はじまり
炎の国、ジャーマンアイリスの城下町は昼夜問わず賑わっている。広場では光沢が散らばる彩り溢れたオリエンタル衣装に身を包む踊り子が旅人の目を盗み、それにあやかった露店主が国産品パパイヤンから精製したパパイヤサワーやパパイヤンジュースを巧みに売っている。露店はパパイヤンだけではない。隣には靴磨きならぬ靴修繕の少年たちがボロボロになった旅人の靴を補修し、その隣には煌びやかなアクセサリーを売る初老の女性と、耽美で色鮮やかなベールを売る女性が張り合うように我が店に来いと捲し立てている。また、旅人が迷わないように守衛がリーフレットを配布し、城下町のあちこちに観光絵地図が描かれた立て看板が設置されている。観光業で成り立っているこの国にとって、どれもなくてはならない光景だ。また、天気もカラッとした晴天を享受出来るため、私たちは疲れ果て眠る時まで騒いで叫んで踊るのさ!と住民が息を揃えて言うように、国民性も元気で明るい者たちが大多数である。それもまた、ジャーマンアイリスが観光業で成功した理由の1つでもあった。
そんな年中賑わっている城下町は、求愛恩祭の準備で皆、大忙しだった。人々はトウランの好きな花、アマリリスを色鮮やかに店内のドアや店外のウィンドウへ飾り付けている。人の往来が激しいレンガ道で、子どもたちは人波を泳ぐように小さな龍踊を手に持ち踊り、皆が皆、祭を今か今かと待っていた。
「まぜてー!」「まぜてまぜてー!」
エリーとエラは小さな羽をパタパタと羽ばたかせながら、龍踊の輪に混ざる。エラの黒い羽とエリーの白い羽が鱗粉を撒きながら、龍踊本体と子どもたちを少し浮かせてみると、中からきゃっきゃっと楽しそうな笑い声が聴こえてきた。子どもたちの龍と共に踊る小さな妖精たちに、トウランは目元が隠れるほどの大きな綿帽子の下で、顔を綻ばせる。
そんな、白無垢をふんわりと靡かせ、背筋を伸ばし嫋やかに佇む白龍の姿は、良くも悪くも異質だった。旅人が「なんだ……?」と訝しげに視線を寄こす中、トウランに気付いた住民たちは目を見開き、歓喜の渦に包まれる。
「トウラン様!」
「トウラン様だー!!!」
「え!トウラン様いるの!?」
ざわつきは伝染していき、住民たちは次々とトウランに話しかけて来る。旅人たちは、その様子にギョッと目を見開き、そそくさと逃げて行く者もいれば、メデューサに見つめられたかのように固まってしまう者もいた。何故なら、それは異様な光景だから。龍が1匹 トウラン。そして、この世界にとって龍とは理、龍とは掟、龍に逆らうということは、この世の全てを敵に回すことと言っても過言ではない。だからこそ、そんな軽々しく話しかけれるような種族ではないのに、ジャーマンアイリスの人々は、我よ我よとトウランへ話しかける。まるで、それが当たり前だと言うように。
美しい白龍は、民に目線を合わせるように腰を曲げ、裾で口元を覆いながら笑いかける。
「ほほ、息災かえ?」
「はい!全てトウラン様とシグマ様のお陰です!」
「トウラン様ー!」
トウランの周りが民で溢れかえってゆく。「トウラン様!このパパイヤン持って帰って下さい!」「この野菜も是非!」「これ地の国の特産品です!是非お祭りの後に使って下さい!」「この衣装も持って行って下さい!是非、祭りの後に……!」「うちのこれは、シグマ様が好みだって言ってました!」などなど、人の群れは止まらない。民に揉まれながらも、特産品や衣装などを丁重に断り淑やかに笑うトウランだったが、内心はどうやって進もうかと思案していた。
「申し訳ないが、通して下さい」
