■芦原瑞穂の話 さよなら

「……ああ、おかえり。瑞穂」

「おかえり、瑞穂ちゃん」


 自宅のダイニングテーブルで、お父さんとお母さんが向かい合って座っている。

 つけっぱなしのテレビからは、壊れたように、繰り返し繰り返し、スノウ製菓のコマーシャルが流れ続けていた。 

 

 にこにこと笑う彼等の間には、お菓子の箱や袋が山と積まれていた。見たところすべて、スノウ製菓の商品パッケージだ。

 

 ……いや、違う。そのうちのいくつかは見たことのない袋だった。

 テーブルの上にこぼれ出たいくつかのお菓子……らしきものは、よくわからない汁をぐじゅぐじゅと染み出させながら生ゴミのような異臭を放っている。

 

 床には食べきって空になった袋が汚らしく散乱して、お母さんの趣味の小綺麗なラグを汚していた。


「……どうしたの、それ」

「どうしたのって。いや、お前の就職先だろ? やっぱり契約してやったほうがいいかなと思ってさ。甘スクだっけ、お菓子の定期販売」


 お父さんはスナック菓子の袋を抱え、中身を鷲掴んで口に放り込みながら言う。その口からはぐちゃぐちゃと、聞くに堪えない汚らしい音が鳴っていた。


「あのチラシの電話にかけたら、初回だからってこんなにたくさん送ってくれたのよ。瑞穂ちゃんも食べなさい。おいしいわよ」


 お母さんは口にべったりと赤いものをつけたまま、私に向かって何かを差し出す。その手のひらに乗せられた茶色い塊が何なのかは、知りたくもなかった。


 ――かぞくのかぞくは、かぞくだもんな


 私の脳裏に、宮下くんの声をした何かのセリフが蘇る。そして悟ってしまった。

 この二人は、私の家族だ。だから、私の存在を通じておかしくなった。


 私が信頼していた足元の地面は、今や完全に崩れ落ちて、なくなってしまった。


「瑞穂? どうした?」


 私はお父さんの問いかけを無視し、踵を返して自室に駆け込むと、旅行用の鞄を引っ張り出した。そして、生活に必要と思われるものを片っ端から詰め込んだ。


 脳裏には、幼い頃からのお父さんとの思い出が、走馬灯みたいに浮かんでは消えた。

 

 ――幼稚園のとき、初めて連れて行ってくれた遊園地の青空が、とても綺麗だったこと

 ――初めて私が作った料理のオムライスを、馬鹿みたいに褒めてくれたのがすごく嬉しかったこと。

 ――私の成人式の前撮りの振り袖姿を見て、写真屋さんで男泣きされたのが、照れくさかったこと。

  

「泣くな……泣くんじゃない」


 感傷を恐怖で上書きして、なんとか涙を押し留める。ぱんぱんに膨らんだ鞄を肩にかけ、私はリビングへ戻った。

 

「どうした。またどこか行くのか?」


 不思議そうな顔をして私を見上げるお父さん……だった人に、私はできるだけ冷酷に見えそうな無表情で、ゆっくりと宣言した。

 

「あなた達は、私の、家族なんかじゃない」

「何言ってるんだ、瑞穂」

「そうよ、どうしたの? 変よ、瑞穂ちゃん」

「ほとんど血も繋がってないし、家族と思ったことなんて、一度もない。親みたいな顔しないでください。迷惑です」


 二人はぽかんとして、手に持った菓子に口をつけるのも忘れたように私を見つめている。


「私は今から家を出ますので、それきりお二人との縁もおしまいです。……さようなら。では」

「おい、瑞穂……え、なんだ? この菓子、うぇっ」

「え? え? なに、この汚いの!」


 背中を向けて、玄関で急いで靴を履く。正気に戻ったらしい二人が戸惑い、咳き込む音を聞きながら、溢れ出す涙を袖口で拭った。ブラウスの袖が、溶けたマスカラで黒く汚れたけど、知ったこっちゃなかった。

 

 もうここには戻らないつもりだから、鍵は玄関に置いて行く。


 ――予想したとおりだ。私と家族でないのなら、二人は正気に戻れるらしい。


 足早に駅まで走り、電車に乗る。

 電車の長椅子の端っこに腰掛けて、私は、もうどうにも止められなくなった涙を必死に拭った。


 *


 ひとまず今日の宿にと、適当なインターネットカフェに飛び込んだ。

 昔に作った会員証を提示して、個室に落ち着き――ふと、迷う。

 

 あの人たちとは縁を切った。なのに「芦原」と名乗ってしまったら、元も子もないのではないだろうか。

 

 だったら、と少し悩んでから、マジックペンを走らせる。「芦原」の文字を二重線で消し、その上に、思いついた苗字を記入する。


 「宮下瑞穂」と書かれた、他人みたいな名前に、我ながら吹き出しそうになった。

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