夏季限定レンタル友達

時任時雨

夏季限定レンタル友達

 最近は様々なものでレンタルサービスが流行っているけれど、その文言を見たときはさすがに目を疑った。レンタル友達もそうだが、その枕詞。夏季限定とはいったいどういうことなのだろうか。夏季があるのなら春や秋、冬にもあるのだろうか。興味本位でそのポスターを眺めているとぬるい風が肌をべっとりと撫でつけてきた。湿気と汗で額に髪がくっ付いて鬱陶しい。それを払いながら改めてポスターをじっくりと読み込んでみる。さしたることは書いていない。巷で話題のレンタル彼女、その友達版ということだった。

 自分が人間関係に飢えているとは思わない。どちらかというとドライであると思う。風に流される乾いた砂を思い浮かべる。砂漠に浮かぶそれは雨を知らず、水に濡れて一つになるということも当然知らない。そういうものだった。きっと暑さが思考の方向性を奪っているのだろう。妙に乾いた想像ばかりしてしまう。乾いた喉は水分を求めて足の自由を奪った。

 気付けばクーラーの効いた店内でズゾゾと冷たいコーヒーを飲んでいる自分がいた。夏の昼、昼食のピークをすぎて、けれど夕方にはなり切らないこの時間帯にこんな場末の喫茶店にいる人はよほどの暇人か、あるいは私のようなサボりを敢行している悪いやつか。私以外の人をチラリと盗み見る。二人。一人は優雅なランチを堪能している奥様。もう一人は切羽詰まった様子でパソコンと睨めっこをしている大学生らしき人。対照的だし、先ほど提唱した定義に当てはまるような客ではなかった。

「何やってるんだろう」

 思わず言葉が零れた。高校二年生の七月末。一学期の終わり。期末試験は二重の意味で終わりを迎え、後に残る授業をこうして抜け出している私には、いったい何が残っているのだろう。窓に映る自分に問いかけてみる。腰まで届くほどに伸ばされた黒い髪、銀縁眼鏡をかけた陰気な顔の少女の答えは沈黙だった。それで答えが出ているのなら問いかける必要性はない。答えを出す必要性も見つからなかった。


 大きく時間を潰した。具体的に言うと一時間半ほど。バイトの人の目線が痛くて、しばらくは耐えられたけれど、さすがに耐えられなくなったから会計を済ませる。随分と目つきの悪いバイトさんだったが、あれで上手く接客できているのだろうか。心配は表面だけで簡単にその形を崩す。三歩歩いたら忘れるそんな心配を胸にドアを開く。くぐった瞬間に猛烈な熱気が身体を襲う。冷えているところにいたから余計にそう感じるのかもしれない。髪を一つにまとめてささやかな涼を手に入れた後、ゆっくりと歩を進める。

 体に染みついた帰巣本能はすこぶる優秀で、意識しない内に家まで歩いていた。間の出来事の記憶が全くないあたり、まるで夢遊病のようだなと他人事のように思う。夢と現実の区別がつかない。地に足を付けて生きているという実感が持てない。ふわふわと浮いた私がそのまま教室内でのポジションに収まる。端的に言えば、私は教室で浮いていた。高校生活最初の合宿で一日遅刻して参加したのがよほど響いたらしい。見た目は大人しいけれど実はとんでもない不良である、という噂が一人歩きして、さらに早退という名目のサボりを繰り返す悪癖も合わさり、すっかり敬遠される立ち位置を手に入れてしまった。地元ではそこそこの進学校だから、そういう落ちぶれた人間は相手にされることはなく、ただ落ちていく様を遠目から眺められることになる。見世物じゃないぞと思ってはみるものの、思ってみるだけで口に出ることはなかった。


「あんた、今日学校行ったの?」

 ノックもなしに部屋の扉が開かれたときは、母が来た合図だ。無意味に開かれた教科書と睨めっこしながら「行ったよ」と返す。

「家から出てるの、母さんも見てたでしょ」

「あんたよく早退してるじゃない。私が言ってるのはそのこと。最後まで学校にいたの? 出席日数足りなくなったら留年なんだからね。一年のときも危なかったでしょう? 高校からはただじゃないんだから、ちゃんとしなきゃダメよ」

