七つ、供《とも》と幣《ぬさ》と
洞窟は未だ拡大の一途を辿っていた。最初はザイレンが屈む必要があるほど低かった天井は、もはや倍は高い位置にある。
かなり急な角度で折れる曲がり角の向こうから響く、低く掠れた祈祷の声。
そしてせわしなく神経質な、こつこつという打音。
曲がり角の先には家が一軒丸ごと収まりそうな空間があった。壁には道の三倍はあろう密集した灯り。地面の真ん中には溝と窪みを掘った分厚い石盤が横たわっているが、その先にまだ洞窟は続いていた。その先は灯りが極端に減っており、暗さ故に先は見通せない。
石盤の前には座り込んで祈祷の言葉と思しきものを延々と呟く白髪の老婆。
その手前で、まるで落ち着きのない仕草で歩き回る男。
石を打つのは男の足音だった。
青白い肌、首にかかる髪。鼻ごと引き延ばされた面長の頭。痙攣するように揺れる白目がちの目は、しかし真逆の見た目をしたドウツキと呼ばれた青年を思い出させる。
「まだか、オヒキ婆。まだかかるんか」
男は甲高い声で小さく叫んで、子供のように地団駄を踏んだ。硬い靴底が岩の地面を叩いて打音を響かせる。
対して老婆が小さく首を振って、詠唱と変わらない細く掠れた声で答えた。
「……駄目じゃあ、ヘキレキ様。あとちょっとのとこまでいらしゃっておられるに、そこからまるで落ちてこねぇ。こんなこたぁこの婆も初めてよ」
「えいくそ、ナガチ様ともあろう方が何をやっておられるか。こんだけの花嫁を前にして、何をもったいぶってらっしゃるんじゃ!」
「これ、ご当主様ともあろう方が罰当たりな言葉を使うんじゃねぇ。ナガチ様のお怒りに触れたらどうする」
老婆の諫める声にヘキレキと呼ばれた男の声が潜められる。だがその声音にはまだ熾火のように隠し切れない不満がちらついていた。
「……やや子が減っとる。生まれても
「わかっとぉ、わかっとぉがどうにもならん。ナガチ様、土地神様のご都合じゃ……もしやと思うがこの娘、なんぞ何処かのお手つきになっとる訳じゃあるまいな」
「そんな話は聞いてねぇ。第一、多少の加護はこの
二人の顔は、いらだたしげに老婆の横に座り込む人影に向いた。
先ほどフザンが首を飛ばしたのとよく似た背格好の、白装束の娘。だが、似ているのは見た目だけだ。中身の格がまるで違う。
逃走を防ぐためだろう、手を後に回された姿で縄がかけられている。帽子は無く、黒々とした髪の毛は腰に届くほど長い。
背を向けて座っているため顔は見えない。それでも美しいのだろうと思わせる何かがあった。フザンが感じるのは匂い立つような血と肉と生気の気配。視界に入る前からはっきりと感じられる程の、清らかで力に満ちた、湧き出る甘露そのものの生命力。
なのに何処か、娘の後ろ姿は茫洋として儚く、娘自身の意志が見えない。
状況を把握しているのかいないのか、まるで動こうという気配が感じられなかった。
不意にヘキレキが後、つまりフザン達が潜む曲がり角へと振り向いて叫んだ。
「誰じゃ!」
ヘキレキの傍に設けられた燭台に、白い紙に複雑な切れ込みを入れて引き延ばし作った紙人形が下げられて、ずっと目の代わりの穴で後方――フザンらのいる入り口――を睨み付けていた。
隠形の術も使われた監視警戒用の
フザンは気付いていたが何も言わないでおいた。
嘘は吐いていないし、まだるっこしい展開は好きでは無い。
なのでザイレンが止める間もなく、一際明るい空間に踏み込んだ。
「よぉ、話は聞かせてもらったよ」
「何者じゃ。ここが何処か分かって入ってきよったんか」
高圧的なヘキレキの問いを鼻で笑って、フザンは一方的に告げる。
「何が力が弱ってるだ。てめぇの面を見りゃ分かる、血を濃くし過ぎたお前らの完全な自業自得じゃねぇか。そんなもんに他人の娘を巻き込むんじゃねぇよ。花嫁は返してもらうぜ」
「くそ……ムジナもサトリも、見張りと足止め程度も果たせんのんか!」
フザンの指摘を、しかしヘキレキもまるで聞こえた様子を見せない。
「もしやナガチ様が出てこられんのも、勝手に土足で踏み込んできた貴様らのせいか。こんの不届きもんめが!」
勝手に喚き、疑い、
ヘキレキと呼ばれた男は、すでに大分常軌を逸しているようだった。
青白かったが故に分かりやすく朱に染まった顔を怒らせて、懐から取り出した四枚の札を地面に貼り付けながら一息に唱える。
「さけ、ほめ、くろめ、ふせ!」
次いで指で印を組み、甲高く叫ぶ
「っきょおおおおおおおおおおおッ!」
洞窟の地面が爆発して粉塵を巻き上げる。煙を咲いて目にも止まらぬ速さで何かが飛び出し、壁や天井を跳ね返りながら跳び回る。
高速で飛来するそれをフザンは次々に飛び退いてかわし、手で払いのけ、足で蹴り飛ばす。だがその勢いに押されて若干のたたらを踏んだ。おまけにフザンの殴打を受けても、物体は止まらなかった。
弾かれ跳ね返されながらも、飛翔する物体は速度を緩める事無く洞窟内を乱反射する。壁や床に反射する度に岩盤の表面が削り取られ、細かい粉塵が舞い上がる。
