目覚め・上司ハンス 二

 さて二つ目の家にDは到着し、紙筒を取り出した。この家には新聞用のゴミ箱が玄関先に置いてある。庭は荒れ、水は暫く流れていないであろう噴水に、亀裂から入れ込む植物。立派な家であるにもかかわらず、その待遇はひどいものであった。しかしDはよくこの家の持ち主である若い男を見てきた。この男の素性は知らず、特に会話をしたことはない。不意に視線がこの家の方を見、そういう時に限って目を合わせるのだ。男は庭のただ一つの椅子に座り、そのまま呆けている。そして何かを思いついたかのようにやがて立ち上がり、木々のざわめきに近い鈍い声を出しながら家に戻る。今日もそうであった。Dは、早くにこのすでに死後硬直のようになっている主人を近くで見ることに慣れておらず、一瞥二瞥と繰り返し、そしていつものように新聞を入れた。かわいた音が響く。それを皮切りに椅子からその男が立ち上がる音がしてDは振り返る。立った男は老人のように背が曲がっており、杖を物欲しそうにしていると思うほどにグラグラと体を揺らしていた。背は高く、手のほりは深い。白髪の混じった短いちぢれげであって、口は薄くすぼんでいる。男はDを眼中に収めているようには思えず、ただゆったりと家に入ろうしている。

 「今日はいい天気ですね」Dはにこやかな顔で、障りの無いように男にそう言ってみた。男は隈の深く掘った目線でぎろりとDに向く。おおよそ年齢的に差がない同士であったものの、そこには明らかな軋轢があった。男は答える。

 「そうかな」男はさらに答える。

 「おれはまた、雨が降ると思うな。言ってくれるんだ、その──。空が全てを答えてくれる」

 男は指と顔を天に向かって伸ばし、崩れかかった姿勢をDは咄嗟に支えた。男は埃を落とすようにDの腕を払い除けると、膝に手を置いてしっかりと重心を置いた。そのような今際に際しているような男の声は、その形相に反して年相応であった。その事実が、彼の奇妙な返答より何よりDを驚かせ、心を失わさせる。Dは追求しようと男の正面に立とうとしたが、男は横をするりと抜け、どたどたと家に入っていった。扉が荘厳な音を立てて閉められたその後の静寂が解き放たれた時、Dは一度気になって男の座っていた椅子に近づき、よく観察してみた。それは木の椅子で、触れると少しばかりトゲと水の感触がした。ニス塗りもされていない、適当に放置されているような茶色の硬い木であり、苔が蒸している。この椅子こそがあの男から正気を吸い取っているのではないかと、Dは思う。そうして若い男の顔を思い出し、とても座る気にはなれず、その場を足早に去っていった。Dは男にそう促されたように、広い道に出てから空を見上げてみた。少し澱んでこそいるが、太陽は依然としてあり、月の影のみが辺りを漂っている。風は生ぬるく吹き、湿気の少ない心地であったから、Dは男のいう空が自分とは違うのだろうと納得してみた。そう。男を否定する気にはならないが、あの様子はもはや半ば狂っているという表現の方が正しく、自分がそれの仲間入りを果たすことをDは断固として嫌がった。そして心当たりが思い浮かび、それが上司ハンスであること、彼もまたやけに神経質に律することを望んでいるのを想起した。結局のところ、彼やあの男がどんなに信念を持っていたり、何の神に魂を置いていたり、妻帯者であったりしてもDにとってその狂人らに特段興味が湧くわけではなく、殊更望んで知りたいものでもない。むしろ、狂人についていく人間であったり、地位的に下にいるやつらの方に興味がいくことだろう。「なぜこんな奴と一緒にいるのか」と。Dは踵を返して二軒目に戻って庭の椅子に触った。相変わらず棘が刺してくる水に湿った感触。Dはまたそこを離れた。

 また、誰もいない道を歩き始め、Dはすぐにいつもより時間をかけて三軒目の家に到着した。Dが時間をかけたのは、足が家の方に向くのをやめず、頭が思考を過度に巡らすからであった。実際の行動とは関係なく、いやおうなくDの頭には今日の記憶のフィルムが流れてい、最後には目を覚ましたあの時へと戻る。そういった事象はたびたびあった。小鳥が自分の巣を自覚して、木から落ちたとしても健気に登ろうとしたり、親を待つというのと同じように、もしくは渡り鳥が帰る時節を自覚して離れていくのと同じように、Dの安寧の場とは自分の部屋にあった。また、他の人間もきっとそうなんだろうな、とも思う。口に出さないだけで人間には共通の常識があり、それは決して侵すことのできないものであると。扉を経て一枚先に、自分と同じような人間がいるやもしれぬ、もしくはそうでないやもしれぬ。三軒目の家のドアに新聞を詰め込む。見れば同じような筒が数多重なって、潰しあって存在している。自分であればこうはなるまいとDはたかを括る。

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