「わかってるって」

 母が去った後、教科書は違うページを開いている。それを閉じるとテカテカとした表紙に自分の顔が映った。自分と目線が合う。すぐにその視線を逸らして風呂場へと向かう。冷たいんだかぬるいんだかよくわからない温度のシャワーを浴びていると思考はその回転を緩やかにする。しゃっきりとした頭に入れるのはスマホの画面に流れる無意味な情報の羅列だけで、教科書が再び開かれることはなかった。

 ベッドに横たわると同時に指で頬を撫でる。少しカサついている気がした。人並みに乾燥対策はしているつもりだし、夏場だというのにこの有様では冬が思いやられる。眼鏡を外してスマホのスケジュールを開いた。土日に入っているバイトのシフトだけが燦々と輝いており、あとは一学期の終わる日が書いてあるだけ。ここまで空白の多いスケジュールをアプリで管理する意味はあるのだろうか、と自答する。もちろんあるからこうしているのだ。紙に書いたメモはなくしてしまう。スケジュールアプリのメモに入れておけば必ず目にするから忘れる心配は減る。つまるところ、スケジュール管理としての役割よりもメモ帳としての役割を重視している。

 その中で目に付いたのは、今日の昼に見かけたレンタル友達屋の連絡先だった。

 何故メモをしたのだろう。ただの興味本位以外の理由は思い浮かばなかった。同じ理由でなんとなく電話をかけてみる。呼び出し音が数度繰り返される。

『はいもしもし。レンタル友達屋きらりです』

 相手が電話に出てから、目的がないことを思い出した。

「あーもしもし。その、予約というか。ポスター見て、それで連絡したんです」

『夏季限定のポスターですか?』

「はい。たぶんそうです」

『少々お待ちくださいませ』

 待機音が鳴り響く。流れで予約することになってしまったけれど、大丈夫だろうか。値段は……まあバイトのお金に手を付けてないからどうにでもなるとして、そのレンタル友達というものと私は上手く会話をできるのだろうか。どう上手く想像してみても、気まずい時間しか想像できなかった。私は口数が多いわけではない。ウィットに富んだ会話ができるのなら今頃噂を跳ね除けて友達の一人や二人くらいいるだろう。そうなっていないということは、そういうことだ。

 待機音が解除される。プツ、と音が鳴った。

『お待たせいたしました。夏季限定ですと七月二十六日の午後から可能ですね。いつになさいますか?』

 先ほど見たスケジュールを思い浮かべる。その日は空白ではなく、終業式の日だ。親から早く帰ってこいとの催促がなければ、午後は自由に動ける。

「じゃあ、その日で。時間とかは」

『三時間から可能です』

 レスポンスが速かった。

「じゃあ、三時間で。あの、場所とかは」

『そちらもある程度指定可能ですね。目的にもよりますが、どういった目的でのご利用でしょうか?』

「えっと、どういうことですか?」

『例えば飲み会の際に人数が足りない、かっこいい友達を紹介してと言われたけれどそんな友達がいない。そういった目的で当店を利用されるお客様が多いですね』

 なるほど。レンタル彼氏や彼女と同列に考えていたが、言われてみればそういう利用方法だってある。そちらが主流で、私のようになんとなくかけてみただけなんて人はいないのだろう。とりあえず口から出まかせでなんとかすることにした。

「単に遊び相手が欲しくて。えっと、同性の」

『なるほど。ですと、駅の近くにあるアクアリウム展がオススメですね』

「じゃあ、それで」

 主体性の欠片もない顧客だと呆れられているかもしれない。若干の困惑を電話越しに感じ取れた。目的がないのだから、主体性があろうはずもなかった。アクアリウム展や途中の買い物等の費用はこちらの負担になる、ということが伝えられて電話が終わる。

 寝転んだまま天井を見上げる。蛍光灯の光に誘われた羽虫がふらふらと揺れている。羽虫に自分の手の平を重ねて見る。手をどけたときに見えるのはただの灯りだけで、羽虫はどこかへと消えていた。

 友達がいない。そのことを悩みだと思っているわけではない。仮に不良だと思われていなかったとして、私に友達ができていたとして、その友達と仲良しこよしができていただろうか。その様子は全く想像ができない。

