終末

腕時計

第一章

目覚め・上司ハンス 一

 男、グリシア・Dの目覚めは悪かった。酒は飲まないことを是としていたが、それが安息の定着を阻害しているようだ。Dの一日はその最悪な目覚めと埃に覆われた電灯を見ることより始まる。まだ外は薄明かりで、新聞配達の時間は近いようだった。Dは自戒の為に額を弱くこづき、起き上がった。部屋は狭く、金を溜めずに物を買い込んだ結果を示していた。クローゼットを開け、今日着るワイシャツに上着、糸のはみ出たズボンをだけ取り出し、いそいそと準備を進めた。Dは少しだけ余った時間をベッドに座り、適当な大切な物を鑑賞する時間に充てていた。それは本であったり、誰が使ったのかわからない装飾品であったり、茶ぱけた布であったりするのだが、それだけがDを貴賎なく満足させ得るものだと分かる。

 朝食を取らずにDは帽子を床から拾い上げ被り、ドアを開けきちんと施錠をし、慎重に歩いた。誰かをこの足音で起こせば、その視線は自信の喪失につながる。すでに自身を頽廃的だとわかっているDにとってこれは致命的であった。学生であったとき、その衆目に晒されたことがある。ヨハンが指をさして偽の糾弾をした──奴は毛ほどの倫理観も持ち合わせていなかった!──、あの時をいまだに覚えている。どこか自分は目立たぬように、関わりがないようにするようになっていった、一種のトラウマだった。Dは数段の石段を降り、街に繰り出た。そこから職場までに歩いて十分を有する。日課であったが、もらった金で次に買うものを選んでいた。次は筆記具を買おうと思っていたが、少し遠くへ出かけねばならない、特に自分の住処を気に入っているというわけではないが、どこか遠くへ行くということはあまり好きではない。自分自身、几帳面であるか慎重であるか、臆病なのかはいまだに分別がついていないのだろう。結局、飾り付けのための造花を買うことに決めた。遠くに行くことはない、Dは檻に入れられた動物たちを思い出す、あれは大層惨めだった。考えることは何処へ行っても変わらぬもので、的を射ることをしない。きっと、また家に帰る頃には自分が何を求めているかなど覚えてはいないだろう。Dは、そんな男であった。

 ハンスはDの行った時刻に登場しなかったが、それは幸運であった。Dのくたびれた服は綺麗好きのハンスにとっては不愉快極まりないもので、たかが一配達員に対して厄介にしている。ハンスは保身に走りたがったが、D自身、彼が上司であるか、はたまた同じ役回りであるかは把握しておらず、ただその場の雰囲気から彼を上司だと思っている。実際、ハンスはDより高潔で、口回りの良い。共に仕事をしたことがない。これらの要素にDの懐疑的な心情と嫌悪から彼を立場的に遠ざけるという行為は自然であった。バッグに新聞を詰め込んで、彼は仕事に出た。普段であれば人通りの少ない時間に自転車に乗ってさっさと届けてしまうのだが、あいにく今は故障中であった。高価であるが修理に出し、きょう迎えにいかねばならなかったことを思い出す。そうすればさっきの十分の思案は意味のないもので、しかしいまもそうしている。Dは最初の一軒の前に到着し、家の前に新聞を置いた。そして彼は二階の窓から持ち主である老齢のエルザ婦人が見ていることに気づいた。Dはじっと彼女を見返した。銀行員の夫は腎臓を悪くして彼女を残して去り、唯一の娘も連絡の取れぬまま帰ってこないという。ゆえに病気がちになり、二日に一回病院に行かねばならぬという。ここまで大変な体になるならいっそのことと卑屈な妄想を抱く。二人はときたま扉越しに会話するような仲だった。これが婦人の顔を最初に見る舞台かとDは不満げに顔を顰めたが、さすがにこれは不気味だと感じ、互いに見るのもほどほどに立ち去ろうとすれば、婦人もその窓の奥に去っていった。

 「きっと、悪い夢でも見たのだろう」とDは呟く。同情を抱きあった間柄であれば理解はできる。夢については理解があった。Dも悪夢に魘される日々が続いている。昨日のは特にひどかった!有象無象の人間がいる中で、ただ歩ける先は影の中、そうして平面的な白黒の床に立つ各々はDを指差し、動かぬままだった。試しに人身に近づけば、周りのものらは全て雑草となる。その時尾を引く影が一つなくなる感触があった。ついに彼は狂い、この夢に立つ全ての人間を雑草にし始めて、終にただの草原となっていることに気づいた。それは旅路に見えたただの広い空間に瓜二つで、だんだんとその記憶に引っ張られ、太陽が差し、色彩が明瞭になり、遠くに雪山の見えるようになる。影のたなびく中で白昼の中に最後に気づいたことが、自分自身に影ができていなかったことだった。Dのオカルティックな脳はいまだにこの夢に意味を見出していなかった。そも夢は忘れるから突飛なものを描くのだ。意味が芽生えてしまったらそれは現実の一部になってしまうかもしれない。Dはその夢を最後には全て封印し、それ以降何も考えぬように曖昧にしまい込んだ。

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