第12話(正平視点)
遂に、きた。つい、口角があがる。握った拳をゆっくりと開く。
関東大会会場。明らかに空気が違う。選手たちのいろいろな感情が、それぞれ重力を持っているのを感じる。空気がぴん、と張り詰めている。
「不安か?」と東海林が問う。
正平は素直に肯く。
「それすら、自信に変えるんだ。こわがることからはじめられない人間に夢を語る資格はない。大丈夫だ、全力でやってこい。青春と言われる時間が過ぎ去るのはあまりに速い。後悔なんか残しちゃもったいないぞ」
正平は黙して肯く。
と、その時。
「颯太!」
女性の声が響いた。反射的に、そちらへと視線が向く。ぎこちない笑みを浮かべた颯太がスタンドに向かって手を振っている。おそらくは彼の母親が応援にきたのだろう。それと関係があるのかは判じかねるが、颯太の表情からは県大会の時に見えた硬さは感じ取れなかった。今日はより、気を入れなくちゃいけない――正平はそう思う。県大会ではなんとか勝てたが、今日はわからない。
「颯太君、今日は手強そうだね」と東海林。
「そうですね」と正平。
「そう言えば、佐藤君の家族はきてないの?」
「はい。スポーツは見ててもルールがわからないからって」
「百メートル走ほどシンプルな競技でルールがわからないなんてこと、ある?」と東海林は苦笑する。
まったく、その通りだ、と正平は思う。でも、きっと、応援はしてくれている。昨晩の献立はとんかつと鰯のつみれ汁だった。とんかつはわかるが、鰯は『弱』という漢字が入っているから縁起がわるいな、と思ったのだが、「鰯は生で食べることってほとんどないでしょ? それは他の魚よりも鮮度が落ちるのが早いからで、そのことを足が早いって言うの。だから鰯はね、足の早い魚だって昔から言われていたのよ」と母が言っていた。
「そう言えば、コーチ。なんで僕には佐藤君って呼ぶのに」と正平は颯太を見る。「彼は颯太君って下の名前で読んでいるんですか?」
「もしかして、ヤキモチ?」
「違いますよ、気持ちわるい」
「そんな言い方ないでしょ」と東海林は笑う。
「だって、ありえないですよ」
「君は、どうしてだと思う?」
「わかりませんよ」と正平は言う。わかるわけがない。
まるで緊張感のないやり取りをしていると選手の呼び出しがかかった。正平にとって、未知の戦いがはじまる。
足元にはクラウチングブロックがセットされている。風はいささかの追い風。見あげれば、空は青と白に分かれている。未来への希望そのモノみたいに拡がる晴天と、遠くから持ちあがる不安の象徴みたいな入道雲。見事なコントラストと言えば、その通りかもしれない。走り切り、辿りつく場所はどうだろう? 正平はそんなことを考える。大丈夫、自分を信じよう。首を振って、空砲を握るスターターを見る。その手には足軽が火縄銃を使っていた時代から使っていそうなほどにうらぶれた、つまりは見慣れたカタチの空砲があった。ちゃんと音は鳴るのだろうか? レースはもうすぐはじまる。
正平を含めた八名のスプリンターがクラウチングブロックに足を乗せ、両の手を地面につける。大丈夫、正平は心のなかで呟く。集大成では、ある。でもここが終わりではない。ここを到達点とは、思いたくない。準決勝、決勝、あるいはさらにその次。正平が目指すところは、もっと先である。動悸がいやにうるさい。呼吸だって、いつもは無意識でできているはずなのに、なんだかぎこちない。落ちつこう、いつも通り、平常心。ありったけの自分を鎮める言葉を思い浮かべる。信じる力の差が勝敗を分ける。大丈夫、大丈夫、深呼吸。
「レディ」
正平は、目を開ける。そこではじめて自分が目を閉じていたことに気づく。集中力が散漫になっているのだ。
「セット」
八人のスプリンターが臀部をあげる。隣の選手の呼吸音。微かな風の音。声援。会場に充ちた音が遠ざかる。世界が自分を中心にして縮こまっていくみたいに。正平の鼻先から汗が地面に垂れる。その音が正平の耳にはやけに大きく聞こえた。やれやれ、自分で呆れる。オーケー、認めよう、僕は緊張している。けれど、大丈夫。それすら僕は力に変えられる。不安以上に、僕は僕を信じている。世界が産まれる直前のような静寂。ささやかに背中を押す風。たぶん、正平の背中だけに加わった力。
沈黙。
夏のまんなかに空砲が鳴った。
了
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韋駄の天麩羅、鰯の造り 彩月あいす @September_ice
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