騒つきと喧騒の中に、低く掠れた声が響き渡る。民衆は一斉に静まり返り、声の主の方向へ視線を集めた。灰色の耳を立て、少し威嚇するように民衆を睨み付けている若い人狼、言わずもがな、トウランを庇ったのはロルフであった。母と視線が合った瞬間、満月を彷彿とさせる瞳は揺らぎ、心配気に母を見つめた。そして、もみくちゃにされたトウランを庇うように前へ立ち、道を開くように再度促す。
「やだ!長男のロルフ様じゃないの!」
「きゃー!ロルフ様ー!!」
「ロルフ様こっち向いてー!」
しかし、城下町にいる女性たちの黄色い歓声が増えただけで、事態は余計に悪化していく。
「…申し訳ございません。母上」
「よいよい、愛い息子が人気者で、わらわは嬉しいの」
そう言いながら己を見上げるトウランに、思わず苦笑いしてしまう。母 トウランの飄々とした、とてものんびりな性格は今に始まったことではないが、ロルフは一刻も早く城へ戻りたかった。
父、シグマが帰ってこない。
その知らせを母から聞いた時、正直な話、ロルフは「またか」と溜息を吐いてしまった。そして、脳内に思い浮かんだ原因は痴話喧嘩である。今でこそ落ち着いた父と母だったが、昔はよく喧嘩していた。喧嘩と言っても、離縁だとかそう言うのではなく、喧嘩するほど仲が良いの方ではあるが。そもそも、父は昔から遊び人だった。ロルフがまだ小狼だった頃から、風来坊こと風龍 アーノルドと夜の店に行き、キスマークを身体中に散りばめ朝に帰るような、
そんな父だった。
つまるところ、全く心配していなかった。
どうせフラっと帰ってきて、此方の心配など、どこ吹く風で、まるで何事もなかったかのように夫婦で睦み合うのだとさえ思っていた。
異変に気付いたのは、母が公務の時以外、城門に居るようになってからだ。一見、城門前の兵士たちと談笑している様に見えたが、心此処にあらず。燃えるように紅い瞳は、寂しげに空を見つめていた。ジャーマンアイリスの鐘が何度鳴り響き、城門前の兵士が交代しても、公務が始まるその時まで、ただ空を見上げていた。
しかし、いつまで経っても父は帰って来なかった。求愛恩祭の前は必ず城下町へ遊びに赴き、母に叱られる父の姿は何処にもないまま、時は過ぎた。そんな生活をしていたら、案の定、母は日に日に弱っていった。化粧で隠しているつもりだろうが、隈が薄らと見えている。
無理もない、求愛恩祭までに完遂させねばならない国の行政、面談を父の代わりに行う日々………母の疲労が溜まっていくのは、当然だった。
母の城下町での公務を手伝い、早く終わらせたら直ぐに部屋で休ませる、と心の中で決意したにも関わらず、のらりくらりと生きている母は気付いたら何処かへと飛んで行き、行く先々の公務先へ先回りしようと思ったら、既に其の場の公務を終わらせている始末、そして、やっと追い付いたと思ったらこのザマである。だが民衆たちを無碍にする訳にもいかず、どうしたものかと辺りを見渡す。
すると、己の額にふんわりとした感触が落ちてきた。
それは微かに光る白銀の羽。見覚えのあるそれに、思わずロルフが真上を見ると、赤い屋根の上で、白銀の翼を広げた天使が鎮座していた。
「やあ、大変そうだね?」
「助けてあげようか?」と頬杖をつき、目を細め微笑む天使。尨大な翼を広げ、ロルフとトウランの元へと優雅に降り立つその姿は、神の造形美を窺わせる。この天使の名はギャビン、トウランの息子の1人である。
ギャビンはトウランを、まるで宝物のように胸へ抱えた後、ついでのようにロルフの首根っこを掴んだ。そして、絹のような金色の髪を靡かせ飛び立つ。
民衆はあんぐりと口を開けながら、唖然と空を見上げた。しかし、白銀の羽が宙に舞い、子どもたちの小さな龍踊に降ってきた。「きれーい!」とキャッキャと笑う子供たちの声を皮切りに、辺りは騒然とする。ジャーマンアイリスではギャビンの白銀の羽を持ち歩くと、意中の相手と結ばれるというジンクスがあるからだ。つまり、がめつい商人や若い男女は、喉から手が出る程、欲する代物だった。