物体は全部で四つ。フザンに向かわなかった最期の一つが、もう一人の標的へと飛びかかる。
どうなることか、とフザンは人の目では追えないはずのそれを目で追った。
すると物体との衝突よりも一瞬早く、ザイレンが片手で印を結び
「あぁ!」
ばがん、と重々しい衝突音。
ザイレンに届く直前で見えない壁にぶつかったように物体が軌道を変え、傍らの岩壁にめり込んで動きを止めた。
これを見たフザンが小さく口笛を吹く。
「法力か。本当に
「うむ。もったいなくも器としての在り方に恵まれた身だ……なんだ、疑っていたのか」
「仕方ねぇだろ。お前が胡散臭すぎるんだよ」
二人は壁にめり込んだ物体に目をやった。
それは生物には見えなかったが、まるで生物のように動いていた。
壁と同じ岩で出来た物体は、四本足のヒトデのように見えなくも無い。あるいは岩で出来た首のない猿の胴体を固結びにして、潰れて太くなった手足を四方に固定したようでもある。
「少しはまともな術士もいるもんだ。
「魔神……いや、死霊魔術の類いか」
「お前らの区別は知らんよ。こいつらは黄泉……人間が死後の世界に見出した破壊と崩壊を形に写したものだ。あんまり写しが真に迫ったおかげで、自分が死をもたらす存在だと勘違いした石塊共だな」
「生者を引っ張る死者の象徴か。なるほど、どっちとも取れるな」
岩にめり込んだ異形――岩厳霊がぶるりと震えると、瞬く間にまた小爆発を起こす勢いでめり込んだ身を弾き出し、他の三体に紛れて再び四方八方の壁面を飛び跳ね始めた。
破壊的な光景に対し、フザンはまるで身構えない。
ザイレンはと言えば懐から三つ叉の短剣を
「秩序の
ザイレンの用いる力は、ハンジョウの神職達が用いる異能とは根本的に異なる術式だった。
フザンの術式擬きは実際は術式ではないため、更に別物である。
「其の
手槍の両端に生えた刃が赤熱する。
赤熱する刃でザイレンは手近に迫った岩厳霊の一体を切り払う。が、軌道を変えるのが精一杯、それどころか自身が大きく弾き飛ばされ、姿勢を崩す羽目になった。
踏ん張ったところでザイレンは低く唸る。
「ちと速すぎる上に硬すぎる。どうするか、このままでは近付けん」
「いや、案外悪くねぇ」
フザンの目は、切り払われた岩厳霊の体に一筋の溝のような傷が刻まれているのを見逃さなかった。
「俺にその得物を向けておけ。しっかり追いついて構えてろ」
「おい、嫌な予感しかせんのだが」
「言っておくが、逃げるなよ? 死にたくなかったら、な」
言うだけ言って、フザンが歩を前に進めた。
その手が縦に長い印を組み、口が呪句を唱える。
「ががくけんがく、ががくけんがく、がごくけんごく、せんじんばんし」
「オヒキ婆、まだか!」
ヘキレキがせっついたのは、単純に本能的なものだったのだろう。
結果的に正確である。
フザンの呪句から、読み取れるものなど何もない。
勝手に読み間違える事こそあろうとも。
「あそぶとり、あそぶまな、いずことしれず。……ひらいてとじる。そくめつあれ」
洞窟の壁面が引き裂け、無数の割れ目が発生する。
岩厳霊の一体が挟まり、次の瞬間閉じた割れ目によって真っ二つに砕かれた。そのまま力を失って地に落ちる。
残る二体も割れ目の数が多過ぎて体の一部が引っかかる事を避けられない。だが蜥蜴の尻尾のように引っかかった部分を自切し、完全に噛み砕かれる事を回避した。
そのまま、印を組んだままのフザンに殺到する二体。だがしかし、乱反射していた時に比べれば速度は落ちており、何より軌道が素直になり過ぎた。
フザンは印を組んで薄ら笑いを浮かべたまま、流麗な回し蹴りで岩厳霊を二体とも蹴り飛ばした。
赤熱する手槍を構えたザイレンの方へ。
二体の岩厳霊を串刺しにする形で受け止めながら、先に打ち払った時以上の勢いで吹き飛ばされるザイレン。
二体の岩厳霊は融解と貫通と衝突による衝撃で粉々に砕け、完全に形を失った。
真上から落ちてきた最期の一体がフザンの頭部に飛びかかり、一瞬で一部を大きくこそげて砕け散る。
ヘキレキが目を見張った。破壊した手段が見えなかったせいだ。
岩石の塊を一瞬で噛み砕く人間など、いようはずもないのだから。
「おどりゃ、まだじゃあ!」
「無駄だ、遅ぇよ」
懐から次の符を取り出そうとしたヘキレキの両腕を、印を解いて一瞬で十歩近い間を詰め、上腕から掴み止めるフザン。
そしてそのまま力む事すら無く、もろこしでも
「っぎゃあああああああああああああっ!」
ヘキレキが痛みと恐怖に絶叫する。
だが驚くべき事に、腕を引き千切られながらヘキレキは後に跳びすさり、フザンから距離を取った。膝を着き姿勢を崩しながら着地したのはオヒキ婆と呼ばれた老婆と花嫁のすぐ手前である。蒼白を通り越して青黒くなった顔色のままヘキレキが掠れた声で叫ぶ。
「オヒキ婆、やれ。わしに落とせ!」
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