そうして彼女は旅に出た
篝 麦秋
前
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。わずかな呼気とともに吐き出されたその声に抑揚など感じられないのに、少年の肉声と認識するだけで、そう思えてしまう。
彼自身、そんなことみじんも思っていないに決まっているのに。
初夏の暖気がぬるい吐息をついて、私の髪を揺らす。水平線をぼやけさせるのは、先ほどまで降っていた小雨の残滓となった薄い雲が多いからだ。雲の向こうにはこれから眠りにつこうという太陽が、今日最後の日照りといわんばかりに輝いている。光が周囲の雲に飛び散って、それが海に反射し、波がきらめきを照り返し、それをまた自らの波によって輝かせ返している。まるで世界をどれほど美しく彩れるか競っているかのようだった。
死ぬには値しない世界だろうと、自然が、世界が、見せつけてくる。
「三回、っていうのは」背後に控えている刑事がまごついている。私のような職種と会うのは初、ということは、年齢を鑑みても異動間もないのだろう。「多いんですか、少ないんですか」
「あまり多くはありませんが、仮に溺死だとすれば、ありがたい数字でしょう」
「溺死だとすれば?」
「溺死というのは文字通り溺れて死ぬわけですが、溺れるときに水を一緒に飲み込むんですよ。すると肺にも消化器にも水が入り込んで、体内の空気を追い出してしまうんです」
他にも多くの条件が絡み合うのだが、そのあたりはまだ研究段階でもあるので、すでに判明している範囲の説明にとどめる。
ほら見て、世界はこんなに美しい!
ごらん! 死んでいる場合じゃない!
太陽が海が波が風が、どれほどこの世界が美しいかを説得しようとも、浜辺にうちあがっている少年には届かない。彼はすでに死んでいる。波に揺られて、小雨に遭って、濡れそぼった体はもう、外部情報を受け入れられない。
「けれどこの子は、発見してくれた男性が人工呼吸を施してくれました。息を吹き返すことはありませんでしたが、体内の水が空気と入れ替わったようです。おかげで少しは質疑応答ができる」
「ならはじめから、体内に空気を注入してやればいいんじゃないですか。そうすれば、会話で消費された分の空気を再度
「会話に不可欠な声帯はたしかに空気の振動によるものですが、その声帯はいつまで
生と死の境目とはあいまいなものだ。瞳孔が開き、心臓と肺が動きを止めたときが肉体の死と認識されて久しい。心臓と肺を機械で動かし続ける方法が確立されると、ならば脳の死はどうなのだと議論が持ち上がった。無視され続けてきたのは個々の細胞の死で、肺によって体内に運ばれてきた酸素が行き渡り続けているあいだの細胞はまだ死なない。その死も細胞によりけりで、さっさと死んでしまうものもいれば、とても長く
それら細胞の死を、私たちは利用している。だから体内へ酸素を供給し続ければ、殺人死体から犯人を特定できるだけの情報を得られるのではないかと考える人間も一定数存在する。それほど、私たちの職業はあまり認知されていない。
「あんたたちも、それなりに苦労があるんだね」
「所有者はもういない肉体だからと、好き勝手しているといっても過言ではありませんからね」
苦労のねぎらいなど少しも抱かずに、私も刑事も、お互いの身の上を笑う。彼の身の上なんて少しもわからないけれど。
人工意思と呼ばれる意識を創造し、死体の脳に送り届ける。その手順を一通り行える技術者を憑具師と呼ぶ。
人工意思は、死体に残るまだ生きている細胞を利用して、死体そのものを動かし、死ぬ直前に何があったかなどを口にする《・・》。その上限は肉体に残っている活動エネルギー量によりけりなので、まだたくさん聞きたいことがあったのに! なんて悲劇が起きぬように、人工意思は開口一番に答えられる回数を告げる。これは人工意思に備えつけるように、憑具師協会で定められている。変死ではなく、警察からの質疑もないのであれば、遺族からの質問も受け入れられる。
とはいえ、大半はやはり、変死に関して警察関係者の利用が多い。死体は何も語らない、いや死体は語る・・・・・・死体と法医学との問答に決着をつけた人工意思は、死体の記憶をもとに問いかけに応じる。
これにより、死体は雄弁に語るとまで言われるようになった。回数限定付きではあるものの。
憑具師の私は彼女という人工意思を創った。彼女に性差はない。単なる意思でしかない。名前をつけても、いざ向き合う死体と同名であった場合に、思い入れがわかないとも限らない。かといってナンバリングで呼ぶと、他の憑具師と混同する可能性もあるので、彼女と呼んでいる。
彼女は今日、浜辺で倒れている年端もいかない少年の肉体に入っている。質問に答えられる回数は三回。波と小雨によって冷え切った肉体では細胞も著しく活動量を減らし、酸素の供給再開の見込みもたたないとあれば、ほとんどが死滅しているだろう。溺死した死体は口や鼻から泡を吹き出していることがほとんどで、それが溺死死体の特徴ともいえる。一般人はそうした特徴を知らないとはいえ、少年を発見してくれた男性は、そんな少年の口に自らの肉体をあてて、呼気を吹き込んでくれた。嫌悪感が決してなかったとはいえないだろう、泡を吹いているのだ。男性は、それでも、少年の命を救おうと必死になってくれた。報われこそしなかったが、決して無駄な行いではなかった。彼によって吹き込まれた空気によって、少年が答えられる質問の数が三回にまで増えたのだから。
三回。
少年の過去の記憶から得られた情報を、少年自身の肉体から発せられるというのであれば、過去の法医学者からすれば泣いて喜べる事態には違いない。