あれよあれよと白銀の羽を手に取ろうとする民衆たちを尻目に、ギャビンは空へと羽ばたいた。
「すまぬの、ギャビン…………早く来てくれたのかえ?祭は明日じゃが……」
いつもなら仕事が忙しく、訪れたとしても祭当日に現れる可愛い息子。それなのになぜ、今年は前日に来たのかと、不思議に思いながらも、疲れ果てた白龍は、絹帽子の下で目尻を下げながら、か細い声で謝った。
「祭りの前に、少しでも母君に会いたかったからさ」
人1人は軽く包み込めるような白銀の翼。その翼を羽ばたかせることにより生じる風圧から守るように、ギャビンは母の身体を抱き締め、キザったらしくウィンクをする。トウランは「ギャビン…」と裾で口元を覆い、感涙の声を上げた。一方、首根っこを締め上げられ、嘔吐きながらもロルフは「騙されないで下さい母上!!此奴は俺が収集しただけです!」と大きな声で口早に捲し立てたが、残念ながら切り割くような風の音で、母には聞こえなかった。
ギャビンは小慣れたように城の塔を避けながら、最上階にある小窓を覗き込み、リズム良く3回ノックする。すると、部屋を掃除していたメイドが慌てながらも窓を開けた。美しい天使は2、3度、毛繕いするように翼を上下に揺らした後、背中に折りたたむ。その部屋はトウランとシグマの寝室だった。一国王夫妻の寝室にしては、余りにも質素な部屋。この城は、来客用の部屋やホールは華やかに彩られているが、その他の部分は質素でシックな作りとなっていた。それは、見る人によっては見栄っ張りで守銭奴な国王夫妻と思われてもおかしくない。しかし、その理由を知っていたギャビンは、母を誇らしく思っていた。今日も辛い身体に鞭を打って働いた母を労るように、ゆっくりとキングベッドへ寝かせ、そしてトウランが見えないようにロルフを適当に放り投げた。
「…………心配させてしもうたか」
「いいんですよ母君……父君の代わりに、公務を果たしたのでしょう?」
「…ほほ、これくらい、容易いものよ」
「……父君の捜索に、私の可愛い小鳥たちを使っています。だから、今はゆっくり休んで下さい」
労るように、ギャビンはトウランの額へキスをする。そして白いブランケットを掛けると、疲れ果てた白龍は直ぐに眠りへと落ちてしまった。小窓から差す陽の光から守るように天使は再び翼を広げ、トウランの頬を摩る。それは真綿に包み込むような、そんな優しさを授けているような光景だった。視界が反転しながらも、ロルフは、まるで絵画の世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。美しい天使が女王を攫いにきたような、そんな絵画の世界に。
「おい、何をふざけている。さっさと行くぞ」
「お前、ほんとふざけるなよ」
ギャビンの優しさは、残念ながら男であるロルフには適応しなかった。
ーーー
寝室を出た2人は、ステンドグラスに囲まれた廊下を歩く。彩り豊かなガラスたちは、日差しを浴びて、より一層、人々魅了する光を放つ。母が唯一拘ったのが、このステンドグラスだったな、とロルフは昔を懐かしんだ。そんな狼の追憶など露知らず、ギャビンは絹のような髪の毛先をくるくると指で遊びながら、開口一番で質問する。
「それで、地上はどうなんだ?」
「狼たちを放って捜索しているが、父上は見当たらない」
「ははっ、じゃあ残るは地底かい?それとも海の底?」
「………ブルウェラとメラニーにも、国へ帰るよう伝えている」
「兄弟大集合だね。けれど、ブルウェラはすぐに帰って来れないし、あのクソ虫は仕事が忙しいとほざいて、祭の当日にすら帰って来ないだろうが…………まあ、良いんじゃない?私と2人きりで、楽しく午後のパーティーでもしようじゃないか、父君をただ待つだけのパーティーを、ね」
