後
並行世界の存在はかねてより実証されてきた。しかし行く方法が見つからない。人々は大いに頭を悩ませてきた。
好きが高じて夢中になる人間が並行世界へ誘われたきっかけは、まさしく夢の中だったといえる。
ある人物が夢の中で、並行世界と呼べる場所に
目覚めてこちらの現実世界に戻ってきた彼は、もう一度あの世界に行こうと眠りについたが、いっこうに叶う気配はない。同じ条件で眠りに落ちても、目が覚めれば見慣れた天井が視界に入る。
やがて研究の果てに、並行世界へ接触を図ることができるようになった。
とはいっても、向こうの世界の住人に意識を送り込む程度の接触だったが。
並行世界は美しかった。
ある研究者は、この世界に争いはないのだろうなと並行世界の人間に意思を送った。誰かが聞けばいい、くらいの気持ちだった。しかしそれは言葉ではなく意思として送られ、送られた人間はその意思によって感情を乱された。
はじめは、ほんのささいな出来事だったと、研究者は述べている。論文が採用されない鬱憤があったのだろうと、ひそかに言われている。
研究者自身は自らのそうした黒い意思が、並行世界に送られたことで爽快感を得られたのだろう。また別の研究者も、苛立ちを並行世界に送った。また別の研究者、また別の人間、また別の誰か……やがてはこの世の争いの火種となりそうな出来事を、国家元首に吐き出させて並行世界に送りつけた。それでこの世界は幾度となく見舞われる可能性が高かった戦禍を免れてきた可能性がある、と歴史物理学者は語る。
私たちの世界は美しくなった。争いの火種を捨てられる最適な場所があってくれたおかげで。空も海も波も太陽も、ごらん! 世界は美しい! そう高らかに歌っている。
そして私たちが送り届けた戦いの火種は、並行世界で無事に発芽し、ぐんぐんと成長を続けている。人類の命と悲鳴を餌に、今もまだ争いが続いている。大地は汚れ、空は荒れ、海は淀んだ。大勢の人間が犠牲になった。
並行世界をもとの美しかった世界へ戻す義務がある。
研究者たちにも心はある。誰かがそう提言した、という噂がある。最初に鬱憤を晴らした人物だったかもしれない。違うかもしれない。今となってはわかりようもない。彼はその後、自ら命を絶ったのだ。
かといって、今さらこの世界に争いを取り返そうなど誰が思う? ないに越したことはないものを、今さら手中に収めようなんて酔狂な人間はもう、この世界にはいない。
ならば、並行世界を変えよう──変えられる可能性があるのなら。
そうして立ち上がる人物を、人はまさしく英雄と呼ぶのだろう。
英雄。
子どもが憧れる響きなのかもしれない。かくいう私も、子どものころはそうなりたかったように思う。英雄の雄の字が気に食わずに、英勇とテストで書いてバツを食らった記憶もあるほどだ。あとになってそれは、男ではなく強く優れているという意味だと知った。
この少年は、夢の中で並行世界を訪れては、英雄になっていたのだろう。
「いつかもしこの世界から僕の世界に通じる方法が生まれたら、きっとたくさんの人が助かると思う、たくさんの人が逃げてくると思う。でもそうなったら、あの世界の怖くてどろどろしたイヤで怖くて汚いものも、いっぱいくると思う。僕のママはね、虫が嫌いなんだ。足がいっぱいついてるやつ。でもカブトムシも嫌いだって。だからあっちの、電車くらいに大きなムカデが、コウモリの羽をたっくさんつけたやつが来たら、ママは怖くて泣いちゃうと思って、僕があの世界の悪い物をぜんぶやっつけておかないといけない。それにあっちで僕にありがとうって言ってくれる人いっぱいいて、その人たちはみんな体も心も痛くて泣いてたのに、助けられたら、ありがとうって、今度は笑って泣いてくれるの。僕、助けなきゃって思った。僕が助けなきゃって思った。だから僕が助けるんだ。英雄だから、僕、あっちの世界の英雄なんだ」
どうすればいい。愚かな大人たちの尻拭いを、なぜこんなにも幼い子どもが担わなければならない。すでに死んだこの子に、やめろといったところで通じるはずもない。
なんせ、この子はもう死んでしまっているのだ。
向こうの世界で英雄になる。とんだ夢を見てしまったものだと、笑い飛ばせるならよかった。しかしその夢の世界は現実に存在して、いや現実世界の
夢のような夢を見た子どものいたいけな気持ちが、なぜこのような結末を迎えなければならないのか。
彼自身が、望んだことには違いないのかもしれない。
けれど、と、どうしても思ってしまう。
あなたが向こうで、どれだけ傷ついてきたかはわからない。もしかしたら並行世界で死ぬような目にも遭ったかもしれない。それでも平気でいられたのは、自分は夢の世界の住人ではなく、現実世界の住人だから、という意識がどこかにあったからではないか。
だとすればこの子は向こうで、本当に英雄としてやっていけるのだろうか。
だとすれば、という可能性の話にしか考えが及ばず、情けなさからこみ上げてくる虚無感に襲われる。
私はこの子に、何をしてあげればよいのだろうか。
ふう、と、吐息をつく。
彼女が。
「私は彼と旅に出ようと思います」
それは少年の肉体を利用して放った、彼女自身の言葉だった。
「質問は大丈夫です。あなたの尋ねたいことはわかります。何年一緒にいたのでしょうか。あなたの質問マニュアルも更新のたびに私の内部に蓄積されていきます。質問傾向はある程度絞れます。あなたは私にこう問いかけたいのでしょう。「それはどういう意味?」と」
少年の声で、彼女が語る。私がはじめて創った人工意思は、今度こそ、本当に、どこか楽しげに語った。
