい子で、黒髪の綺麗な子だった。


 ──しかし、ひと月と三週間ほど前の土曜日。川で泳いで遊んでいた子供が、溺れてしまったらしい。

 ──そこで泣き叫ぶ子供を助けに行った少女が、逸水だった。おそらくはコンクリートの土手を飛び降りて、助けに向かったのだろう。

 ──果たして、救助の甲斐あって子供は助かった。しかし、体力を使い切った逸水はコンクリートの土手をおそらくは登れなかった。


 ──そばには子供の他に誰も居なかった。川の流れも徐々に強くなってきていた。


 ──そうして、逸水は。




「……悲しい事故だったよ。あんなにも心優しい子がねえ」

「…………」

「君も、暗くなると危ない。そろそろ帰るんだよ」


「……、ありがとう……ございます」


 お爺さんに手を振って、別れた。それからも僕は、この場を離れられずにいた。




     ◇




 辺りが真っ暗になっても、僕は潮の満ちた川の水面を眺めていた。


 ──逸水は、何のために僕に姿を見せたのだろうか。

 彼女は今もここにいるのだろうか。それとも、あれが。あのキスが、彼女がいなくなる直前だったというのか。それなら別れ際の言葉にも納得がいく。


 ……だけど、なんだってそんな。僕にあれだけの感情を抱かせておいて。

 脳裏に焼き付いて離れないような感触を、無理やり覚えさせておいて。


「……なんだって、一人で勝手に消えていなくなるんだよ」


 虧月の映る水面に向かって、僕は問い掛けるように話しかけ続ける。


「戻ってきてくれよ。……また、くだらない話でもしよう」

「……僕は、逸水がいないとダメなんだ」

「逸水。──そこに、いるのか?」


「残念。そこじゃなくて、名倉くんの後ろかな」

「……いつ、み──はぇ……っ⁉」


 いつの間にか後ろに立っていた人影に、僕は思いっきり飛び上がった。

 それを見て、僕がこの五日間、最も会いたかったその人がくすくすと笑う。


「ふふ。はぇ、って……!」

「いや、は……⁉」


「逸水くんって、いつも驚かし甲斐があるなぁ。リアクション芸人みたい」

「それは誉め言葉なのか貶してるのかどっちだ⁉ ってか、逸水、なんで……」


「まだ四十九日経ってないから、かなあ。最近、消えるなあ……って予兆があって、実際一旦消えちゃったんだけど。名倉くんに会いたいって思ったらね」


「──は……? なんだよ、それ」

「私にもよく分からないけど。でも、時間は決まっちゃってるみたい」


 そう告げる逸水の手のひらは、確かに透けていた。

 どこか諦めた顔で笑う逸水は、この前見たときとは別人のように見えた。


「幽霊ってこんな風に身体が透けちゃうんだね。新発見だ」

「何を馬鹿なこと言って……! 逸水、お前消えちゃうんだぞ……⁉」


「うん。でも、最後にまた名倉くんに会えたし。それでいいかな」

「…………っ」


 違う。逸水は、こんなんじゃない。僕の前での逸水は、いつだって。


「い……逸水なら、『幽霊になる時、服だけ透けなくて良かった』とか言うだろ!」

「…………」


 僕の叫びに、逸水がきょとんとして目を丸くする。やばい。意味の分からないことを口走ってしまったか。でも今更、取り消せないし。


 しばらくして、逸水はくすくすと見慣れた笑い方で頬を緩めた。


「確かに私が言いそうかも。さすが名倉くん、私についても詳しいねぇ」


 だけれど、逸水の表情から悲観の色は消えていなくて。

 そうして僕は、僕らの話せる残り時間が僅かなことを知った。


「……逸水、本当に消えちゃうのか」


 答えが分かっている上で僕は聞かずにはいられなかった。

 一縷の望みが欲しかった。それが叶わない望みだと知っていても。


「そうみたい。……ごめんね、もう話し相手になれなくって。それとも、私がいなくなって静かな場所になったから、むしろ過ごしやすいかな?」


「そんなわけ……っ、ない、だろ。悲しいに、決まってる、だろ。僕、は……」


 喋りながら、目の下から頬の辺りにかけて温かい感触があった。逸水のぎょっとしたような表情で、僕は自分が泣いていることを悟った。


 逸水は優しげな笑みを浮かべて。僕の頭を両手で引き寄せて。

 おでこを合わせて「……よしよし」と言った。


「……同い年くらいなはずなのに、子供扱いされてる気分だ」

「実際、泣いてるから子供みたいだよ。名倉くん」

「…………」