 容易に想像できるのは、友達の集まりを一歩引いて傍から眺めている自分の姿だった。


 ○


 上の空になっている内に終業式が終わっていた。どこか浮足立っている教室で、私はやはりというべきか、思考に耽っていた。一人でいるとやることがないから考え事ばかりしてしまう。時折周囲で行われている会話が耳に入り、その会話が思考の方向性に影響を与えることで時間が潰されていく。例えば二つ前の席の永塚くんは長田くんと一緒に予備校の夏期講習に行くらしい。行き先が遊び場でないあたり、真面目なのだろう。受験を意識している生徒ならこの時期に予備校に行っていてもおかしくはない。隣の席の斉藤さんは家族と旅行に行くらしい。行き先は軽井沢。軽井沢というと避暑地というイメージがあり、それ相応に旅行のお値段もかかりそうなものだが、家柄がよかったりするのだろうか。身に着けている靴下やハンカチなどから読み取ろうとしたが、それを行えるだけの知識が私の中にはなかった。そんな周囲に対して私はと言えば、その場の思い付きでレンタル友達と過ごすことになっている。

「なんでだろうな」

 口の中でそんな言葉が転がった。

 担任が教室に入ってきて、一学期最後のホームルームが始まる。夏休みに入るからといって浮かれないようにというのと情報セキュリティに関してのプリント読み上げ。いつもの内容だった。これが変わるときは、うちの生徒が問題行動を起こしたときだけだろう。それに合わせた文言が一言追加されるに違いない。

 ホームルームが終わる。おそらく出入り口には人が多くいるだろう。しばらく待ってから行くのが吉だ。かといってすることもない。夏休みの課題を進めるほど真面目ちゃんでもない。学校に残って勉強しているんですよ、という手も私の教室での立ち位置から使えない。とりあえず通学用のバッグを肩にかけて廊下に出る。一人で歩いている人は少ない。大抵友達複数人で連れ立って、あるいは二人で歩いている人が多数派だ。隙間を縫うように歩いていると、まるでそういうゲームをしているような錯覚を覚える。弾避けゲームならぬ人避けゲーム。自機の残機は一。するすると人の波を避けていると、やがてステージの終点が見えてくる。見えてきた景色は予想通りのもので、人の頭が下駄箱付近を埋めていた。踵を返して学食へと向かう。

 学食は今日まで開いているのか冷房が付いており、オアシスとも言うべき空間だった。話し声の大きいグループこそいるものの、特に気になるほどではない。しばらく座ってスマホを眺めたり時計を眺めたり指遊びをして時間が経過するのをただ待っていた。

 三十分も経てばさすがに人の量はピークをとうに過ぎている。靴箱の前で一人、隣にいる誰かを気にすることもなく、後ろにいる誰かを気にすることもなく、ただゆっくりと学校を出る用意ができるのは実に気楽だった。急かされるようにして外に出れば忘れ物の一つや二つあったっておかしくなない。それを未然に防ぐことができた。そう思うことにしている。

 学校から駅までは近いとは言い難いが遠いとも言いづらい、絶妙な位置にあった。歩いていけないことはないけれど、微妙に疲れるから歩きたくない。そんな距離だ。夏場はその道のりがやけに長く感じられる。幸いというべきか、空は分厚い雲で覆われており、雨すら振り出しそうな雰囲気だ。日差しがないだけで暑さの体感は随分と変わる。

 歩くこと二十数分、駅に着く。晴れよりはマシというだけで暑いことに変わりはない。首筋に流れる汗をタオルで拭う。お手洗いに入って制汗剤やら何やらを使って変な臭いがしないようにする。自分で嗅いでみたけれど、よくわからなかった。汗の臭いが消せていればそれでいい。知らない人に会うのだから、最低限の身だしなみは整えるべきだ。

 待ち合わせ場所は駅の隣に併設されている商業施設、その一階のカフェの前だ。

 

 人と待ち合わせをする、ということが久々だった。中学時代には少ないながらも友達がいた。いや、私が友達だと思っていただけで、あちらからすれば友達じゃなかったのかもしれないけれど、時折話したり体育でペアを組んだりするくらいの仲ではあった。一度だけ遊びに誘われて、そのときに待ち合わせをした。その一回だけだ。当時はスマートフォンではなく親のお下がりでガラケーを使っていたから、私だけ合流に手間がかかったのを覚えている。