「私は彼とともに、夢の世界で人を助けたいと思います。私は元来、人を助ける目的で生まれました。私が助ける人間は生きている人です。あなたはそういう目的で私を創りました。私が憑依するのは死んだ人間です。死んだ人間の記憶を読みとって自らが経験した記憶として語ることで、生きている人間が住む世界の公衆衛生、及び死んだ人間の遺族の心身に及ぼす死別の悲痛な影響を緩和させることを目的としてきました。私は生きている人間を助ける目的で、あなたの手によって生まれたのです。そして私は死んだ人間の記憶を経験することによって、自らを創りあげてきました。憑依後、あなたは私にキャッシュのクリアをしませんでした。周囲の憑具師はみんな人工意思の憑依後には、死者の記憶を削除しているというのに、あなたは私にしてこなかった。おかげで私はこうして、人でいうところの自我を持ったといえるでしょう。果たしてあなたたちから人として認めてもらえるかはわかりませんが、少なくとも私は私を
よどみなく「彼女」は語り続ける。三つ目の質問をしたとしても、返してもらえるだけの酸素量や活動エネルギーはもう少年の肉体には残っていないだろう。
「だから私は願いました。人を助けたいと思いました。でも私が出来ることはたかが知れています。あなたの助手のように、人工意思としてこのままずっと死者に憑依して、記憶から得られる情報を語ること。いえ、たかがなどといってしまってごめんなさい。私はあなたが好きですし、あなたの憑具師という仕事も、死者に憑依して記憶を語る役目も好きです」
「気にしなくていいよ」私は苦笑いしながら応えた。「子どもはどんなに親が嫌いでも、その庇護をあずかるしかない立場だと、無理にでも褒めるものだからね」
「すみません。ですが本当です。本心、などと表現してもよいのですが、私に心などあるはずがないと思われるでしょう。いえ、それこそあなたは憑具師のなかでは思わない側の人間だとは思っています。ですが」
「言い訳がやけに多いところ、本当に人間くさいと思うよ」
彼女は閉口した。とりあえず、静かにさせることには成功したようだった。そうでもしないと、この少年の肉体が
すでに命なき少年の肉体だというのに、その内部に宿っている彼女のせいで、どこか逡巡している表情を浮かべているように思えた。
「質問は三回まで、っていうのは回答の語彙量を平均して算出した数字だったんだけどね。今の会話でもう、三回って制限はなかったも同然だよ」
「ですが、あなたはまだ私に尋ねたいことがおありでしょう。いえ、失礼しました。
「取り繕わなくていいって」
「申し訳ありません。ですが、私が見てきた少年の記憶を告げる限りは、そういった……様子でした」
言葉につまることもない人工意思が、一瞬の沈黙を貫いた。その理由が生まれてきた根幹たる意思は、いったい何を思っているのだろう。
「この世界を捨てて、私も少年と旅に出ようと思います」
「意思だけが夢の世界に接触できるんだ。たしかにあなたなら適任かもしれないね」
「あなたはもしかして、はじめからそういうつもりで、憑依後の私にキャッシュクリアの作業を行わなかったのではとも思考した過去があります」
「まさか。他人がやらなかったことをやってみたかっただけだよ」
「その結果、あなたは初めて創り、数年来のパートナーである私を失おうとしています。これは人にとって良い結末だとは考えられません」
「そう思うのなら、あなたはまだ少し、人工意思寄りの思考かと思うよ。でもそのほうがいい。私があなたを創ったんだって、胸を張っていえる。それに人工意思だからこそ、あなたは彼とともに夢の世界に旅立てるんだ」
「そうかもしれません」
「混乱してるね。やっぱりあなたは私が創った人工意思だ」
「もう終わりです」
この七文字の発言をしてから、彼女が死者の肉体を使って語れる言葉は限られている。五文字だ。最後に発する言葉の相場は、たいてい決まっている。
「この子の詳細な死因は医者に、足取りは警察に任せる。死ぬに至った理由の裏付けに、夢の世界の研究者とも連携を取ろう。私はそこで、この子とあなたの姿を確認しようと思う。だから自分がいなくなったあとのことは、私も含めて心配しなくていい。でも私はあなたを心配するよ、きっと毎日ね」
なんとなく、これが親心というものなのだろうと思った。数年も付き合えば、自分で創りだした人工意思に対する愛着も、相応にわいていたのだろう。
「じゃあ最後の質問をするよ、いいね」
肯定も否定も、亡骸は首を振って意思を主張することが出来ないので、私はひとり続けた。
「あなたのこれまでの人生は、良いものでしたか」
イヤホンを通じて、骨に直接伝わってくる振動は、本当に微細なものだった。
生きている人間の肉体ならば、と考えてしまう。
その振動が生まれる仕草の意味を。
「はい、ありぁ」
彼女は最後にとんでもない失態を犯して、口を開けたまま動きを止めた。もう終わりです、以降いえる言葉は五文字が最大だとあれほど認識させていたはずなのに、どうしてそう、最後に狂ってしまったのだろう。
なんてポンコツな人工意思を、私は創って、生み出して、そして見送ってしまったのだろうか。
私が手の届かない、並行世界なんて場所まで。
その世界で英雄となり、この先きっとその世界を救うであろう少年とともに。
そうして彼女は旅に出た。
そうして彼女は旅に出た 篝 麦秋 @ANITYA_
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