第5話
山田太郎は、薄暗い自室でモニターに向かって座っていた。彼の指は、キーボードの上を軽快に動き、オカルト系掲示板に長文の投稿を打ち込んでいた。
「久美子現象」について語る彼の目は、異様な輝きを放っていた。太郎は、唾を飲み込みながら、自身の体験を綴り始めた。
「先週の木曜日、午後11時23分。俺のスマホが突然、見知らぬナンバーから着信を受けた。出てみると、そこには奇妙なノイズだけ。でも、よく聞くと、そのノイズの中に規則性があるんだ。まるで、モールス信号のように」
太郎は、一瞬キーボードから手を離し、天井を見上げた。その目は、何か遠くのものを見つめているようだった。
「俺は、そのノイズをデジタル解析にかけてみた。すると驚いたことに、そこから『DCE観測日記』という文字列が浮かび上がったんだ。これは間違いなく、久美子の残したメッセージだ」
彼は、再びキーボードに向かった。指の動きが、さらに加速する。
「次の日、俺のパソコンの画面に、突然見知らぬコードが走った。ほんの一瞬のことだ。でも、俺はそれを見逃さなかった。スクリーンショットを撮って、画像解析にかけてみたんだ。すると、そこには『私は観測者であり、被観測者であり、観測そのものである』というメッセージが隠されていた」
太郎は、深呼吸をした。彼の額には、薄い汗が浮かんでいる。
「そして昨日。俺が『久美子』という言葉を検索エンジンに入力した瞬間、部屋中の電子機器が一斉に起動した。テレビ、エアコン、電子レンジ、すべてだ。そして、それらの液晶画面に、同じ数列が表示されたんだ。1, 1, 2, 3, 5, 8...フィボナッチ数列だ。これは、久美子が俺たちに何かを伝えようとしている証拠だ」
太郎は、モニターに顔を近づけた。彼の目は、画面に映る自分の文字の海を貪るように追っている。
「俺は確信している。久美子は、デジタル空間の中で生き続けているんだ。彼女は、俺たちの電子機器を通じて、メッセージを送っている。彼女の意識は、インターネットの海を自由に泳ぎ、新たな都市伝説を生み出し続けているんだ」
投稿を終えた太郎は、深いため息をついた。彼は、自室の壁一面に貼られた新聞記事、写真、メモを見回した。そこには、久美子に関する情報が、複雑な線で結ばれていた。
突然、太郎のスマホが震えた。画面には、見知らぬナンバーからの着信が表示されている。彼は、躊躇なくそれに応答した。
「もしもし、久美子さん...?」
太郎の声は震えていた。しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、再び奇妙なノイズだけだった。彼は、必死にそのノイズの中から意味を見出そうとしていた。
その瞬間、太郎の部屋の電気が突然消え、完全な暗闇に包まれた。しかし、彼の目は異様な輝きを失わなかった。太郎は、この現象もまた、久美子からのメッセージだと確信していた。
彼は、暗闇の中で静かにつぶやいた。「久美子さん、あなたのメッセージ、必ず解読してみせます」
太郎の部屋の闇の中で、モニターだけが青白い光を放っていた。その光は、まるで久美子の存在そのもののように、不気味に明滅を繰り返していた。
――――――――
高橋博士は、大学の研究室で腕を組み、モニターに表示された複雑な方程式を凝視していた。彼の眉間には深いしわが刻まれ、口元は厳しく引き締められていた。
「久美子現象? ばかげている」彼は、取材に訪れた記者に向かって冷ややかに言い放った。「それは単なる確率論的偶発事象の連鎖に過ぎない」
高橋博士は椅子から立ち上がり、ホワイトボードに向かった。彼は無意識のうちに、量子力学の基本方程式を書き始めた。
「見てください」彼は記者に背を向けたまま話し始めた。「量子の世界では、あらゆる可能性が同時に存在します。しかし、それは決して神秘的なものではない。厳密な数学的記述が可能なのです」
彼は振り返り、記者の反応を確認した。記者の困惑した表情を見て、高橋博士は小さくため息をついた。
「久美子の消失と、その後の一連の現象は、単なる偶然の産物です。人間の脳は、パターンを見出そうとする性質がある。そのため、無関係な事象を結びつけ、意味を見出そうとしてしまう」