神の寵愛を思わせる顔立ちに相反する、口から吐き出される毒矢。翻訳すると《ブルウェラは図体がデカくて直ぐには帰って来れないし、メラニーは論外、馬鹿じゃない?》である。眉間の皺を解すように指を当てながら、ロルフは大きな息を吐き、落ち着けと己の頭を冷静にさせる。そう、こいつの皮肉口調はいつものことじゃないか、と。
だが、ギャビンの猛攻は止まらない。
「どうせふらっと帰ってくるさ。父君はいつもそうじゃないか、ふらっと出て行き、ふらっと帰ってくる。母君のご機嫌取りに花や宝石を携えてね…………母君も、なんであんな奴と一緒にいるんだか」
「ギャビン、いい加減にしろ」
流石の言い様に、ロルフが唸るようにギャビンを睨みつける。鋭い眼孔が開き、爪が鋭く伸びた捕食者に対し、天使は流し目でどこ吹く風だ。更に鼻を鳴らし、まるで馬鹿にするかのように翼を広げ話し続ける。
「祭の前に、うら若き乙女たちの蕾を摘みに放浪しているのさ、そうに決まっている」
「ギャビン!」
等々、堪忍袋の尾が切れたロルフは、ギャビンのフリルブラウスへと掴みかかり、ガンッ!と大きな音が響くほど壁に追い込んだ。鋭い爪がブラウスに食い込み、今にも切り裂かれそうにも関わらず、天使は何も言わない。まるで何かを試しているかのように狼を見つめる。
……白旗を挙げたのは、ロルフだった。
「父上は確かに、どうしようもないお方だ。母上以外の女性に鼻の下を伸ばしている姿も、良く見かける」
「…………なら」
「だが、母上との約束は必ず守るお方でもあった」
「…………」
ロルフの一言に、天使は万華鏡のような瞳を見開いた。
……本当は、ギャビンも分かっていたのだ。父 シグマが約束を違えたことなど、1度もなかったことを。それが母 トウランの約束事なら、尚更であることも。
「父上の身に、何かあったのかもしれない……お前が、父上のことをよく思っていないのは、知っている。けれど今だけは、水に流してくれ」
「頼む」と空に溶けてしまうほどの小さな声は、この場にいた天使にだけ聴こえた。長男でありながらも、兄弟の中で最年少のロルフ。父が失踪し、母が弱り切っている今、重い荷を背負わせてしまった、とギャビンはバツが悪そうに顔を歪ませ視線を逸らした。しかし、その表情は、まるで子どもが大人に怒られて、拗ねているようにも見える。
「別に、協力しないとは言って……………は?」
「なんだ?」
美しい顔貌から、表情が抜け落ちたように固まる天使に、ロルフは掴んでいた襟元を放す。様子がおかしいのは、誰が見ても一目瞭然だった。宝石が散りばめられたような瞳が、万華鏡を回転させるように色を変えていく。かつて、この瞳は小鳥たちと視界を共有しているのだと、そういう契約をしているのだと、自慢気に天使が話していたことを、ロルフは思い出した。
「黒い何か、モヤ、が……王国に接近している!」
寝室の方角から、甲高い悲鳴が聞こえた。
ーーー
「母上!」
悲鳴を聞きつけた2人は、迷わずトウランの部屋へ押し掛けた。壊れてしまいそうなほど強引に開けたドアに爪を立てながら、ロルフは血走った目で寝室を見渡す。しかし、部屋には腰を抜かした中年のメイドが1人だけ、キングベッドで横になっていたトウランは、煙のように消えていた。
「母上はどこだ!?」
焦った狼は、思わず怒鳴り付けるような声でメイドに叫んだ。そして、割れそうなほどドアに食い込む爪の鈍い痛みにも気付かず、五感で母を探そうとする。肝心のメイドは見たこともないロルフの形相に、恐怖のあまり言葉を発することができなかった。ただ、わなわなと震えた指で小さな小窓を指差す。
