■芦原瑞穂の話 覚悟
湊さんは、辛うじて一命を取り留めた、と、私たちが付き添った救急病院で、初老のお医者さんは教えてくれた。テラス席の屋根になっていたテントの布が、落下の衝撃を和らげてくれたのだと。
……ただし、意識不明で、予断を許さない状態でもあるらしい。
――トイレに行くと言って店を出た湊さんは、その足でビルの高層階まで行き――そこから飛び降りたという。
突如消火器を持ち出して、赤い三角マークのついた窓ガラスを叩き割り、そこから躊躇なく飛び降りた彼女の奇行を、多くの人間が目の当たりにしていた。
彼女は終始穏やかな笑顔だったという。手に持った消火器を不審に思った警備員に声をかけられた際も、軽い調子で「大丈夫です!」と答えたという。
あまりに屈託がないその様子に、取り押さえるべきだと思わなかったというのが警備員の男性の証言だと――後から駆けつけた警察官から聞いた。
私と藤村さんは、警察の人に色々と事情を聞かれた。けれど、目撃者多数の中で、湊さん自ら飛び降りたのが明白であることがわかると、彼らの興味は早々と薄れたようだった。
……自殺未遂なんてありえないと、私たちがいくら主張したところで無駄だった。
――そして、警察官から念のためにと連絡先を聞かれ、ご家族にも連絡がついたということで、私たちはなんとか解放された。
そして――私たち二人は、病院を出てとぼとぼと歩いている。
もはや駅まで歩く気力もなかった。近くの公園まで行って、どちらともなくベンチに腰を下ろす。
夕暮れに染まりつつある公園で、誘蛾灯に集る虫を眺めながら――私たちはどこまでも無力感に打ちひしがれていた。
先に口を開いたのは、藤村さんのほうだった。
「……瑞穂ちゃん。君はもう降りろ」
「いやです」
「俺は、スノウ製菓の社員じゃない。君や、宮下や……湊さんとは違う。まだ、調査をしても安全な可能性が」
「川田卓治も社員ではなかったですよ」
「…………」
「それに、私はもう完全に認知されてます。少なくとも私は逃げられない。……降りるなら、藤村さんの方だと思います」
頑なに言う私に、藤村さんは低いうめき声を上げて頭を抱えた。
「君を置いて逃げるわけにはいかない。……宮下に顔向けできない」
「……前言ってた……恩人、ってやつですか?」
藤村さんは、顔を伏せたまま、黙って頷く。
――他人のために命をかけるほどの恩というのはどういうものなのか、前から気になってはいた。
でも、俯いたままの藤村さんから溢れ出す圧倒的な拒絶のオーラを目の前にして、とても今、尋ねることなんてできない。
「……俺のミスだ。『守り神』の話をした後の湊さんの様子は、明らかにおかしかった。なのに……気づかなくて。……あの時止めてれば」
「それなら私も同罪です。そもそも連絡先を盗み見て、彼女を引っ張り出したのは私なんだから」
藤村さんは私の言葉には答えずに、ふたたび下を向くと、黙り込んでしまった。
「……ああもう! しっかりしてください!」
急に大声を出した私に、藤村さんはのろのろと顔を上げる。私は立ち上がりその肩を掴んで、虚ろな目とまっすぐに視線を合わせながら言う。
「ここでやめたら、またおかしくなる人が出ます。湊さんだって……目が覚めてまた飛び降りるかもしれない。私たちはもう、守り神――『あじゃさま』っていうのが何なのか、正体突き止めてどうにかする道しか残されてないんです」
これは私自身にも向けた言葉だった。ともすれば、もう一歩も歩けなくなりそうな不安の中、私は藤村さんと、私の心を鼓舞するため必死になって言葉を紡ぐ。
「霊能者も頼れない、……もちろん警察も無理です。私たちがやるしかない。――うじうじ立ち止まってる暇なんて、ないんです!」
私がそこまでまくしたてたとき、突然、藤村さんの目に、光が戻った。
「……みやした」
「え?」
「……いや、そうだね。ごめん、弱気になってた」
藤村さんはパン、と音を立てて自分の頬を叩くと、頭を振って立ち上がる。
とっくに日が暮れた公園の誘蛾灯の灯りを背にして、彼は私に握り拳を差し出した。
「……目的はシンプルだ。湊さんが言ってた『あじゃさま』ってのは何なのか。調べて――そいつを潰す。これ以上、怪異の好きにはさせない。……絶対に勝とうな。瑞穂ちゃんと、俺で」
「……はい」
私は藤村さんの顔を見つめて、口の端を持ち上げてみせる。絶対に、負けない。その思いを込めて彼の拳に自分のそれを軽くぶつけた。
――でも。
なんとか帰宅して、自宅のドアを開けた私が見たのは、さらなる絶望だった。
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