退職者の話

覚書

 ・ 木吉湊(旧姓、佐川)の話


 今年の……一月頃かな。出社したら、ものすごくやる気がみなぎってきた日があってね。

 

 その日の午後は、私が資料づくりを担当してた役員会議に出ないといけなくて、正直憂鬱だったのにね。

 突然、何でもできる! やるぞ! みたいな気分になっちゃって。

 

 朝から絶好調でさ。他の部署からかかってくる、普段ならイラッとするような内線もどんと来い、みたいな。

 午後の役員会も余裕だったよ。通したい議題は全部パーフェクトにオーケーもらった。 

 

 ――で、ずっと気分よく、残業も日付変わるくらいまでして。それでも全然疲れないの。


 良い日だったなぁって思いながら帰ったら、玄関開けた瞬間、同居してる祖母が血相変えて走ってきたの。普段は八時くらいに寝てるのに。

 

 どこ行ってきたんだ! ってすごく怒られた。いや、会社だよって、笑いながら言ったら愕然とした顔してた。

 

 それで、いきなり後ろ向かされて、背中を何回かバンバン叩かれて……。そしたら、さっきまでの良い気分が嘘みたいに消えて、身体中に鳥肌がたった。すごく気持ち悪くなって、その場に蹲って、げぇげぇ吐いて……。

 

 その吐いたものっていうのが、真っ黒な墨みたいなものなの。

 ――そう、田崎さんがトイレで吐いてたっていうのと、きっと同じだと思う。


 それで出るもの出し切って……。ぞっとしたよね。その日一日、自分がおかしかったことに、ようやく気づいたの。

 

 絶好調だって言ったけど。なんというか私、すごく攻撃的になってたのね。部署へのクレーム電話を大声で恫喝したり、会議でも、重箱の隅つつくような指摘してくる役員に対して大声出したり。

 

 ……一番怖かったのは、昼休憩で外に出たとき。交差点の信号待ちのときね。

 そう、会社の前のビュンビュン車が通ってるとこ。信号待ちが長くて、フロアに戻る前に、休憩時間を過ぎちゃいそうになったの。

 とはいえ数分程度よ? 会議の予定までは余裕があったし、焦るほどのことじゃない。

 

 なのに……私、走って渡ったの、赤信号の交差点。

 物凄くクラクション鳴らされた。そりゃそうよ。あの交通量の中、いきなり人が飛び出してくるんだもん。運転手さんもびっくりするよ、そりゃ。

 

 本当、事故にならなくてよかった、と思う。けどその時はなんとも思わなかったの。なんなら怒鳴りつけてきたドライバーさんに怒鳴り返したりしてた。


 自分が自分じゃなくなってた、ってことだと思う。それに全然気づいてないのも含めて……怖かった。


 そしたら祖母がね、もう行くなって言うの、会社。今すぐにでも辞めろって。

 

 急にそんなこと言われても……って感じでしょ。仕事もあるし……。これまで頑張ってきたキャリアを捨てるなんて、簡単にできるわけない。

 

 でも……このまま会社に行き続けたら、そのうち死ぬって言われた。……本気の目だった。そんな顔の祖母、それまで見たことなかった。


 それでも話をして、ひとまず祖母を説得したの。渋々、祖母が書いてくれた御札をもらって、翌日からも出社した。


 ――調べようと思ったの。祖母の言葉から、私がおかしくなったのは会社のせいだと思ったから。

 社内を歩き回って、嫌な気配のするところを探した。そしたら、D会議室から、すっごく嫌な感じがした。

 

 絶対にここが原因だと思った。中にはいったら、それまで隅の壁に貼ってあった、古いポスターが剥がされてたの。そこから……怖い気配がした。見てられなくて……すぐに扉を閉めて、逃げた。


 ……貼り紙? ああ、うん。私、色々作って貼って回ってたみたいね。……でもね、内容については、あんまり覚えてないの。ごめんなさい。

 

 御札があっても、やっぱり会社にいると変になるみたいで……。なんとかしなきゃって思うたびに、ああいう変な貼り紙を作ってた。すぐ剥がされちゃうんだけどね。内容の意味は、正直わからない。

 ……記憶がないの、その間の。


 剥がされた資料はダンボールに放り込んで、変なデータは見つけ次第USBに保存して。どうにか原因を突き止めて、解決しようとした。

 

 しばらく粘ったけど……とうとう限界がきた。


 祖母が亡くなったの。


 健康体だけど、歳だったしね、年齢だけ見れば大往生。……でも、それで心折れちゃった。

 

 ……祖母にもらった御札、私の鞄の中で、ビリビリになってたの。


 集めた資料は会社に残した。誰かが解決してくれるだろうなんて、他力本願なこと考えてたけど……。


 ……ごめんなさい。宮下くんのこと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る