■宮下瑞穂の話 まどろみと覚醒

 あじゃさま、あじゃさま、あのね、私きいてほしいことがあるの、あのね、あのね……あはは、なんだったか忘れちゃった。でも大丈夫だよね、あじゃさまは優しいから、私が意味のない話をしたってうんうんって聞いてくれて、抱きしめてくれて、頭を撫でてくれるよね。


 だいすきよ、おかあさん


 私は柔らかい肉に抱きつきながら、まるで子どもに戻ったようにそれに甘えた。

 

 目の前では、一緒にブルーシートを運んできた織田課長と他の先輩たちが私と同じように、あじゃさまに甘え語らっている。

 

 幸せだ。あまりにも幸せな空間だった。きっと私もこれを守るためになら何でもできる。そう確信させるような理想郷、それがここ、あじゃさまのいる家だ。


 ふと横目で見ると、ブルーシートの上で木吉さんが身じろぎをしている。どうやら目が覚めたらしい。


「……なんだ、これ」


 彼は起き上がって私たちの方を見ると、面白いくらいがたがたと震えだした。私も、他の社員もそれを見て笑う。ネジを巻いて遊ぶタイプのおもちゃみたいだね。あはは。


「近寄るな! 化物!」

「だいじょうぶですよ」

「やめろ、やめ、やめてくれ、や、あああああ……!」


 だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ


 木吉さんの絶叫が座敷に響く。あじゃ様は優しく宥めてあげながら、たくさんの手を伸ばして、彼の頭を撫でている。彼の体は抱きしめられて、頭のあたりでごきりと固いものが折れる音がした。 

 けれど、どういうわけだかその悲鳴は止むことがなかった。

 

 木吉さんの体はゆっくりと丁寧に、子宮の中にいる胎児みたいな姿勢にぎゅうぎゅうと折りたたまれていく。


 木吉さんは見開いた目と鼻からだらだらと血を流し、駄目押しのように口からもごぼごぼと吐血しながらも、その絶叫は止まらない。

 

 がんばれ、がんばれ。見守るわたしたちは手を叩いて声をかけ、彼を応援する。

 

 すぐに大丈夫になりますからね。


「ああ……あ…………?」


 しばらく絶叫し続けていた木吉さんが、大きく二度、痙攣した。彼の目はどこか、虚空を呆けたように見つめている。


「み、なと……?」

 

 いたのか、ここに。

 

 彼の安堵の言葉は、今や口に出さずとも私たちにも伝わった。繋がったのだ。彼は迎えられた。この、会社の、矢中田の、あじゃさまのかぞくの一員として。


 木吉さんはけたたましく笑う。私たちも笑って、あじゃさまも笑っている。彼はそのままずぶずぶと肉の中に埋まっていき、しばらくしてようやく笑い声は止んだ。


 なるほど、こういうふうにあじゃさまのお腹から生まれ直すのか。いいなぁ。


 木吉さんを飲み込んだあじゃさまは、その体の全てが彼を咀嚼する内臓のように、うねうねと動いている。

 

 私がぼんやりとそれを眺めていると、手のひらに温かいものが触った。

 何かと思いながらそれを見て、男の人の手だな。と理解してから視線を前に移した。


「……藤村さん?」


 私の手を握っていたのは藤村さんだった。ここ、会社の中なのに、なんで部外者の藤村さんがいるんだろう。


「よかった、生きてて」


 藤村さんは泣きそうな顔で言っていたけども、私は何がよかったなのかわからずに、相変わらずぼんやりとしていた。

 

 だって、生きているか死んでいるかは些末なことで、私は家族だから、あじゃさまと皆の家族だから、だからだいじょうぶなはずなのに。

 

 この人はいったい、何を言ってるんだろう。


「瑞穂ちゃん! ……くそッ、目を! 覚ませ!」


 藤村さんは私の肩をガクガクと揺さぶって、少し迷ったような顔をした後、握ったままの手に何かを押し付けてきた。


 長細い、短冊みたいな、白い紙だ。

 ――御霊雅代の、御札。


 それに触れると、私を包んでいた温かい肉が怯えたように逃げ出して、私と藤村さんは畳の上に放り出される。藤村さんは私を庇うように受け身を取りながら、声を限りに叫んだ。


「宮下のこと思い出せ! ……潰すんだろ! 怪異を!」


 その名前を聞いたとたん、霞がかった私の脳内が一瞬にして晴れ渡る。あの日、玄関先で見た、赤い耳、「お前だからだよ」と言った、ぶっきらぼうな声。


 それを思い出した瞬間、胸に何かがせり上がってきて――私は、地面に向かって激しく嘔吐する。

 出てきたのは、墨のように真っ黒な液体だった。

 

 私は、藤村さんの顔を見上げる。焦点のあったその顔の、色素の薄い瞳がまっすぐにこちらを見つめ返していた。


「……起きたみたいだね」

「……すいません。お手間取らせました」

 

 藤村さんは苦笑すると立ち上がって、私の手を引いて立たせてくれる。  

 そして、鞄から数本のガラス瓶を取り出した。その飲み口はビニルテープでぐるぐる巻きにされており、中には何かの液体が入っているらしいことが見て取れる。

 

「……跡形もなく燃やしてやろうぜ、化学の力でさ」

 

 そう、言った声は、少し震えていた。

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