 僕が何も言い返せずにいると、今度は逸水の方から口を開いた。


「……ごめんね。こんな私が、名倉くんのファーストキス、奪っちゃって」


 あのときのことを思い出してしまって、どきりと僕の心臓は跳ねる。

 けれど、普通に返したんじゃ僕らの関係っぽくはない。これが最期なのだ。ちゃんと返さないと、折角の時間が勿体ない。


「……残念だけど。僕のファーストキスは逸水じゃない」


 僕が得意げに言うと、逸水はばっと顔を離して、少し口を尖らせた。


「えー……! 名倉くん二回目以降だったの⁉ それって結構……ううん、かなり。ショックだなぁ。……私はあれが初めてだったのに」


 あからさまにショックを受ける逸水に、僕は自慢するように告げる。


「僕のファーストキスは、うちの芝犬だ」


 僕の付言に、またもや逸水は目を丸くする。


「…………。ふふ……あははっ、なにそれ。じゃあ、人間としては私が初めて?」

「いや。対人は赤ちゃんの頃に母さんからされたのが初めてだ」


 僕が切り返すと、逸水は今度はむぅ……とふくれ顔になる。


「むむむ……じゃあ、家族以外の人からは?」

「…………」

「私が初めて?」

「……特定条件下におけば、そうなるかな」


 素直じゃない返しをする。それを聞いた逸水は、にまっとして。

 僕はからかわれることを予想して。


 でも、逸水の反応は僕が思い描いていたものとは全く違った。


 逸水は「……やった」とだけ言って、口許に手を当てて、頬を染めた。

 その仕草があまりに可愛くて、僕の心臓は唐突に暴れ出す。

 それと同時に、僕は自分の中の逸水への感情をようやく自覚した。


「……いいことも聞けたし、時間もそろそろかな」


 急に、逸水がくるりと僕に背中を向ける。さっと隠された手はもうかなり透けてきていて、彼女がもう幾ばくもここにいられないことを示していた。


「逸水」

「なに? 名倉くん」


 僕は逸水の後ろ姿に声をかける。逸水は振り返らないまま返事をする。


「……僕さ。一個だけ逸水に頼みたいことがあったんだ」

「頼み? って言われても、私にできることなんて少ないよ?」


 その声はどう考えたって涙ぐんでいる。


「もう一回だけ、こっち向いてくれないか」

「……嫌って言ったら?」


「──頼むよ。渚沙」

 と、僕が呼び直した瞬間、逸水はばっとこちらを振り返った。


 想像していた通り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして。それでも、僕が知っている中で一番可愛い少女が、そこにいた。


「あ──……泣き顔、見られたくなかったのになあ」

 してやられたという風に、逸水はぼやく。


「いいだろ、それくらい。スカートの中は見られてもいいくせに」

「見られてもいいわけじゃ……。まあ、いいや」


 どこか不貞腐れていた様子の逸水が、諦めたように笑みを作る。ただその表情は、さっきまでとは違って、どこか清々しさを感じさせるようなものだった。


「あ、そうだ。私からも一個だけ、言いたいことがあったんだった」

「……なんだ? 何でも聞くけど」

「じゃあ、ちょっとこっち来てもらってもいい?」

「いいけど、なにを──……」


 ──と。不意打ち気味に襟元を引っ張られ、頬にちゅっと何かの感触があった。

 突然の衝撃に、僕が完全に固まっている間に。


「それじゃあね、海理。──だいすき」


 ──彼女はそう言って、ゆっくりと粒子となって。

 やがて月明かりに溶け消えた。




     ◇




 ──あれから、一年が経った。


 毎日のように橋の下に出向いて、時折花を添える。

 ここにくれば、逸水がいつか会いに来てくれる気がするから。


 もちろんそんなのは幻想で、それは僕も分かっている。

 だけどそれでも構わない。僕がここに来ない理由にはならない。


「逸水、僕は──」

 あの時。不意打ちで何も返せなかった言葉に、僕はやっと返事をする。


「……いや。僕も、君が好きだよ」


 干潟にしゃがみ込んだ君が、こちらに首だけを振り向かせて。

 ──笑っているような、そんな気がした。




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望潮 往雪 @Yuyk

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