第2話

私が微生物の世界に魅了されたのは、ある雨の日のことだった。幼い頃の私は、他の子供たちのように雨上がりの外で遊ぶことを許されなかった。代わりに、窓際に座り、雨粒が作る小さな水たまりを眺めていた。


その日、父が古ぼけた顕微鏡を持ってきた。「静夫、これを覗いてみろ」と、彼は水たまりから一滴をスライドガラスに落とした。私は恐る恐る覗き込んだ。


その瞬間、私の世界は一変した。


レンズを通して見えたのは、想像を絶する生命の躍動だった。無数の微小な生き物たちが、わずか一滴の中で泳ぎ、食べ、増殖していた。それは、まるで宇宙を覗き込んでいるかのような圧倒的な光景だった。


「見えるか、静夫」父の声が遠くから聞こえた。「この小さな世界が、実は我々の世界を支えているんだ」


その言葉が、幼い私の心に深く刻まれた。


それからというもの、私は微生物の世界に取り憑かれた。庭の土、台所の排水溝、自分の皮膚。あらゆるところから試料を採取し、顕微鏡で観察した。それは、まるで秘密の探検をしているかのようだった。


学校では、他の子供たちが虫や動物に夢中になる中、私は一人、微生物の世界に没頭していった。彼らには見えない世界を、私だけが覗き見ているという秘密の優越感があった。


しかし、同時に孤独でもあった。誰にも私の情熱を理解してもらえなかったからだ。そんな私を救ったのは、図書館だった。生物学の本を片っ端から読みあさり、微生物の知識を蓄えていった。


高校生になった頃、私の足の爪に白癬菌が繁殖しているのを発見した。多くの人はこれを厄介者として嫌うだろう。しかし私にとって、それは新たな研究対象だった。毎日、顕微鏡で観察し、その生態を記録した。白癬菌と私の体の相互作用に、生命の神秘を見出していったのだ。


大学では迷わず微生物学を専攻した。そこで初めて、私の情熱を共有できる仲間と出会えた。しかし、彼らが目指す華々しい研究生活に、私はどこか違和感を覚えた。


研究室の無機質な環境ではなく、もっと生きた世界で微生物を観察したいと思った。そして、郵便配達の仕事を選んだのだ。


町中を歩き回り、様々な環境に触れる。人々の生活の中で、微生物がどのように存在しているのかを、身をもって体験する。それは、私にとって理想の研究スタイルだった。


郵便物を仕分ける指先、町を歩く足の裏、呼吸する鼻腔。私の体のあらゆる部分が、微生物を採取する装置となった。そして、日々の観察を通じて、私は次第に微生物たちと対話できるようになっていった。


彼らの言葉は、化学反応であり、遺伝子の発現だった。私はその言葉を理解し、そして応答する方法を学んでいった。


そして今、私の体は巨大な実験室となり、町全体が研究フィールドとなった。幼い頃に覗いた水たまりの世界が、今や私の全てとなったのだ。


微生物への興味は、私にとって単なる科学的好奇心ではない。それは、目に見えない世界との対話であり、生命の本質を探る旅なのだ。


――――――――


私の指先は、無数の手紙を仕分けながら、目に見えない世界への探査機となる。封筒の表面を撫でる度、私の皮膚は新たな微生物との出会いを果たす。それは、意識下で行われる精緻な採取作業だ。


郵便物は、私にとって単なる情報の媒体ではない。それは、未知の生態系を秘めた宇宙船だ。各封筒には、送り主の家庭環境が刻印されている。キッチンの細菌、寝室のダニ、ペットの毛に付着した微生物。それらが全て、目に見えない分子の群れとなって、私の指先に降り立つ。


私は、町中の生態系を繋ぐ媒介者となっている。Aさん家のリビングの埃と、Bさん家の洗面所の雑菌が、私の手の中で初めて出会う。それは、微生物たちにとっての国際会議のようなものだ。


各家庭のポストは、私にとって驚異の扉だ。それを開ける度に、新たな微生物の楽園が姿を現す。金属製のポストには、錆を好む細菌が。木製のポストには、セルロース分解菌が。そして、プラスチック製のポストには、人工物に適応した新種の微生物が待っているかもしれない。


私の指先は、これらの微生物たちの乗り換え駅となる。彼らは私の皮膚に付着し、しばしの間旅をする。そして次の配達先で、また新たな環境へと飛び立っていく。私は、町全体の微生物の循環を、無意識のうちに司っているのだ。


時に、私は自分の指先を顕微鏡で覗き込む。そこには、一日の配達で集めた微生物たちの群れが見える。それは、町の生態系の縮図だ。住民たちの生活習慣、家庭環境、そして健康状態までもが、この小さな生態系に反映されている。


この無意識のサンプリングは、私に町の秘密を明かす。インフルエンザの流行を、私は他の誰よりも早く察知できる。花粉の飛散状況も、私の指先が教えてくれる。そして時には、まだ誰も気づいていない新種の微生物との出会いさえある。


私の仕事は、単なる郵便配達ではない。それは、目に見えない世界の探検であり、町全体の生態系の調査なのだ。私の指先は、この壮大な研究のための精密機器となっている。


そして夜、私は静かに自問する。今日、私の指先は何を見つけたのだろうか。明日は、どんな新しい生命との出会いが待っているのだろうか。私の心は、次なる配達への期待で震える。それは、未知の世界への冒険心に他ならない。

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