私はピアノ、あなたもピアノ

武功薄希

私はピアノ、あなたもピアノ


 エリカは、かつて世界的に名を馳せたピアニストだった。しかし今、彼女は誰にも気づかれることなく、廃墟と化した街を彷徨っていた。

 空は不吉な赤色に染まり、地平線の彼方では黒い雲が渦を巻いている。世界の終わりまで、あと24時間もないだろう。科学者たちの予測は外れることなく、人類は滅亡の瀬戸際に立っていた。

 エリカは瓦礫の山を乗り越え、かつての繁華街へと足を踏み入れる。高級ブティックの看板が歪んで道路に横たわり、高層ビルの窓ガラスは粉々に砕け散っていた。そこかしこに放棄された車両が転がり、街路樹は根こそぎ倒れている。

 ふと彼女の目に、奇跡的に無傷で残されたグランドピアノが飛び込んできた。おそらく近くの楽器店から運び出されたものだろう。エリカは躊躇なくそこへ向かう。

 埃まみれのピアノに触れた瞬間、彼女の体内で何かが目覚めた。指が自然と鍵盤を這い、ショパンのノクターンが静寂を破る。音楽が彼女の血管を駆け巡り、全身に生命力を取り戻させる。

 エリカは目を閉じ、深呼吸をする。そして、自分の人生を振り返り始めた。


 エリカは5歳の時にピアノを始めた。両親は裕福ではなかったが、娘の並外れた才能を認識し、懸命に働いて中古のアップライトピアノを買い与えてくれた。

 エリカの才能はすぐに地元で評判になり、7歳の時、彼女は運命的な出会いを果たす。世界的に有名なピアノ教師、マリア・ヴォルコンスカヤが彼女の街でマスタークラスを開いたのだ。

 マリアはエリカの演奏を聴くや否や、その才能に魅了された。「この子は100年に一人の逸材だ」と彼女は言った。それ以来、マリアはエリカの師となり、毎年数か月間、集中的なレッスンを行った。

 エリカは10歳で国際コンクールに出場し、審査員たちを驚愕させる演奏で優勝。15歳でカーネギーホールでデビューを果たした。

 20代には、彼女は既に世界中の一流ホールで演奏し、「21世紀のモーツァルト」と称されるまでになっていた。栄光と名声、富。エリカは全てを手に入れたかに見えた。

 しかし、その輝かしい表面の下で、彼女は深い孤独に苛まれていた。常に完璧を求められ、一瞬たりとも気を抜くことは許されなかった。批評家たちの厳しい目、ファンたちの熱狂的な期待。それらは次第にエリカを押しつぶしていった。

 30歳の時、彼女は運命的な出会いを果たす。新進気鋭の作曲家、マーク・ブラウンだ。二人は音楽祭で出会い、すぐに意気投合した。マークの斬新な作曲技法とエリカの卓越した演奏技術が融合し、彼らは音楽界に新風を巻き起こした。

 やがて二人は恋に落ち、互いをインスピレーションの源としながら、さらなる高みを目指した。マークはエリカのために協奏曲を書いた。それは彼女の魂を解き放つような、驚異的な作品だった。

 エリカはその曲を携え、再び世界ツアーに出た。しかし、ツアーの最中、マークは突然姿を消した。残されたのは「君の音楽に溺れそうだ」と書かれた短い手紙だけ。

 この出来事は、エリカを深い絶望の淵に追いやった。彼女は演奏を続けたが、その音楽は魂を失っていた。批評家たちは彼女の演奏を「技巧は完璧だが、何の味もしない」と酷評した。

 そして5年前、エリカは突如として表舞台から姿を消した。誰も彼女の行方を知らない。世間は「天才の墜落」を嘆いたが、やがて彼女の名前も忘れ去られていった。


 我に返ったエリカは、マークが彼女のために書いた協奏曲を奏で始めた。激しくも儚い旋律が、彼女の胸の内を表現しているようだった。マークとの甘美な思い出、そして苦い別れ。全てが音符となって虚空に溶けていく。

 演奏が佳境に入ったとき、突如として地面が揺れ始めた。建物が崩れ、地面が裂ける。しかし、エリカは弾き続けた。たとえ世界が崩壊しようとも、最後まで音楽を奏でると決意していた。

 激しい揺れの中、エリカの脳裏に様々な顔が浮かぶ。マリア先生、ライバルたち、批評家たち。彼らの言葉、表情、全てが今や無意味に思える。美醜も、才能の有無も、社会的地位も、この瞬間には何の意味も持たない。

 エリカが奏でる旋律が街に響き渡ると、不思議なことが起こった。路地裏から一人の男性が現れ、音に引き寄せられるように近づいてきたのだ。よく見ると、それはマークだった。彼は今や浮浪者のような姿だったが、その目には確かな光が宿っていた。

 マークは足を止め、耳を澄ませた。そして、かすかに口ずさみ始めた。それはエリカが今奏でている曲、マークが彼女のために書いた協奏曲だった。彼の記憶の奥底に眠っていた旋律が、エリカの演奏によって呼び覚まされたのだ。

「エリカ...?」

 マークの声が震える。エリカは演奏を続けながら、かすかに頷いた。

「君の音楽...僕を溺れさせるんじゃなくて、救ってくれたんだ」

 マークは涙を流しながら言った。「あの時、僕は自分の才能に疑問を感じて逃げ出したんだ。でも今、君の演奏を聴いて、僕たちの音楽が持つ力を思い出した」

 エリカは演奏を止め、立ち上がってマークを抱きしめた。二人の間に言葉は必要なかった。世界の終わりが迫る中、彼らは奇跡的な再会を果たしたのだ。

 「最後に、一緒に演奏しよう」

 エリカがマークに言う。マークは静かに頷いた。

 二人は即興の連弾を始めた。エリカの繊細な旋律とマークの力強い和音が絡み合い、新たな音楽を生み出していく。それは彼らがこれまで演奏したどの曲とも違う、魂の対話のような音楽だった。

 演奏が最高潮に達したとき、空が割れるような轟音が鳴り響いた。エリカとマークは顔を見合わせ、微笑んだ。彼らは弾き続けた。音楽は、まるで終末に抗うかのように力強く響き渡る。

 その時、エリカは気づいた。自分が生涯を捧げてきた音楽は、単なる自己表現や名声を得るための手段ではなかったのだと。それは人々の心を繋ぎ、慰め、希望を与えるものだったのだ。そして何より、自分自身の魂と対話する手段だった。

 最後の音が鳴り響く瞬間、エリカとマークは目を閉じた。周囲の喧騒も、地面の揺れも、全てが遠ざかっていく。彼らの耳に残っていたのは、ただ純粋な音楽の余韻だけだった。

 光と崩壊が全てを包み込む。エリカは微笑んだ。彼女は最後まで、自分の使命を全うしたのだ。マークの手が彼女の手を優しく握る。



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私はピアノ、あなたもピアノ 武功薄希 @machibura

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