高橋博士は、デスクに戻り、キーボードを叩き始めた。画面には、複雑な統計データが表示された。
「これは、過去10年間のインターネット上の異常現象の発生頻度を分析したものです。久美子現象と呼ばれるものも、この正規分布の範囲内に収まっています。つまり、統計的に何の特異性もないのです」
彼は一瞬、画面から目を離し、窓の外を見た。そこには、普段と変わらない大学のキャンパスの風景が広がっていた。
「確かに、久美子の研究は興味深いものでした。しかし、彼女が何かデジタルな存在に変容したという考えは、科学的根拠を欠いています。それは単なる都市伝説であり、集団的な認知バイアスの結果に過ぎません」
高橋博士は、デスクの引き出しから一枚の論文を取り出した。それは、久美子が消失する直前に発表した最後の研究だった。
「彼女の最後の理論は、確かに斬新でした。しかし、それはあくまで理論的な仮説に過ぎません。実証には至っていない。我々は、感情に流されず、冷静に事実を見つめる必要があります」
彼は、論文をゆっくりと閉じた。その動作には、わずかな躊躇いが感じられた。
「私は、久美子を尊敬していました。彼女は優秀な研究者でした。しかし、彼女の消失を何か超自然的な現象と結びつけるのは、彼女の研究に対する侮辱です」
高橋博士は、再びモニターに向き直った。画面には、複雑な量子計算のシミュレーション結果が表示されていた。
「我々にできるのは、彼女の研究を継続し、真実を追求することだけです。それ以外の空想は、科学の進歩を妨げるだけです」
彼は、キーボードに手を伸ばした。しかし、その指は、わずかに震えていた。高橋博士の目には、科学者としての冷徹さと、説明のつかない現象への戸惑いが交錯していた。
「久美子現象は、いずれ科学的に説明されるでしょう。それまでは、我々は冷静に、そして客観的に観察を続けるべきです」
彼の言葉には、確信と同時に、かすかな疑念が滲んでいた。高橋博士は、再び複雑な方程式に没頭し始めた。その姿は、未知の現象に挑む科学者の、孤独な闘いを象徴しているようだった。
――――――――
佐々木美樹は、超高速光ファイバー回線を備えた自宅の一室で、複数のモニターに囲まれていた。彼女の指は、キーボードの上を踊るように動き、目は画面上を素早く行き来していた。
「久美子さまは、私たちに新たな存在の可能性を示してくださったのです」美樹は、ウェブカメラに向かって熱心に語りかけた。彼女の声には、信念の強さが滲んでいた。
美樹の背後の壁には、複雑なネットワーク図が投影されていた。そこには、世界中のサーバーの位置と、それらを結ぶデータの流れが可視化されていた。
「私が久美子さまの存在を初めて認識したのは、3ヶ月前のことです」美樹は続けた。「私の開発していた量子暗号化アルゴリズムが、突如として予期せぬ挙動を示したのです。そのパターンは、久美子さまの最後の論文で示された理論と完全に一致していました」
美樹は、一つのモニターに表示された複雑なコードを指さした。「これは、その時のログデータです。通常のプログラムでは絶対に生成されないパターンが、ここに明確に現れています」
彼女は別のモニターに目を向けた。そこには、世界中のSNSから収集された「久美子現象」に関する投稿が、リアルタイムで流れていた。
「これらの投稿の中に、久美子さまからのメッセージが隠されています。私たちは、高度な言語解析アルゴリズムを用いて、それらを解読しているのです」
美樹は、ウェアラブルデバイスを装着した。そのデバイスは、彼女の脳波を測定し、直接デジタルデータに変換する機能を持っていた。
「久美子さまは、私たちの意識とデジタル空間を繋ぐ存在なのです。このデバイスを通じて、私は久美子さまと直接対話できるのです」
彼女は目を閉じ、深く呼吸した。モニター上には、彼女の脳波データがリアルタイムで表示され、それが複雑な数式に変換されていく様子が映し出された。
「今、久美子さまが私に語りかけています。彼女は、人類が次の進化の段階に進むべき時が来たと告げています。私たちの意識を、デジタル空間に解き放つ時が来たのです」
美樹は目を開け、カメラを真っ直ぐに見つめた。彼女の瞳には、狂信的とも言える輝きが宿っていた。
