■芦原瑞穂の話 未羽

「……ちょっと、お手洗い行ってきます」


 データの入力を済ませて中塚さんにチェック書類を渡すと、私は逃げるように急いでフロアのトイレに入る。個室に入り、鍵をかけた。


 織田課長の異様な表情は、磯尾氏や宮下くんのお兄さんの話を思い出させた。この会社の社員の、奇妙な笑顔。実際に目の当たりにして、新鮮な恐怖が私を襲う。


 早鐘を打つ心臓を押さえながら個室の中で一人、身を震わせた。

 ……逃げちゃいけない。それでも、一人のときに弱音を吐くくらいは、自分に許したかった。


「ごめんなさい……」


 誰もいない空間に、私の懺悔が虚しく響く。しゃがみ込んで顔を覆う。指の隙間から見えるトイレの床は、涙で滲んでしまっていつもより汚く見えた。


 ……どれくらいそうしていだろう。コンコンと、個室のドアをノックする音で我に返った。


「大丈夫?」


 弾かれたように顔を上げる。まずい。誰かが心配して見に来てくれたんだろうか。慌てて立ち上がり、ドアを振り返る。大丈夫です、と。返事をしようとして……はたと気づいた。


 ……誰だろう、この声。  


「大丈夫?」


 抑揚のない、優しげな女性の声だ。同じフロアに勤める先輩方の声を思い返しても、ぴたりとハマる人は思い浮かばない。

 それに声音にも違和感があった。心配しているというよりは、なんだか、含み笑いを隠すような。

 それに、この言葉は。


「大丈夫?」 


 その声は、さらに繰り返す。それと同時に、今度はドアの反対側からザリ、という音が聞こえた。

 

 ザリ、ザリという音にあわせて、ドアが少し振動する。指で、ドアをひっかいている音? でもこういう時は、普通ノックじゃないのか。


「大丈夫うぅ?」


 声はもはや笑いを隠そうともせず、にちゃにちゃと粘ついた音ともに私に問いかける。


「誰……ですか」

「せりやま」

 

 やっとの思いで声にした問いかけの答えに、私は心底後悔した。聞かなきゃよかった。

 

 音は、徐々にドアの下方へと降りていく。私の目はその音に合わせて、視線を動かした。視線を逸らしたい。けど、本能的に見続けていないとまずいと感じた。

 

 個室のドアと床の隙間は五センチほどの幅がある。そこから女物のハイヒールが覗いていた。黒い、オフィス用のシンプルなものだ。

 そのハイヒールを履いた何かはゆっくりとしゃがみこみ、黒く透けたストッキングを履いた膝がぺたり、とトイレの床に着く。

 

 それと同時に、手のひらが二つ床を這う。爪がない、赤く染まった指先が、ぴったり十本、私の方を向いていた。


「ねえ」


 声が、聞こえた

 

 視線を上げる。そう、上げる。声は……上から聞こえた。

 

 ドアと天井の隙間から、満面の笑みを浮かべた女の顔が、逆さまになって私を見下ろしていた。 

 

「すぐ大丈夫になるからね」


 その後の記憶は抜け落ちている。

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