最後の消失

もも団子

雨雲

 いつからだろう——怯える顔に何の慈悲も持たなくなったのは。いつからだろう——手に馴染む紅色の血に恐怖を抱かなくなったのは。

命じられた対象を始末する。そこに個人的な感情はない。まるで人形のような。

 自分の両親が人殺しだと知ったのは五歳半のときだ。幼い心では到底理解しきれなかった。理解しようともしなかった。それからは、暗殺者になるための訓練の日々を送った。私の意思は見向きもされない。いや、私自身が見ようとしなかったのかもしれない。


 霜月の夜、幕府からの便りが届いた。

「八鍬一家殿


貴殿の忠義、日々の勤め、誠に感服いたします。さて、内密ながら急務にて御座います。ここに願いを一筆申し上げます。


この度、幕府においては、和泉国水前藩の領主である松俵氏の動向が不穏と認められ、これを除去せねば国中の安寧を保つこと難しと判断いたしました。つきましては、貴殿におかれまして、速やかに策を講じ、密かにこれを始末するよう依頼申し上げます。


この件に関しましては、他に漏らすことなきよう厳重に御留意願います。成功の暁には、相応の恩賞を持って報いる所存に御座います。


貴殿の忠義と奮闘を、幕府一同、心より期待しております。


天命を果たし、天下の安寧を共に成し遂げんことを。


以上


江戸幕府」

 幕府からの依頼は珍しいことではない。しかし、大名の暗殺というのは通常とは一線を画したものだ。位が高くなるにつれて警護も厳重になる。

一家の当主である父は、便りを一読した後飛脚を幕府に送った。その後、私たちは仕事の計画について講じた。

おそらく一筋縄ではいかない———。

 夜が明け、私たちは支度を済ませた。妹の鶴姫と並んで馬車に腰掛け、五十里先の和泉国を目指した。到着するまでは道具の手入れや計画の確認を行った。途中日が沈んできたため、山道の脇で野宿をすることにした。

 翌日の正午———和泉国の土を踏み込んだ。

予定の時刻になるまで大名屋敷の情報収集を行うため、人通りの多いところを目指した。街には活気が満ちており、人情味溢れる喧騒には華やかさが見え隠れしていた。大名の暗殺が企てられているとは全く誰も考えていないだろう。

住民によると、大名屋敷には二十人を超える護衛がついているそうだ。また、自ら屋敷に足を運んだ際、建物の周りの堀に水が張られていることが確認できた。水深は恐らく五メートルほどだろうか。亀はゆったりと水草の間を泳ぎ、小魚たちはきらめく鱗を揺らしながらその周りを賑やかに踊っていた。

 日が落ち、昼間の賑わいからは想像がつかないほどの静寂が辺りを包み込んだ。私たちは能面を被り、屋敷前の茂みに身を潜め機会を窺った。

「いくぞ」

鶴姫に合図を出し、門まで颯爽と駆けた。そして門の前にいた見張りの首を掻っ切り、死体を堀に落とした。緑掛かった水が一瞬にして黒く染まった。私と鶴姫は二手に別れ、大名を探した。屋敷は広大で、城を建てられるほどの面積を有していた。

廊下を走っていると大男が私の方へ向かってきた。男は腰に携えている刀を握り、低い声で言い放った。

「貴様——刺家だな。松俵様には近づかせんぞ。」

そして刀を抜き、振り翳した。私は短刀を左手に持ち、刀にぶつけた。キーンという金属音が屋敷中に鳴り響いた。それから間を空けず、私は右手に隠していた針を男の胸に突き刺した。針に付けた毒によって男の腕からは力が抜け、足が震え出した。刀の落下音と同時に、短刀を顎舌骨筋に刺した。木製の床が不気味な深紅へ塗装されていき、薄暗い廊下に異様な影を落とした。

しばらく走ると、正面に赤い障子が現れた。障子からは異臭がし、どこか威圧的に感じる。

周りへの警戒を維持しつつ扉を開いた。部屋の中は薄暗く、障子の穴から入っている月明かりが部屋の惨状を知らせた。床には手や足、首のどこかがない不完全な胴体が散乱しており、血の滴る音が絶え間なく聞こえ続ける。

私はこれの犯人が鶴姫だと察した。鶴姫は残酷なやり方を好み、殺生に快楽を感じているからだ。しかし、肝心の鶴姫が見当たらない。恐らくこの部屋は寝間で、大名がいたはず。その大名の気配すら、この部屋からは感じられない。

違和感に頭を巡らせていると外から声が聞こえた。

「刺家が出たぞ! 出会え出会え!」

足音が大きくなっていき、こちらに近づいてくるのが分かった。誰かが通報したのだろう。幕府公認とはいえ、捕まるわけにはいかない。

逃走するため、障子の穴から外の様子を伺った。目の前には庭園が広がっており、池に人が浮かんでいるのが見えた。障子を開け、すぐに近寄った。

池の水は月光を反射せず、暗闇に同化している。

浮かんでいる人を陸に引き上げた。死体は首から上がなく、見覚えのある衣服を身に纏っていた。私は、自分が置かれている状況をすぐさま理解したと同時に、激しく憤慨した。

幕府に嵌められた。恐らく、幕府による暗殺に従事してきた八鍬家を危険視したのだろう。これまでのことを八鍬が世に放てば、幕府は一溜まりもない。

今頃八鍬家の屋敷も襲撃にあっているだろう。

私は短刀を取り出し腹に押し当てた。金属が肌を冷やしている。恐怖はない。してきたことが自分に戻ってくるだけだ。

目の前から月光が消え、蟋蟀の声が消えた。


いつまでだろう—胸の痛みが消えるのは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最後の消失 もも団子 @momodango2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る