■芦原瑞穂の話 転落
湊さんはそこまで話すと、初めてアイスコーヒーのストローに口をつけた。その手はわずかに震えている。平和な休日の喧騒が、私の耳にはどこか遠くから聞こえるような気がした。
私が質問を躊躇っていると、彼女は首を振って弱々しく微笑む。
「きっと……あの会社の中には、変なものがいる。会議室に貼られてた御札か何かを田崎さんが剥がしたから、封印が解けてしまったとか……そういうストーリーじゃないかな……」
まるでB級ホラー映画みたいだよね。湊さんはそう言って笑うと、真剣な表情に戻った。
「だから、芦原さんも逃げたほうがいいと思う。田崎さんは行方不明になった。芹山くんは亡くなった。自分の目を刺した山本くんも休職中。……少しずつおかしくなる人は増えてる。なのに社内の人は誰も気にしてないの。……私にはもう、どうしようもない」
「――その、おかしくなったという人たちに何か共通点はないんでしょうか?」
藤村さんが口を挟むと、湊さんは首を傾げた。
「さぁ……。うちの社員で、本社ビル勤務、というのは共通してるわ。でもそれ以外は、性別も、部署も、年齢もバラバラ」
「あなたが変になった日っていうのは、具体的にいつのことですか?」
「そうね……えっと」
藤村さんの問いかけに湊さんは、スマホのスケジュール帳を手繰る。
「確か一月の……役員会があった日で、その日に私が通したのが、朝の社内放送の内容変更についてだったから、議事録を探してもらえば分かると思う」
「社内放送?」
「そう。朝の始業五分前に、社内放送が流れるでしょう? 前まで、ラジオ体操の音楽だったんだけど、オリジナリティを出そうってことで、うちのCMソングに変えたの。ほら『おっかっし〜の♪』ってやつ。今も流れてる?」
「……はい。多分、そうだったと思います」
私が頷くと、藤村さんは怪訝な顔をして、私に尋ねる。
「多分って?」
「……私、始業ギリギリまで、ワイヤレスイヤホンで音楽聴いてるんで……」
私の不真面目な回答に、藤村さんは苦笑した。
愛社精神がないと言われようが、朝、気分を上げるには自分の好きな曲に勝るカンフル剤はない。
なので、湊さんの言うCMソングのことはもちろん知っているけれど、それが社内で流れているのは、実は……あまり聞いたことがない。
素直にそれを白状すると、湊さんはそうなんだ、と笑った。
「そんなもんよね。社員の反応なんて。……そんなことにわざわざ決裁取るなんて、とも思ったけど。一応本社中に聞こえるものだからってことで部長に言われてね。議題に上げたら上げたで面倒くさいことを言われたりもするから憂鬱だったのよ。……よく覚えてる」
「……守り神、という言葉に、聞き覚えは?」
「……え?」
湊さんは藤村さんの問いかけにぽかんとした顔をして、そしてそれまでの柔らかな表情が嘘のように、その顔を固く強張らせる。
「………………
そして、ぽつりと呟いた。
「……そうだ、なんで……忘れてたんだろう」
「どうしました?」
「……ちょっとごめん。……お手洗い、行ってくるね」
「え? 湊さん?」
「大丈夫、すぐ戻るから」
腰を浮かせた私を手で制し、湊さんはそう言って微笑むと、ハンドバッグを手にとって立ち上がる。
ここはどうやら、トイレが店内にはないらしい。彼女は足早に店の外へと出て行った。
「あじゃさま……? なんだそれ……?」
藤村さんは彼女の言葉を反芻するように繰り返し、額に手を当てて考え始めた。
私は言いようのない不安にかられながら、席につく。手持ち無沙汰に、ガムシロップで限界まで甘くしたカフェラテをストローでかき混ぜた。
茶色い渦ができるのをぼんやりと眺めながら――はた、と気づく。
「……『大丈夫、すぐ戻るから』……?」
「え?」
「湊さん、さっき、大丈夫って」
藤村さんと私は顔を見合わせる。あまりに自然なやり取りだったので、聞き流していた。
「くッそ! なんで気づかなかったんだ……!」
藤村さんが慌てて立ち上がる。私も急いで後を追おうとして、何か――背後に悪寒を感じて、振り返った。
カフェのテラス席から見える外通りが、にわかに騒がしくなっていた。
それまでパラパラと歩いていた通行人が、私たちのいるカフェの前で足を止めている。
口元を押さえて連れの腕にしがみつく女性、どこかに電話をかけ始める男性、スマホを上に向けて撮影を試みる女性。反応は様々だけど――彼らは一様に上を見上げている。
何があるんだろう。
そう思ったとき、人混みの中に恐ろしいものを見つけた私は――衝撃でその場から動けなくなった。
他の人々が例外なく上を見上げいる中、その男女は真っ直ぐにこちらを――私を見ている。
スーツ姿の男はその左手を、隣に立つ女の指にしっかりと絡めている。土気色をした顔は、気持ち悪いくらいに笑っていた。
そして、その隣の女には――首がなかった。
いや、首がないのではない。だらりと伸び切った首が地面に向かって垂れている。
逆さまになった顔で、裂けた唇で、汚らしい黒髪を地面につけて、げたげたと笑っている。
間違いない。あれは――会社のトイレにいた女だ。
みつけた、みつけた、みつけた、みつけた
そいつらは上を指さしながら、ゲタゲタと笑っていた。
「藤村さん!」
なんで、こんなところに。逃げないと。そう思って藤村さんの腕を掴んだ瞬間、そいつらが続けた言葉に、私の呼吸は凍りつく。
みなと、みなと、みなと、みなと
さがわじゃなかった
きよし、きよし、きよし、みなと
席を立った湊さんの「大丈夫」が脳裏に蘇る。まさか、もしかして。
通りにはいつの間にか大勢の人だかりができている。やめろ、と。制止を促す声、悲鳴、悲鳴、悲鳴
ひときわ大きな悲鳴が響き渡ったとき、テラス席の屋根のテントを突き破って――なにかが、落ちてきた。
ダイヤのピアスが、きらりと輝いた
淡い、たんぽぽみたいな黄色のTシャツ
濃紺のジーンズを履いたほっそりとした脚が、綺麗に揃えられて
ドン、という音がした。
テラス席の床が赤い何かで染まっていく。まるで割った後のスイカみたいなそれは――湊さんだった。
陽の光を浴びて……左指の薬指のプラチナがキラキラと光っていた。
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