浜辺でひとり死んでいる少年。事件、事故の両面から警察は捜査を開始した。第一発見者である男性が救命活動をし、居合わせた男性が警察に通報した。警察と救急車が到着するも、後者はとんぼ返りとなってしまった。通報した男性はどうやら少年と同じ地区に住んでいるらしく、身元はすぐに判明し、今は家族が
両親が口にする息子の特長と少年の容姿は一致している。ーー天使のように愛らしい子。まさしく。
それでも、警察は性善説に基づいては生きていけない。第一に疑うべき箇所は虐待による死亡の可能性だった。
憑具師には質疑応答のマニュアルがある。質疑応答回数と、それによって尋ねるべき質問の優先順位がすべて記されている。
まずひとつ。少年の口元に、高感度の集音器をあててから質問する。人工意思は、肉体の空気を無駄なく消費するために小声で話すように私たちから教えられている。いつ何時でも、彼女は小声で話しかけてくる。その都度、憑依した肉体で。
「ねえ、あなたはどうしてひとりでいるの?」
浜がじゃりっと鳴く。隣に刑事がしゃがみこんできた。「なぜ死んだのか聞くんじゃなかったのか」彼に疑問をつぶやかせる前に、私は鼻先に指を当てる。彼女がその質問を受け取ってしまったら、私の質問よりもそれを優先的に回答してしまう。ついでに首も振ってやれば、刑事は肩をすくめる仕草を見せてから後ずさっていった。
「ずっと眠っていたくて」
フック状の骨伝導イヤホンを指で押さえる。浮いたり落ちたりしないように、最近トラガスにホールを開けて固定するようにした。それに耳の穴をふさげば、少しは波の音もさえぎられる。
「夢を見てたかったから、どうすれば少しでも長く、夢を見るのに、眠り続けられるかって考えたら、あんまり海に入るのがいいって図書館の本で見て、それで海に来た」
夢を見ていたかったから。
現実逃避なのだろうか。だとすれば、虐待の線がうっすらと浮かび上がってくる。
「海なら夢でもよく見てたから、海がいちばん優しい気がしたから、海にした。夢の中でも森は暗くて寒くてちょっと怖い。誰かに襲いかかられるかもしれないから、森は怖くて、だから海にした」
開口一番の子どもらしさはどこへ消えてしまったのか。声色に宿った少年特有の無邪気さは消え失せていた。
何かを、恐れている口振りだった。
「海から旅立てるならいいかなって思ったし、すごく、なんていうか、かっこいいかもって思ったのも少しある」
いくらかの恥じらいが少年の声色に乗る。彼女がそう演出したのは、少年の記憶のなかでも隠したい秘密だったのかもしれない。
死者が墓場まで持って行くと決めた秘密も、憑具師と人工意思は暴きかねない。人工意思が死人の記憶を学習しても、それが個人故人の隠し通したい秘密なのか、打ち明けたいことなのかの判別は下せない。時折、この話題は議論されて、憑具師という職業の倫理問題として議場にあがる。
そのため、面倒でも私たちは人工意思の代弁という形は取らない。あくまで「死者本人談」とするべく、憑依させている人工意思との意思の疎通は計らないようにしている。そうでもしなければ、いざ自分が人工意思に憑依されたとき、果たして同業者の悪口をたたいていた事実を明るみに出されないとも限らない。
海から旅立てるなら──。死に対する婉曲な表現を、この年齢でまた美しい言い回しにする。たいしたものだと素直に感心した。
いったい彼のなかで、なぜそのような認識になってしまったのか。
死ぬ、ということに対して。
「死ぬのは怖くなかった?」
ふたつめの質問。背後の刑事たちの空気が揺らぐ。困惑は背中で感じられた。こんな年齢の子どもが自殺? とうてい信じられるものではない。事件か事故か、どちらかを隠蔽しようとしているのではないか。大人になるということは、子どもに対して幻想を抱きがちになるということなのかもしれない。自分もかつてはそうだった自覚を失ってから、大人の階段を登っていたことに気づくのだろう。
事件や事故の隠蔽よりも、自殺をする子どもという存在が信じられない。気持ちはわからないでもないが、子どもだったころの自分たちは今よりももっと、世界からいろんな情報を受け取っていたはずだ。今よりももっとずっと、新鮮な感情を世界から教えられて、そのたびに笑って泣いて生きてきたはずなのだ。
死を望むという発想だけ、世界は唯一教えないまま子どもは成長するものだと。
「怖い」声は震えていた。「怖い、死ぬのは怖い。だってみんな痛がってる。痛いって泣いてて、苦しいって泣いてて、ずっとずっと泣いてて、泣いて、だから僕も泣いて、泣いてた、ずっとずっと泣いてた、怖くて痛かったから、泣いてた」
誰か。みんな。抽象的な表現で、人物を指している。これくらいの年齢だと、家族とそれ以外の人々を分けて認識するだろう。誰か、は通りすがりの人か。みんな、は一緒に遊ぶ幼稚園や保育園の友達か。
「でも泣いちゃだめだって、立って、僕、戦ったんだ。英雄だって言われたから、僕が立ち上がらないとダメだって言われて、怖かったけど僕、立って、戦った。みんなのために。その村の人たちのために戦ったんだ」
村。彼が住んでいるのは都市だ。祖父母が地方の村にでも住んでいるのか。いやそうではないのだろう。
誰かも、みんなも、村も、この現実世界のものではない。
彼は夢の中の話をしているのだ。
「僕が戦わないといけないんだ。僕が英雄だから。僕が英雄になったんだ。この世界がこんなに怖くて痛くなったのは、僕たちの生きている世界が平和だから、こんなことになったから」
この世界の陰りの一切を送り込まれている並行世界へ、彼は夢を通して降り立ったのだ。
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