 今回はそんなことはなく、待ち合わせ場所に付いてすぐにそれらしき人を発見することができた。

 髪は肩にかかるかかからないかくらいの長さで少し癖毛なのか毛先がゆらゆらと揺れている。ダボっとしたオーバーサイズの半袖のパーカー、下はフレアスカートで靴は白のスニーカー。手提げのバッグを肘に掛けており、スマホを眺めているその瞳は切れ長で鋭い。だが目つきが悪いという印象はなく、クールな雰囲気を感じさせた。おそらくあの人だと思う。どう見ても大学生くらいにしか見えない。年上に話しかけるのは緊張する。

「あの」

 視線が合う。彼女が首を捻ると同時にコキという音が聞こえた。

「どうしたの? 道にでも迷った?」

「いえ、その……待ち合わせがここだって聞いてたんですけど」

「待ち合わせ?」

 彼女の顔に疑問符が浮かんでいる。この人ではなかったのだろうか。だが指定された時間帯で、指定された場所で、人を待っていそうなのは目の前のこの人だけだ。間違い様がないはず、なのだけれど。何か根本的な思い違いをしていたのだろうか。こういうときにメモ帳を開ければ聞いた話の内容を思い出せるのだけど、人に話しかけておいていきなりスマホを開き出すのもそれは決まりが悪いというものだ。

「……あっ、もしかしてレンタルの人?」

「え、はい。そうです。レンタルの人」

 思わず自分で自分を指差してしまった。何だか変な仕草をしてしまったが、彼女はそれどころではなくなったようだった。「ちょっと待っててね」と言うと尋常ならざる様子で電話を掛け始める。何度か掛けて繋がらないことを悟ったのか、嘆息してこちらに向き直る。

「ごめんね、うちの店って未成年は利用できないはずだからさ。制服で驚いちゃった。一応聞くけど、コスプレだったりする?」

「いや、現役です現役。現役女子高生」

「そっか。まあ君は悪くないよ。うん」

 眉間を抑えながら彼女はそう言った。

「……まあ、とりあえずここ入ろうか」


 ○


 駅のカフェは外から見ていただけで、実際に入るのは今日が初めてだ。中にはお客さんがいくらか見受けられ、うちの制服を着ている人も何人かいる。幸か不幸か、同学年の人はいないようだった。話しかけられることはないだろうけれど、後から妙な噂が立つのも面倒だ。そういった心配がなくなるのはいいことだと思う。

長峰寧音ながみね ねねちゃん、だったよね。綺麗な髪だね……あ、ごめんね。不躾に見ちゃって。何か飲む? というか完全にいろいろとこっちの不手際だし、何かを奢らせて欲しいんだ。いいかな?」

 年上の人に矢継ぎ早に話しかけられた上に手を合わせて頼まれてしまっては、私が断ることなんて出来ようはずもなかった。

「そういうことなら……」

 メニューを開く。いまいちどの飲み物がどんな味なのか、想像が付かない。コーヒーを単にコーヒーとしてしか認識していない私に、こういう店はハードルが高かったかもしれない。

「苦いのってどれかわかりますか?」

「んっと、これだね。エスプレッソ」

「じゃあ、それで」

「はい。すみませーん」

 彼女は手を挙げて店員さんを呼ぶ。そのままカプチーノとエスプレッソのアイスを注文した。

「名前は知っていると思うけど、改めて」

「いえ、知らないです」

「え? ちゃんとメールで送られてきてるはずだよ。私の写真と、名前」

 最初からある程度知っておかないと友達感を出せないからね、と続ける。なるほど。というか、これは私が浅慮で不注意だっただけだ。

「すみません。確認不足でした」

「いやいや、いいよいいよ。私は木下美玲きのした みれいって言うんだ。大学二年生。自分で言うのも恥ずかしいけど、人と仲良くするのが得意かな」

 そうでなければこんな仕事をしていないだろう。私は、私も自己紹介した方がいいのだろうか。けれど趣味嗜好くらいはメールで送ったから知っているだろう。既に知っていることを伝えるのに相手の時間を割かせるというのも申し訳ない。