小窓はキィキィと音を立てながら開いていた。留め具が外れ掛け、今にも落ちそうな窓の下には、ガラス片のようなカケラが散り散りになりながらも、仄かな光を放っていた……嫌な予感がする。ロルフは速る鼓動を抑えるように胸元を掴みながら、ガラス片を避け窓から城下町を見下ろす。
そこには、目を疑う光景があった。
国が、闇に包まれている。まるで、洞窟の最深部のように、光の道筋すらない。それは、日が沈まないジャーマンアイリスにとっては、異常な光景だった。
「母君が龍の姿になって、黒いモヤに接近しているよ」
メイドを落ち着かせながら、ギャビンは冷静に言い放つ。万華鏡は回り続け、忙しなく小鳥と視界を共有している。ロルフは己の嫌な予感が的中したことを悟った。恐らく、このガラス片のようなカケラは母の鱗だ。謎の気配を察知した母は飛び出したのだ、龍化したら狭いであろう窓を。そして、無理矢理通ったことにより鱗は擦れ落ち、この惨状が出来上がってしまったのだ、と。
……加勢に、行かなければ。
身体のメッキが剥がれるように、人皮が捲り上げられ、代わりにオリエンタルブルーの毛並みが浮き出てくる。鼻が尖り、口と舌が長くなり、二足から四足歩行へと変幻していく。それは正しく、狼の主そのものだった。ロルフは後先考えず、ドアを破り走っていった。
城門を駆け抜け、ロルフは夜目を光らせながら周りを見渡す。案の定、城下町はパニックに陥っていた。いつもは凛々しい兵士たちも、どうすれば良いか分からず、槍を両手に持ち、右往左往している。無理もない、永い時を生きる亜人ならともかく、この地で暮らす人々は暗闇に慣れていない。つまり、いくら経っても視界が暗闇に慣れず、暗順応が出来ないのだ。飛び交う怒声と悲鳴……怪我人が出るのは、時間の問題だ。
「っ!落ち着け……!一旦動かないでくれ!!」
怪我人が出る前に、何とかしなければ。狼の身体を駆使し、人並みの中を走り出しながら必死に叫ぶ。しかし、声は届かず、全て悲鳴で掻き消されていく。そうこうしている内に「痛い!」という叫び声と共に微かな血の匂いが鼻を掠め、満月のような瞳が揺れ動く。
このままではまずいことは、分かってる。だが、この悲惨な状況を落ち着かせる術が分からなかった。妖狼傭兵団団長である己が、情けない、とロルフは鋭い牙をわなわなと震わせながら、無力さに打ちひしがれ肩を落とす。
しかし、耳を澄ますと子ども特有の甲高い声が聞こえてきた。
「おしろに にげてー!!!!」
声が聞こえる方に進むと、1匹の妖精が空中に飛んでいるのが見えた。叫んでいたのは、双子の妖精の片割れ エラだった。ロルフの膝下ほどしかない、とても小柄な体格の少女は、小さな羽を懸命に羽ばたかせ、民の頭上で懸命に叫んでいる。自身の鱗粉により仄かな光を放ちながら、民衆を城へと誘導しようと叫んでいるのだ。しかし、必死に叫ぶ子どもの声に気付く者もいるが、多くの人々はそれどころではなく、パニック状態のままだ。
それでもエラは、懸命に城へと避難するよう叫ぶ。仄かな光が頭上にあることなど、目下すら見えていない民衆が気付く筈がないのに。事態は依然として変わらず、母を追いかけたいという焦燥と、民衆を放っておけないという相反する気持ちがロルフを蝕み、その場から動けなくさせた。
だが、ふと、己の頭上が星斑のようにポツポツと明るくなるのを感じた。そして、己の額にふんわりとした感触、それは白銀の羽根だった。光り輝く無数の白銀の羽根が闇を照らし、空から舞い落ちてきたのだ。パニックになっていた民衆は一斉に空を見上げ、一縷の望みである光、どのような常闇でも輝き、光を放つ天使を見つけた。
天使は屋根の上に脚を組みながら座していた。ロルフと交わる視線の中、鼻を鳴らし、狼を小馬鹿にしたような表情で、神の御言葉を与えるかのように話しかける。
「お前は脳筋なんだから変に考えるな。ここは私たちに任せて、母君のもとに行きなよ」
