三つ、雪崩《なだれ》と礫《つぶて》

 森を抜けると山村が姿を現した。


 麓からは陰になる山の一角を無理矢理切り開いたような場所で、けっこうな勾配の斜面に切り欠いたような段々畑が並んでいる。とはいえ植えられた果樹と思しき木々は濃い緑の葉をたたえて、土地の豊かさを示していた。

 端々の隙間のような場所では細々と野菜も育てられており、ぽつりぽつりと野良仕事に精を出す村人の姿もあった。人数は少ないが、祭の日の光景にはあまり見えない。

 だが森から忽然と現れたフザンの姿を認めると、村人はまるで蜘蛛の子を散らすように畑を放り出して一斉に逃げ去った。どうやら人が来るはずのない日という共通認識はあるようであった。


 フザンは一先ず村の奥へと続くと見られる坂道を登っていく事にした。同時に朧になった昔の記憶をほじくり出す。昔はもう少しこじんまりとしていた代わりに、平らに開けた場所がまとまってあった気がする。

 フザンにとって記憶とは曖昧なものである。あまり意味がないとも言える。

 様変わりした理由に思いを馳せた挙げ句、思わず口に出してしまう。


「あぁ、俺が崩したんだったな」


 何のことはない。そろそろ限界かと思って当時の住民を一網打尽にした名残であった。むしろここまでよく開墾し直したものだと感心してしまう。この地が豊かさだけに甘えず技術のある人間を呼び寄せた証しでもある。村を仕切っている者達に一定の手腕がある事は認めざるを得ない。おそらくはろくな方法で集めた人材では無いにしろ。

 たまには空き巣に入られるのも悪くないのかもしれない。純粋に手間が省けた事に、少しばかりフザンは愉快になった。


 それから間もなく、坂の上から足早にこっちに駆け寄る人影が現れた。

 男と女の二人組である。歳は離れているように見えるが、フザンにはおおまかにしか人の年齢は分からない。ただどちらも子供でも老人でも無いようだった。

 どちらも裾をふくらませたゆったりとした衣を纏っている。男はなまず髭の小兵で、女はひどく太っていた。女の髪は長いが細くて量が少なく、隙間が空いてすだれのように見える。

 二人はフザンのおよそ五歩手前で立ち止まると、その全身を舐めるように見回した。顔つきは真剣で固く、ふざけている様子は無い。恐らくは逃げだした村人が呼んだのだろうという当たりはついた。

 最初に口を開いたのは小男だった。フザンより頭一つ半小さい子供のような体格だが、予想に反して声は低く太く、外見よりも貫禄がある。


「ドウツキをどうした」


 一瞬考えて、フザンはそれが先の見張りの男の事だと気が付いた。


「胴突き……ああ、なるほどね。あの指指しは釘打ちの真似か」

「どうしたと聞いている」

「さぁね、どこかで道草でも食ってるんじゃないか」


 俺が食ったとまでは言わず、ただ唇を親指でなぞるに止めた。

 そして先ほどドウツキとやらにも放った質問を投げかける。


「なぁ、キヨカって娘は何処にいる? 両親にもう一度会わせて欲しいと頼まれたんだ」


 だが返ってきた反応は、予想とは少し違った。

 小男は眉間に皺を寄せて唸ったのだ。


「貴様……あの間抜けな山伏の仲間か」

「仲間? いや、そんな奴は知らんが。……おっと」


 そう言って、ひょい、と前触れも無くフザンが横に動いた。

 そして頭上から掴みかかってきた腕を見もしないで掴み取り、地面に叩き付ける。


 下手くそな鐘撞きのような鈍い衝突音がした。

 フザンの背後、遠い樹上から驚くべき距離を跳んで不意打ちをしかけてきた三人目の男は、今は背中から地面に叩き付けられた衝撃で口から赤い泡を吹いている。折れた骨が内臓を傷つけたのかもしれない。目は白く裏返って意識も無いようだった。

 服装は目の前の男女と大差無いが、男の腕は不格好なほど長かった。

 普通に立っているだけで地面に拳がつきそうなほどである。猿に似ているが、均整は猿より歪かもしれない。

 直前まで奇襲の気配を匂わせなかった小男の顔が、驚きに歪む。


「ワタリ!」

「おいおい。こちとら一応訪問者、まれびとだぞ。黙って頭上に回るのは、無作法じゃあねぇか?」


 焦点の合わぬ事を言ってからかうように笑うフザンに、小男は答えず、傍らに向かって叫んだ。


「やれ!」

「ぼ、ぼぼぼぼぼぼぼぼ」


 答える声は泥沼に湧くあぶくのようだった。

 ざんばら髪の水ぶくれした大女が、応じて大きく口を開く。太い首に大きく醜いしわが寄った。

 蝦蟇がまのような口を限界までこじ開けて、赤黒いものが女の口腔から飛び出し、膨れ上がりながらフザンに殺到した。肝臓より少し薄い色をした巨大な舌は、どういう仕掛けか発生源の女より縦も横も分厚い肉塊となって、坂の上から濁流のように進路にあるもの全てを押しつぶしにかかる。

 だがそれも、何気ないフザンの片手の一振りで盛大に破裂した。葡萄ぶどう酒の樽を割ったような勢いで血が地面にぶちまけられ、地面を夕立ゆうだちの後のように濡らす。

 女は瞬く間に滝のような血を吐き出した後、すっかり細く萎びた姿で地面に倒れ伏した。そのまましばらく痙攣したのは、千切れて縮んだ舌の根が引っ込み気道を塞いだせいである。失血と窒息、どちらで先に死んだのかは傍目からでは分からない。


蚯蚓みみず……じゃなくて山蛭やまびるかよ」


 フザンは手を振ってしずくを切る素振りをする。

 飛び散った血はフザンにも多くかかった筈なのに、何故か上着に小さく残った血の跡以外には跡形も無い。


「死ぬと蛞蝓なめくじだな」

「おのれぇ!」


 わなわなと震えた後、一人残った小男が胸の前で合掌し、音声を発した。


「てぇぇぇぇぇい!」


 がごん、と拳大の石が何処からか飛んできてフザンの頭を直撃する。

 何も無いところから飛んできたとしか思えない軌道であった。

 フザンの顔が僅かに俯くのを見て、小男が無理矢理に獰猛どうもうに笑った。

 投石の殺傷力は見た目以上に高い。当たり所によっては人が容易に死ぬ。

 フザンにも流石に効いたと考えたがっている事は、小男の表情から手に取るように伝わってくる。

 対して何も言わずにフザンは顔を起こし、


「そこまでにしておけ」


 その声の主は、フザンではなかった。

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