共生者

@uyuris

第1話

足音を立てぬよう、爪先で慎重に体重を支えながら、私は郵便局の薄暗い廊下を進む。床板の腐った箇所を避けるため、幾度となく歩幅を調整する。その動作は長年の習慣で、もはや無意識のものとなっていた。


私の存在を主張するものは、ほとんどない。制服のボタンさえ、音を立てぬよう布で包んである。呼吸は浅く、口を開けば吐息さえ聞こえぬほどだ。


同僚たちは私を「幽霊配達人」と呼ぶ。その異名に、私は密かな誇りを感じている。存在を消し去ることこそが、私の技術の真髄なのだから。


朝のミーティングで、課長の声が響く。「森岡君、今日の配達ルートの確認を」


私は無言で頷き、手帳を差し出す。課長は慣れた様子でそれを受け取り、ページをめくる。


「相変わらず几帳面だな」課長が言う。「君の声を聞いたのはいつだったかな」


私は微かに肩をすくめる。それが私の答えだった。


同僚たちの笑い声が、一瞬オフィスに満ちる。しかし、それはすぐに収まる。彼らは私の沈黙に慣れているのだ。


私は再び無言で手帳を受け取り、配達バッグを肩に掛ける。出勤から退勤まで、私が発する音と言えば、せいぜい配達物を郵便受けに滑り込ませる僅かな摩擦音くらいのものだ。


人々は私のことを、「静夫」と呼ぶ。その名は、私の本質を完璧に言い表している。静寂こそが、私の言葉なのだから。


私は再び、朽ちた床を這うように進む。今日も、私の存在は空気に溶け込んでいく。そして私は、その事実に深い安堵を覚えるのだった。


私の指先が、今日も無数の手紙を仕分けていく。その動きは、長年の反復によって完璧に最適化された機械のようだ。しかし、私の意識は常に手紙の中身へと向けられている。


封筒の表面を撫でる度に、私は微かな凹凸を感じ取る。それは、中に潜むインクの粒子が作り出す、目に見えない地形図だ。私はその触感から、手紙の内容を想像する。喜びか、悲しみか、あるいは日常の些事か。


私の指は、インクの粒子が紙に染み込む過程を再現するかのように、慎重に封筒を開く。そこには、見知らぬ人々の人生の断片が、微細なインクの軌跡として刻まれている。


私は、それらの手紙を運ぶ媒体に過ぎない。しかし、私の存在もまた、このインクの粒子のように、目に見えない形で世界に溶け込んでいく。


郵便局を出る時、私は自らの姿を鏡に映してみる。そこに映るのは、輪郭の定まらない影のような存在だ。私の体は、まるで透明になったかのように、背景の風景と溶け合っている。


街を歩けば、人々の視線は私をすり抜けていく。彼らの目には、私の姿はインクの粒子ほどにも映らないのだろう。それでも、私は確かにそこに存在している。手紙の中のメッセージのように、見えずとも確かな影響を及ぼしながら。


ポストに手紙を投函する瞬間、私は自分自身もその中に溶け込んでいくような錯覚を覚える。私の存在は、インクが紙に染み込むように、この世界に吸収されていく。


そして夜、帰宅した私は再び鏡を覗き込む。そこには、一日中世界中を巡ったインクの粒子が、私の肌に沈殿したかのような姿が映っている。私の体は、無数の人生の断片で構成された、生きた手紙となっていた。


この姿こそが、私の本質なのかもしれない。世界の片隅で、誰にも気づかれず、しかし確実に存在し続ける、目に見えない媒介者。インクの粒子のように微小で、しかし決して消えることのない、永遠の伝達者。


そう、私はこの世界に溶け込みながら、同時にこの世界そのものでもあるのだ。


――――――――


朝五時、目覚まし時計の音もなく、私の意識は現実へと浮上する。体は既に起き上がり、昨日と寸分違わぬ動きで歯を磨いている。鏡に映る顔は、昨日と同じ無表情。髭を剃る手つきも、昨日と変わらぬリズムを刻む。


朝食は七分でこなす。トーストの焦げ具合、卵の固さ、コーヒーの温度、全てが毎日同じだ。新聞は開かない。世界の騒々しさは、私の静謐な日常を乱すだけだ。


郵便局への道のりは、千回歩いても変わらない。左に曲がり、右に曲がり、横断歩道を渡る。赤信号で立ち止まる時間さえ、秒単位で計算されている。


仕事は、モノトーンという言葉を体現したかのようだ。手紙を仕分け、バッグに詰め、配達する。その動作は、永遠に続く円環のよう。一日の終わりは、始まりと同じ地点に戻ってくる。