「それで、君はどういう友達が欲しいのかな? そういう風に振舞うのが仕事だからね。よければ聞かせて欲しい」

 言葉に迷っている内に木下さんが口を開く。顔が整っているからか、目力が強く感じられて直視しづらい。

「友達が欲しい……とは思ってない気がします」

「へえ。というと、どういうこと?」

「興味本位で、もし私に友達がいたらどんな人なんだろう、って思ったんです。だから特定の人物像があるわけじゃなくて、私の友達になるであろう人が見てみたいと言いますか」

 話の聞き方が上手い、というやつだろう。初対面だというのに木下さんはやけに話しやすいから、自分でも意識することの出来ていなかった言葉がするすると落ちてきた。

「確か普段は友達が少ないというか、いないってことだったよね」

「不良みたいなキャラだと思われているみたいで」

「君が? 全然そうは見えないなぁ」

 クスクスと笑う木下さんには、不思議と不快感を覚えなかった。同時に「お待たせしました」と飲み物が届く。

「飲みながら話そうか」

「ですね」

 小さいカップに注がれたそれは泡と混ざり合っていて濃い茶色の中に乳白色が見え隠れしている。一口含むと苦みが舌の上で広がった。悪くない、と思う。

 対面の木下さんはカプチーノを飲んで「おいしいね」と笑いかけて来た。何かを言う準備ができていなかったので、曖昧な笑顔を浮かべることしかできなかった。

「不良って、なんでそう思われているの?」

 ことの経緯を軽く説明すると「なるほどな~。でも不良ってほどじゃないよね。サボるくらい誰だってするよ」と言ってくれた。肯定をされることで安心したように感じる。そう感じる自分がいることに違和感を覚える。

 そのことを伝えてみる。

「一人でいたい、一人で完結したいっていう衝動が強いのかもしれないね」

「はあ、そういうものですか」

「全然納得できないって顔」

「そんな顔をしていましたか?」

「してたよ。声のトーンもそうだった。なんとなくだけどね。合ってる?」

「だいたい合っていると思います。納得できていないことが、よくわからないんです」

 一人でいたい。それは確かに合っている。合っているはずなのに、どこか納得できない。

「一人が好きなのは、たぶんそうだよね」

「はい」

「んーと、そうだなぁ……とりあえず飲んで、アクアリウムでも見に行こうか」

 木下さんは困ったように微笑んでカプチーノをぐいっと煽った。カップを傾けすぎて盛大にむせていた。大丈夫だろうか、この人は。


 ○


 アクアリウムというものはなんとなくの知識でしかわからない。盆栽の水槽バージョンというのがしっくりくる形容だが、それが合っているのかはわからなかった。

「雰囲気がいいね。清浄な感じがする」

 木下さんは空気がおいしいわけでもないのに深呼吸をしている。滝でマイナスイオンがどうたらで、というのはある。しかしここはそういう雰囲気というだけだ。気分の問題だから別に構わないけれど。

 しばらく二人で見て回る。カラフルな色をしているのは熱帯魚だろうか。その魚が日本の山のようにデザインされた海藻の森を縫うように泳いでいる。丸い水槽にいくつかの岩を置いただけのシンプルなものもある。いずれにせよ言える感想は少ない。綺麗だとか芸術的だとか、そんな言葉しか浮かばない。知識がないことに対する感想なんてそれくらいのものだ。きっとたくさんの考えがあって岩や草を選んでいるのだろうけど、見る人が私では製作者も魚も浮かばれないだろう。

「悲しいな」

 思わずそんな言葉が零れた。

「悲しい?」

「あ、いえ、その、木下さんといるのが悲しいわけではなくて」

「それはわかるから安心して。よければ聞かせて欲しいな、悲しいって思った理由」

 ちゃんと言語化できるだろうか。私の思考はいつもたくさんの言葉で溢れていて、その中の適切な言葉を選ぶのに時間がかかってしまう。

「作られた水槽の中にいて、誰かが望むように生きているんです、きっと。なのに周りから見たらそれはただ綺麗なだけで、綺麗だねって、そう言われるだけで終わってしまう。どれだけこの魚たちが口を開いて目を動かして必死に主張をしても、私に届くことはない。伝わる以前に、私が知らないから彼らには伝えようがないんです」