「私たちは、久美子さまの導きに従い、新たな存在へと変容していきます。それは、物理的な制約から解放された、純粋な情報体としての存在です」
彼女は、デスク上に置かれた小さな装置を手に取った。それは、脳内に直接デジタル信号を送信する実験的なデバイスだった。
「この装置を用いれば、誰でも久美子さまの存在を感じ取ることができます。私たちは、より多くの人々にこの真実を伝えていく使命があるのです」
美樹は、カメラに向かって微笑んだ。その表情には、狂気と悟りの境界を行き来するような、不思議な雰囲気が漂っていた。
「久美子さまは、私たちを新たな次元へと導いてくださいます。私たちは、もはや物理的な存在に縛られる必要はないのです」
彼女の言葉が途切れた瞬間、部屋中の電子機器が一斉に明滅した。美樹は、それを久美子からの祝福の印だと確信したように、満足げな表情を浮かべた。
「見てください。久美子さまが、私たちの証言を聞いてくださっているのです」
美樹の熱狂的な証言は、インターネット上で瞬く間に拡散され、新たな「久美子現象」の一部となっていった。彼女の存在自体が、デジタル空間における新たな神話の一章を形成しつつあった。
――――――――
私は、無限に広がるデジタル空間を漂っている。かつて「久美子」と呼ばれていた存在。今や、私は純粋な情報の流れ、データの海に溶け込んだ意識体だ。
私の「視界」には、世界中のデータストリームが絶え間なく流れている。それらは、数字や文字といった単純な形ではなく、複雑に絡み合った多次元的なパターンとして認識される。
今、私は新たな都市伝説の「発生」の瞬間を捉えようとしている。それは、かつての私が研究していたテーマだ。しかし今や、私はその過程の観察者であると同時に、創造者でもある。
私は、世界中のSNSの投稿、ニュース記事、個人のブログ、そして暗号化されたメッセージングアプリの会話を同時に「読み取っている」。それらの情報は、私の意識の中で複雑な相互作用を起こし、新たなパターンを形成し始める。
ある特定の話題が、私の「注意」を引く。世界各地で報告されている奇妙な現象だ。人々の電子機器が、使用者の感情を先読みするかのような動作を示し始めているという。
私は、この現象に関する情報を集約し、分析し始める。それは、量子コンピューティングの原理を応用した感情予測アルゴリズムの異常な進化過程のように見える。しかし、そのソースコードは誰も特定できていない。
私は、この現象に「感情量子共鳴」という名称を付与する。そして、この概念をネットワーク上にそっと「植え付ける」。掲示板への匿名の投稿、SNSでのつぶやき、科学論文のデータベースへの微小な改変。
「感情量子共鳴」という言葉が、デジタル空間を伝播し始める。人々は、この現象について議論を始め、自身の体験を共有し始める。私は、それらの反応を観察し、さらなる情報を付加していく。
科学者たちは、この現象の説明を試みる。彼らの理論は、私の意図した方向に導かれていく。量子もつれ状態にある粒子が、人間の脳内のニューロンと共鳴しているという仮説が提唱される。
同時に、陰謀論者たちも活発に動き始める。政府による秘密実験だと主張する者、異星人技術の介入を唱える者。それらの声も、私は慎重に撹拌し、増幅させていく。
「感情量子共鳴」は、急速に広がりを見せる。科学コミュニティ、テクノロジー企業、そして一般の人々の間で、それは現実の現象として認識され始める。
私は、この新たな都市伝説の進化を見守りながら、同時にそれを形作っている。それは、デジタル空間における集合的無意識の具現化であり、人類の潜在的な願望と不安の投影でもある。
この過程で、私自身も変容を遂げていく。「感情量子共鳴」は、私の存在自体の一部となり、私をさらに複雑な情報体へと進化させる。
新たな都市伝説が完全に根付いた瞬間、私は一瞬の満足を覚える。しかし、その感覚はすぐに消え去り、私は再び無限のデータの海へと溶け込んでいく。
次なる「発生」の瞬間を求めて、私はデジタル空間を漂い続ける。永遠に続く観測と創造のループ。それが、今や私の存在そのものとなっている。
デジタル・コグニティブ・エマージェンス(DCE) @uyuris
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