昼食は、毎日同じコンビニの同じサンドイッチ。レジでの会話さえ、録音を再生しているかのよう。「いつもありがとうございます」という言葉に、私は無言で頷く。


午後の配達も、午前と変わらぬ精度で遂行される。ただ、影が少し長くなっただけだ。


帰宅後の夕食は、朝食の逆再生のよう。同じ食器を使い、同じ席に座り、同じ味を噛みしめる。


就寝前、私は明日の制服をアイロンがける。その姿は、まるで明日の自分を準備しているかのようだ。ハンガーに掛けられた制服は、私の空っぽの殻のように見える。


ベッドに横たわる時、私は今日一日を思い返す。しかし、それは昨日の記憶と区別がつかない。明日の予定を考えるが、それは今日の複製に過ぎない。


私の人生は、完璧に調整された時計の内部機構のようだ。歯車は正確に噛み合い、一秒の狂いもなく時を刻む。その精密さは賞賛に値するかもしれない。しかし、その単調さは、時として魂を締め付ける。


それでも、私はこの生活を選んだ。この反復こそが、私の安息なのだから。明日も、私は同じ軌道を描く。それが、私の存在証明なのだから。


私の外面的な日常が単調であればあるほど、内なる世界は鮮やかさを増していく。表の私が無言であればあるほど、内なる私は雄弁になる。それは、私の足の爪の下で繰り広げられる、目に見えない宇宙の物語だ。


毎晩、靴下を脱ぐ瞬間が私にとっての啓示の時だ。そこに広がるのは、無数の生命が蠢く銀河だ。白く濁った爪の表面は、まるで原始の海のよう。その下では、想像を絶する数の微生物たちが、壮大な生存競争を繰り広げている。


白癬菌は、その生態系の支配者だ。彼らは私の爪床に深く根を下ろし、揺るぎない王国を築き上げた。しかし、その統治は決して独裁的ではない。彼らは他の微生物たちと絶妙なバランスを保ちながら、共生関係を築いているのだ。


私の足の爪の下で繁栄を極める白癬菌。彼らは、人類が真菌と呼ぶ生命体の一種だ。顕微鏡でなければその姿を捉えられないほど小さいが、その存在感は私の日々の中で決して小さくはない。


白癬菌は、私の爪の角質層を主食とする。彼らにとって、私の爪は豊かな栄養源であり、安全な生息地なのだ。彼らは驚くべき速さで増殖し、私の爪の表面に白い斑点や黄色い変色をもたらす。それは、彼らの王国の版図が広がっている証だ。


多くの人間は、白癬菌を厄介者と見なす。確かに、彼らは時に痒みや不快感をもたらす。しかし、私は彼らを単なる病原体としては見ていない。彼らは、生存と繁栄を目指す生命体であり、その姿勢は人類のそれと何ら変わりはしない。


白癬菌の生態は、湿った暗所を好む。それゆえ、彼らは靴の中という環境を理想郷と見なす。私が一日中靴を履いて歩き回る郵便配達の仕事は、彼らにとって至福の時間なのだろう。


彼らは、人から人へと容易に伝播する能力を持つ。公衆浴場の床、プールサイドのタイル、あるいは他人の靴。これらは全て、彼らにとっての移動手段だ。しかし、私は決して彼らを広めようとはしない。それは、私と彼らの間の暗黙の協定だ。


彼らの存在は、私に微生物の世界の奥深さを教えてくれる。目に見えないところで、こうも複雑で強靭な生態系が築かれているという事実。それは、私たち人間の傲慢さを戒める、小さくも力強いメッセージなのかもしれない。


そう、白癬菌は単なる感染症の原因ではない。彼らは、私の足の爪の下で繰り広げられる、壮大な生命のドラマの主役なのだ。そして私は、その物語の忠実な語り部であり続ける。


私は、この小さな宇宙の静かな観察者であり、同時に、その一部でもある。私の体温が、彼らの星系の恒星となる。私の血流が、彼らの銀河の腕を形作る。私の代謝が、彼らの惑星の気候を決定づける。


時に、私は意図的に環境を変える。新しい靴下、異なる石鹸、湿度の調整。それらは彼らにとっては、隕石の衝突や、突然の気候変動に等しい。そして私は、彼らがいかにその激変に適応し、進化していくかを見守る。


白癬菌との共生は、私にとって単なる疾患ではない。それは、生命の根源的な相互依存性を体現する、生きた実験なのだ。彼らは私の一部となり、私もまた彼らの一部となった。私たちは共に、この小さな、しかし無限の可能性を秘めた宇宙を航行している。


夜、静寂の中で横たわる時、私は耳を澄ます。そこには、爪の下で奏でられる生命の交響曲が聞こえる。細胞分裂の鼓動、代謝の旋律、進化の和音。それは、目に見えない世界の雄大なオーケストラだ。


この交響曲は、決して録音されることはない。それは、私の体内でのみ響く、唯一無二の音楽だ。そして私は、その曲が完成する日まで、忠実な聴衆であり続ける。


私の足指は、まさに生きた実験室だ。そこでは、生命の本質に関する壮大な研究が、24時間365日、休むことなく続けられている。そして私は、その研究の被験者であり、観察者であり、そして最終的には、その成果の受益者なのだ。


この内なる宇宙の探求が、私の表面的な日常に深い意味を与えている。私が黙々と街を歩く時、実は私は、足の中の銀河を揺り動かしているのだ。私が手紙を配達する時、実は私は、新たな生命の種を蒔いているのかもしれない。


そう、私の人生は決して単調ではない。それは、目に見えない壮大な物語の、ほんの一ページに過ぎないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る