ロルフの返答を待たずに、天使は翼を広げ詠唱する。
ギャビンの頭上に光輪が浮かび、両手からはラッパを模る魔法陣が金色の光を帯び輝き、周囲を照らす。
《光あれ 天使の導きのもとに》
空に光り輝く柱状結晶群が次々と浮かび上がる。結晶たちはくるくると宙を舞い、城へと向かっていった。柱状結晶群は城門を中心に集まり、城の存在を際立たせる。
「城門を開けよ!責任は全て、私が背負う!」
ギャビンの命令により、右往左往としていた兵士たちは目付きを変え、次々と「城門を開けよ!」と城門前で待機している兵士に届けるために叫び続ける。声は届き、城門前の兵士たちは眩しさに目を眩ませながらも、重苦しい城門を開けた。暗闇の中、突如現れた光に目が対応できない者もいた。しかし、パニックになっていた民衆たちにとっては希望の光である。我よ我よとぼやけた視界の中で進む者たちへ、光輪輝く天使は「小さい子どもは抱えろ!」と的確に指令していく。小さな妖精も「はしらないでー!」と子ども特有の甲高い、大きな声で叫び飛び回っている。己の責務を全うしている2人を見上げながら、狼は空を飛べなければ、知恵が回ることもない自分が情けなくなった。
しかし、そうじゃないだろうと、爪を地面に食い込ませ、ロルフは己を鼓舞する。ギャビンの言う通りだ、変に考えるな。所詮、己は人狼。人を欺き凱歌を奏する、それこそ己が誉れの種族。その最後の1人である自分を、そのまま孤独に死ぬ運命だった自分を拾い上げ、救ってくれた2人に誓ったのだ……この爪は、この牙は、守るために奮うのだと。
暗闇を切り裂く刃の如く、ロルフは押し寄せる人波に抗い走った。今も尚、謎の気配と孤独に戦っているであろう母 トウランの元へ。
城下町を抜け、城壁を超えたロルフは、生い茂るハーブの木の群生地を走った。進む程、暗闇が行手を拒むように襲い掛かり、漂う謎の障気で身体がふらつきそうになるが、構わず走る。近付くほど、ハーブ特有の清涼感のある匂いと共に、血の匂いも濃くなっているのだ。どうか、その匂いが、母から流れでるものではないことを祈りながら、それを頼りに狼は疾走する。
すると、闇の中に灯る小さな光が見えた。それは薄月のような仄かな光。ロルフは目を細め、恐る恐る近付き、鼻で動かしてみた。それは、光り輝く白龍の鱗だった。この暗闇の中で唯一の、母の行方の手掛かりだ、と狼は懸命に暗闇の中の光を血眼に探す。鱗は道標のようにロルフを誘導した。
そして、ハーブを押し分け、血の匂いを頼りに進む狼の耳に、啜り泣く女の声が聞こえた。否、この森にいるのは1人しかいない。ロルフは人型に戻り、大声で母を呼ぶ。
「母上ーー!」
傷を負っているのか?いや、母がそのようなことで泣いた記憶はない。なら何故、息を呑む程の悲痛な声が聞こえてくるのか、焦燥感に駆られ、呼吸が乱れながらも狼は走り、光を辿り続けた。
ハーブの群生地を抜け、広葉樹林の中を進み続けると、ロルフは眩い光に包まれた。足元を見ると、大量に削ぎ落とされたような白龍の鱗が、地面に散らばり光を放っていたのだ。
そして、その中心に謎の巨大な生物が横たわっていた。全長約20mほどの、かつてロルフが討伐したバジリスクの何倍もの大きさの魔物。黒いモヤは、その魔物を中心に漂っている。狼は思わずガーターホルスターに仕舞われた短剣を持ち身構えるが……明らかに、様子がおかしい。その魔物は手負の獣であるはずなのに、地面に這い蹲り、弱々しい呼吸を繰り返している。瀕死で、もう暴れる気力もないのだろう。そして、その周囲には赤黒く柔らかい何かが、無数に落ちていた。足蹴にすると、それはミミズのように蠢き死んでいく。鼻を覆っても尚、こびり着く匂いに苦しみながらも、ロルフは状況を整理するために、母 トウランの姿を、啜り泣く声を探し続ける。
