病とありふれた不治の理由

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病とありふれた不治の理由


 悲鳴の様な甲高い奇声が聞こえる。不愉快な目覚めと一日の始まり。

 足りない時間で無理やり身支度を済ませていれば、不幸を知らせるニュースが流れ、外からは乱雑極まりない扉の開閉音。

 人の少ないタイミングを見計らって外に出れば、臭うゴミ捨て場に裂けたゴミ袋と烏。そうでなければ神経質な顔で清掃しながら疑いの目を向けて来る管理人。

 今日収集されるゴミは何だっただろう。燃えるゴミ?燃えないゴミ?何がゴミで何が資源か、考えるのに疲れたせいで膨れ続けるビニール袋はまだ許容範囲にあるんだろうか。


 狭い道。おかしな所に立ち止まる老人達。何処からか流れて来る煙草の臭い。

 荷物を矢鱈に乗せた危なっかしい自転車が車道を通り過ぎたかと思えば、怖い速度のバイクが横を走り抜けていく。

 大通りに出ればクラクション。それに大音量のよく分からない音楽。遠くから怒鳴り声も聞こえる。神経質なベルの音。不自然な場所に落ちているペットボトルの中身は想像したくもない。


 胃腸が落ち着かない。


 駅に辿り着けば数えられない程の人が目まぐるしく行き交う。

 そんな中で手を繋ぎ広がって歩く親子。後ろに出来た人の群れ。足早に避けて行った他人と時にぶつかり、ぶつかられ、聞こえた舌打ちには思わず溜息を吐きつける。

 意識を逸らそうとして、視線を建物に向ければ言葉の羅列が目に入る。

 こうすれば正しい、こうすれば楽になれる、こうすれば幸せになれる、明るくなれポジティブになろう、そんな内容と当て嵌まらなさに目を背ける。

 背けた先にも文字の羅列。

 こうならないのはおかしい、こんなのは間違っている、これだから苦しい、こうだから不幸だ、暗くなって当然だネガティブの何が悪い、そんな内容と当て嵌まらなさに心を閉じる。


 頭が怠い。


 強い柔軟剤の香り。窮屈な空間。近過ぎる他人との距離。

 やっとの事で解放されて、それでも楽になる訳ではない。

 扉を抜けて、荷物を置いて、椅子に座って、よく分からない挨拶をして。

 それからは何がある訳でもない筈なのに、ずっと時間に追われている。もしかしたら本当は何かあるのかも知れない、もうよく分からない。ただ目が回る。何故か顔だけは笑みを浮かべている。

 お喋りが止まない。悪口が聞こえる。仕事は減らない。人はいなくなる。

 気付けば食事を摂ったかも曖昧で、そんな状態で誰かといるのが苦痛になって、トイレの中だけが息の吐ける場所になっている。


 目と首が痛い。


 やっと解放された時間は遅い。これから予定を汲むなんて到底考えられない。

 ぐったりしながら駅へ向かえば、行きの繰り返し。



 不安になるような道を足早に抜ける。

 食べたい物も思いつかない、したい事も分からない。

 でもこのまま一日が終わってしまうと思うと苦しい。

 辿り着いた暗い自宅に電気を点けて、重たい衣類を脱ぎ捨てる。薄っぺらくて窮屈で、好みでもない。それなのにまた着なくてはいけないから手入れは必要で、考えていると捨ててしまいたくなる。

 最後の気力を振り絞って身支度を済ませ、冷蔵庫を開けば碌な物が入っていない。買い物を忘れていた。


 溜息が出る。


 もう一度外に出るか、適当に誤魔化すか。嫌になる。

 結局のろのろと上着を羽織り、一番近いコンビニへ向かう。人目が気になって仕方がない。頭の中を浪費という言葉が過ぎて行き、金銭を気にして安い物を選べば栄養価の三文字が躍る。


 何故人は食事をしないといけないのだろう。


 家に戻っても徒労感しかない。

 ペットボトルのお茶を飲んで、カサカサした口に気付く。

 わざわざ買いに行ったサラダなのに袋から出すのも蓋を開けるのも煩わしい。

でも食べなくてはいけない。そして終わったらゴミを分別しなくてはいけない。その後は明日の支度をしなくてはいけない。それから寝なくてはいけないまた朝には起きなくてはいけない家を出なくてはいけな――――……


  あ


    あ


      も


        う


          だ


       め


           だ

               。



 棚からケースを取り、ディスクを手にする。部屋を薄暗くしてヘッドホンを被る。そして再生。


 画面に映し出されたのはのは憂世を離れた別世界。


 人々が動く。言葉が流れる。物語が始まる。

 大袈裟な身振りとわざとらしい口調。煌びやかな衣装に動く背景。


 その中でも目を奪われるのは彼、そしてステージ。

 演じる彼、光と輝き。

 汚い物なんて一つも存在しない。小さな世界。作られた世界。

 時に苦しみ、時に笑う。汗を流し、先を真剣に見つめる瞳に魅入られる。


 彼が泣けば共に泣く。彼のコミカルな動きに思わず笑う。


 静かな居場所。

 彼がくれるもの。


 それが欲しくて只管お金を払った。部屋の中には大量のグッズがある。

 彼を追いかけてどこまでも行った。

 人に見られれば常軌を逸していると思われるのかも知れない。

 馬鹿にされるのかも知れない。

 それでも構いはしない。

 自分は彼が好きなのだから。

 こんな暮らしの中に彼以外、必要な物なんて存在しないのだから。


 そんな事はない?

 いいや、そんな事しかない。


 一日きちんと働いた。真面目に生きたつもりだった。でもいい気分になんて少しもなれなかった。

 ありとあらゆる世界の出来事なんて全部仕方のない事だ。

 そう、だから黙っている。でもそれで抱えた不愉快が消える訳じゃない。飲み込んだ物が体の中に溜まっていくようで気持ちが悪い。

 そんな事を考えるならじゃあ自分は?そう、完璧なんかじゃない。だからきっと誰かに何処かで呆れられている。不愉快に思われている。仕方がないと思わせている。

 そう考えたら何も出来ない。口すら開く事が出来ない。

 結局どうしたって圧し掛かって来る物がある、そしてそれはあまりにも重い。


 だからもう、何も持ちたくない。



 頭の中に何も置きたくない。考えたくない、感じたくない。

 自分すら消してしまいたい。


 彼をずっと見ていれば、それが叶いそうだから。

 都合の良い所、都合の良い事、それだけを集めて。のめり込めれば体の痛みさえ消してしまえる。

 だから無責任に恋をしていたい。その為だったら出来る限りの事をする。ただそれだけ。

 彼の気持ちは必要ない。彼じゃなければいけない理由も本当は存在しない。


 恋が恋であれば、それでいい。

 恋と言う名の目晦ましが全て隠してくれるなら。

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