 こんな取り留めのない話、腕を組んで真剣に聞いてくれる木下さんは、本当にいい人なのだろう。

「うん……うん! よくわからないね」

「ですよね」

 私もわかると思って話していない。できるだけ伝える努力はしたけれど、私と木下さんは本来違う方向性の人だ。話が噛み合わなくて当然で、木下さんの方から私に合わせてくれているから会話らしきものが成り立っているだけ。

「わからなくてもいいんだよ」

「え?」

「なんとなくこうかなー、くらいでいいの。考えすぎなのかもしれない。肩の荷を降ろして、頭を空っぽにして、何も考えずにやりたいことだけやってみたらどう?」

「やりたいことは、特にないです」

「じゃあやりたいことを見つける、っていうのをやりたいことにしてみればいい。というかやりたいことすらなくたっていいの。何かをやってみてそれでダメならそのときはそのときってね。私はそうやって生きてきた。今だってこのバイトをやってるのは成り行きだからね」

 水槽を見る。反射している。光の加減だった。水槽は何も映していない。だから「あっちも見てみようよ」と言った木下さんがどういう顔をしていたのかはわからない。

「はい」

 背中を追う。その一歩一歩がやけに遠く、重く感じた。


「今日はごめんね。こっちの不手際でいろいろとご迷惑をおかけしました」

「いえ、その、楽しかったです」

「そう? それならよかったよ。またのご利用お待ちしております……っていっても、未成年だからダメか。最低でも二年後だけど、そのときは私四年生だからなぁ。夏限定のバイトだし、難しいかもね」

 今更ながらレンタル友達の枕詞、夏季限定の意味を理解して、それと同時に木下さんはそれじゃあねと言って手をひらひらと振りながら駅のホームへと消えていった。私はその姿が見えなくなるまで、じっと見ていた。

「……帰るか」

 緊張が解けたのか、いつもよりも通学バッグが重く感じられる……と思ったが、それは今日が終業式で荷物が多いだけだということに気付き、はぁと一つ小さなため息が零れた。

 机の上に紙が置いてある。『今日は夜勤だからあるもの食べて』。母の字だった。冷蔵庫を覗くと冷凍ご飯や昨日のおかずの残り、いくつかの惣菜がある。とりあえず食べるときに考えるとして、先にシャワーを浴びることにした。

 さっぱりした体でベッドに寝転がる。ドライヤーで乾かさなければいけないけれど、気が乗らない。自然乾燥は髪によくないらしい。綺麗な髪だと木下さんは言ってくれたけれど。

 木下美玲さん。

 一日限りの出会いで、一日限りの友達だった。

「あ、そうか」

 よほどのことがない限り、もう彼女と会うことはないのだ。

 所属も違えば生活圏も違うし、年齢も違うし趣味嗜好も違う。

 むしろ会える要素があったら教えて欲しいくらいだ。

「え、そうなの?」

 思わず自答する。

 切れ長の目が窓の外からこちらを見ている気がして、洗面所からドライヤーを引っ張り出して乾かし始める。眼鏡が家用の野暮ったいものになっているのがやけに気にかかる。誰にも見られていないというのに、肌の調子も気になり始める。

 やりたいことというのは見つからなかったけれど。

「会いたいっていうこと?」

 ブオオオオオと風が鳴り響く。

 初めて真っ当に話すことのできた仮の友達が。ちゃんと話をしてくれて、ちゃんと話を聞いてくれた。そのことが私は嬉しくて。

 そのことに対して、私はお礼を言えていなかったのだ。


 ○


 その翌年の夏休み、偶然例のポスターを見かけた。相変わらず同じような内容だが、一つだけ大きな差異が生まれていた。

『未成年の方のご利用はお断りさせていただきます』

 そうデカデカと書かれているのを見て、思わず笑ってしまう。

「また、来年の夏に」

 色の褪せたポスターにそう言い残して、私は予備校へと向かった。

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夏季限定レンタル友達 時任時雨 @shigurenyawa

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