■芦原瑞穂の話 データベース

 藤村さんとの協力体制を築いた後、私は何気なさを装いながら、毎日出社を続けていた。

 

 そしてた、まさに今、私は同じ部の先輩である中塚さんから、業務の引き継ぎを受けている。

 

「ありがとうねぇ。快く引き受けてくれて」

「いえいえ、私も色々経験してみたかったので、勉強になって嬉しいです」


 中塚さんは、大きくなったお腹を擦りながら私の隣に腰掛けてにこにこと微笑んでいる。その笑顔に多少の後ろめたさを感じながら、私もなんとか微笑み返した。

 

 彼女は来月から産休に入る予定で、その業務が残されたメンバーに割り振られる。そのうち、人事データの管理担当者の後任に、ここぞとばかりに私は名乗りをあげたのだ。

 

 個人情報である人事データには、厳しくアクセス制限がかけられている。

 

 社員や氏名や在籍の有無くらいなら誰でも閲覧できる。けれど、全データの中には住所や電話番号、マイナンバー情報なんかも含まれるため、担当者と管理責任者しか見ることが許されない。

 

 本来なら人事課の所属ではない私が担当できる業務ではない。けれど、同じ総務部ではあるし、産休の代替人員の補充が最低限ということもあり、立候補したらあっさりと任せてもらうことができた。

 

「結構めんどくさい作業が多いから、みんな嫌がるんだよね。派遣さんにお願いするのもアレだしさ。助かったよ」


 私は黙って微笑みながら、彼女のお腹をぼんやりと眺める。ふと布地越しのお腹がポコリと盛り上がった。……胎動だろうか。


「……おなか、大きくなりましたね。無理しないでくださいね」

「ありがとう。……もう二人目だからさぁ、慣れたもんだと思ってたけど、やっぱりしんどいわ」


 中塚さんはあははと笑って、愛おしそうにお腹を撫でた。その様子が微笑ましくて、思わず目を細めた。

 けれど、すぐに気を引き締め直す。

  

「……じゃあ、このデータ入力はやっておきますね。後でチェックに回しますので、よろしくお願いします」

「うん。こちらこそよろしくね。わかんないことがあったら何でも聞いて」


 中塚さんはそう言ってよっこらせ、と立ち上がるとよたよたと自席へ戻っていった。彼女の机のモニターの壁紙には、七五三と思しき着物を着て、可愛らしく微笑む女の子の写真が表示されている。娘さんだと、前に聞いた。

 

 彼女の様子から、おかしな兆候は見られない。

 そしてそれは、ここ数日、私がそれとなく話を聞き回った先輩たちも同じだった。

  

 この会社の社員がおかしくなってしまうとして、そのトリガーは一体何なんだろう。

 

 それがわからない以上、社員には誰にも心を許すべきじゃないのかもしれない。もっとも、私自身もいつどうなるかわからないけど。


 中塚さんの後ろ姿を見送って、自席のパソコンに向き直る。任された仕事は入社予定者の個人データ登録だ。未だに人材紹介会社からは紙の履歴書が提出されるため、いちいちデータを手入力しないといけないという。……アナログの極みだ。


 私はデータベースを開き、履歴書を確認するふりをしながらマウスを操作した。そして、検索窓にとある名前を打ち込んでいく。


 ――佐川湊


 エンターキーを押してすぐ、画面上につらつらと個人情報が表示される。急いでその中から目当ての情報である本人の電話番号と住所を探し出し、素早くメモ帳に控えた。


 佐川湊は、資料の中で何度も名前が出てきた人物だ。おかしくなって自殺した芹山翔一、失踪した田崎未羽とは違い、まだ少しはまともでなんらかの情報を持っていそうな人物。

 話を聞くならまずはこの人だろうと、私と藤村さんは話し合って決めていた。


 心臓がドキドキと鼓動を打っている。仕方ないとはいえ、正当な理由なく元社員の連絡先を盗み見るのは、決して褒められたものではない。

 右上のバツ印をクリックして画面を閉じて、私はほっと一息をついた。

 

「……芦原さん、調子はどう?」


 突然、背後から声をかけられて悲鳴を上げそうになった。

 振り向くと、そこにいたのは私の直属の上司である庶務課の織田課長だった。彼はいつも自虐のネタにしているビール腹を揺らし、ぶ厚いメガネ越しに心配そうな眼差しを私へと向けている。


「……順調、ですよ。中塚さんにも丁寧に教えてもらいました。マニュアルもありますし」

「そっか。管轄外の仕事で苦労かけるけど、よろしくね」


 私がぎこちなく微笑むと、織田課長は細い目をさらに細めて、穏やかに微笑む。そうしてふ、と真顔になって、私に問いかけた。


「芦原さんは、大丈夫だよね?」

「……え」


 なにが。そう尋ねる前に、織田課長は後ろを向いて一人ブツブツ言い始めた。うんうん、大丈夫大丈夫、芦原さんは大丈夫。大きな体を左右に揺らしながら言い続ける。

 

 私の背中を冷たい汗が伝う。もしかして、この人も。


 織田課長はぐるりと首だけで振り向くと、不自然に釣り上げた唇を歪めて、言った。

 

「……くれぐれも、データの扱いは、慎重にね?」


 私は、こくこくと首を縦に振ることしかできなかった。

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