意外にも、トウランは直ぐに見つかった。闇が蠢く森の中にいた母の姿は、いつもの様態と違った。血が滴り落ちる魔物の頭部で膝を降り、泣き崩れているのだ。母を象徴する白無垢は赤黒い血で染まり、絹帽子は地面の血溜まりに沈んでいた。人前では絶対に見せない羞花閉月の顔貌を露にし、金色の簪で整えられている白が混じった紅の髪は解かれ、風に舞う。それだけでも異様な光景だったが、それ以上に驚くべきなのは、いつもは飄々としている母が、国王の妻でありながら飄逸に空を飛んでいた母が、魔物の眉間に顔を摺り寄せ泣いているのだ。
この場にギャビンがいたら、全て分かっただろうか。そんな負の感情がロルフの心髄から湧き出そうになる。次男でありながら、己よりも何百年、いや、下手したら何千年もの時を生きてきた天使。頭も切れて、知恵が働く……俺なんかと違って。血が滲み出るほど拳を握り込み、何も分からない自分自身を呪う。何をして良いのか分からず、かと言って母に声を掛けることも出来ず、時間ばかりが奪われていく。だが、ロルフはふと違和感を覚えた。そう、いつもなら隠れているトウランの額、そこに刻まれた龍の紋様が光っていることに気付いたのだ。そして、それは共鳴しているかのように、魔物の額も、何かが弱々しくも光っている。それは額だけではなく、腹部や背部にもあり、まるで鎖のようにも見えた。
『この紋様は、夫婦の証なんだよ』
はるか昔、父の背中で空を飛んだ日に言われた言葉が、何故かふと、ロルフの脳裏に浮かんだ。そう、それは父のように空を飛べたらと憧れていたあの頃。幼いロルフは自分も空を飛んでみたいと、父と母に駄々を捏ねたのだ。そんなこと、人狼の己には出来ないことなど、子どもながらに分かっていたのに、つい我儘を言ってしまったのだ。
すると、困ったように微笑む母を見兼ね、父が炎龍の姿になりロルフを背に空を駆け登った。慌てふためく母を尻目に、逃げろ!と大きく笑いながら父と一緒に空を飛んだあの日。燃えるような赤い鱗に守られた背中にしがみ付き、大きな乱層雲を超え、上空から見える景色は今でも忘れられない。山も海も全てちっぽけに見え、自分が、この世で1番偉くなったような、そんな高揚感に包まれながら父の背中に寝転ぶと、ロルフは父の身体中に光る金色の紋様があることに気付いた。
『父上、これは何?』
『ん?………ああ、これか?この紋様は、夫婦の証なんだよ』
『もんよう?』
『あー………紋様を知らねぇか、そりゃそうだよな……なんて言えば分かる?』
「刺青、呪文……?」と、ブツブツ呟きながらも、どう説明したら良いか分からず、シグマは頭を捻ったが、まだ幼いロルフに対して無理に説明する必要はないと判断し、敢えて何も言わなかった。
『お前が大きくなったら、教えてやるよ』
ロルフは気付いてしまった。魔物は全身を覆う吸血ヒルに覆われていたことを。ヒルは血を多量摂取したことにより、本来の姿かたちよりも更にグロテスクな、赤黒い、巨大なミミズのような姿になっていたことを。
太った吸血ヒルが地面に落ち、赤い鱗が見えてくる。
ロルフは息を呑み、心臓が早鐘を打つのを必死に抑えるように、己の胸元を掴む。そして、どうか己の思い違いであって欲しいと、勘違いであって欲しいと切に願った。けれど、全ての説明が付くのだ。何故、母が龍化し鱗を削ぎ落とすほどの勢いで小窓から飛び出たのか、何故、国が暗闇に覆われてしまったのか……何故、母が泣き崩れているのか。
魔物の背中には、かつて見覚えのある金色の紋様が、鈍い光りを放っていた。
双宿双飛 〜とある夫婦龍の物語〜 辰砂 @Sinsyasan
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