第2話 最強の女神(愛紗視点)
―――女神が立っているのかと思った。
その日は空もどんよりしてたし、どうっっっしても気は進まなかったけど、レポートの提出期限は迫ってるし、やっぱりあの資料はどうしても必要なわけで……。
一緒に行ってくれないかと何人か友人に声をかけたものの、みんな都合が悪く。その男に貸していた資料を、結局自分で取りに行くしかなかったのだ。
ほんと、貸さなきゃよかった。
はっきり言って困っていた。
知り合って間もないのに、やたらべたべた迫ってくるこの男。一番苦手なタイプ。
その資料が彼の部屋にあるということで、渋々ついて行ったんだけと、借りたものぐらいちゃんと持ってきてほしい(こんな日に限ってみんな都合が悪いとか、本当についてないと思うわ)。
男の部屋は玄関を開けると遮るものがない広々としたワンルームで、キッチンもベッドも丸見え。仕切りのない部屋が珍しく、男を待つため玄関先にだけ足を踏み入れた途端、何かにつまづいてコケてしまった。
いい年して人前でコケるとか恥ずかしくて急いで立とうとしたところ、大丈夫? の一言もなく突然がばっと覆いかぶさるように襲い掛かってこられ、体がこわばった。
突き出してくるタコのような男の唇を避け、手で目いっぱい押しのけながら、全身を後悔の念が駆け巡る。
いや、最悪!!
もうレポートなんて落としてもいいから、誰か助けて!!
急所を蹴り上げようと足に力を入れたところ、一陣の風が吹いた。
開いたドアのむこうに、女神が立っていた……。
長い黒髪。
一瞬見開かれる目、きゅっと結んだ口元。
凛とした、あまりの迫力に息を呑む。
きれい……。
「いや、これはちがうんだよ」
ぱっと男は私から離れ、慌てて何か言ってる。
でも、私はその女神に見とれてしまって、何も聞こえてこなかった。
女神は私をチラッと見ると部屋の中に入り、チェストの中からはさみを取り出すと、ザクッとその長い髪を切り落とし、男に差し出した。
それはまるで、天使の羽が舞い散るように見えた。
「あげる」
彼はその羽を受け取り呆然としてる。
女神がもう一度私を見て、行くよと手を差し伸べてくれた。
私は我に帰って、ささっと衣服を整える。
そして部屋の隅に見つけた資料をつかみ、急いで女神の差し出した手を握った。
土足で部屋に上がっちゃったけど、きっと女神も許してくれるよね?
外に出るとすぐ雨が降ってきた。
折りたたみ傘を出し、足早に去っていく彼女を追いかける。しばらく声をかけていいものか悩んでしまう。
そこには、雨にぬれることをも気にせず、背筋をのばして前を向いて歩く彼女の姿があった。なんて寂しそうで、なんて凛としてるんだろう……。
本当に、なんてきれいなの。
思わずぼーっと見とれそうになり、慌てて傘を差し出すと、彼女は驚いたように振り返った。
真正面から見る彼女の顔は少し青ざめていて、やっぱり人間なんだぁと思わせるけど、雨に濡れてばらばらになった髪が顔に張り付いてるのに、やっぱりすごくきれいだった。
「ありがとうございます、おかげで助かりました」
突然現れた救いの女神に頭を下げる。
私の中には、感謝の気持ちとあせりと呆れが入り混じっていた。
この人があの男の恋人だったことにはいい加減気がついていたし、こんなきれいな人がいるのにふらふらとあんなことしてくる男の事が信じられなかった。
でも、彼女を誤解させたままではいけないわ。うん、絶対!
一生懸命状況を説明し、誤解を解こうと必死になる。
仲直りして。
私のせいでこの人に悲しい顔なんてさせたくないの。
でも彼女は笑い出し、吹っ切れたように「もういいの」といった。
顔を伝うしずくが涙に見える……。
私は何とかしてあげたくて、公園の東屋で彼女の髪を少しだけ切り、持っていたピンでまとめた。
ずうずうしいかもとは思ったけど、昔からこうゆう事は得意だったし、私はこんな姿の彼女を一人で帰すのは絶対にいやだと思った。
泣いてほしくなかった。
だんだん雨が強くなってくる。
それを見つめる彼女の横顔が切なくて、私は目の前にあるカフェに彼女を誘った。
温かいコーヒーを飲みながら、彼女は気さくに話し掛けてくれるので、私はまるでずっと前から友達だったような錯覚を覚えた。
彼女の話で、私は一喜一憂する。
「でも、好きだったんだ……」
そういった瞬間、自分の言葉に驚いたような彼女の表情と、あまりにも切ないその言葉に胸が締め付けられる。
自分ではどうしようもない感情があるって事、私も知ってるつもりだから……。
だったら、もう一度彼のもとに戻ったほうがいいんじゃないだろうか?
正直、あの男にこの人はもったいなすぎると思う!
でも、この人が彼のこと好きなら、私は男の監視でもなんでもするわよ!!
糸の切れた風船状態なんて絶対止めさせる。ええ、ぜったい!
ぐっと両手にこぶしを作って彼女を見ると、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。
わ、私、何か変だったかなぁ……?
その時、ふいに自分を呼ぶ声が降ってきた。
「愛紗?」
お、お兄ちゃん! やだ、赤木さんまで。
え? なんでこんなところにいるの?
こら、顔、勝手に赤くならないでね。
あわてて彼女に兄とその友人の赤木さんを紹介し、はたと気がつく。
私、彼女の名前まだ聞いてなかったわ。
「木島沙耶です」
すかさずフォローしてくれる彼女に感謝。
私は、お兄ちゃんが一瞬でれっとしたのを見逃さなかった。
あ、赤木さんは大丈夫かしら。
沙耶さんは自慢だけど、こんなきれいな人と赤木さんに比べられるのは困る~。
「もう、お兄ちゃんはむこうに行っててよ」
いつも妹がお世話になってだなんて、大人ぶった兄を心の中で蹴飛ばす。
沙耶さんがきれいだからって、このまま一緒にいられるのも、そりゃ、赤木さんが一緒なら嬉しいけど……あーん、複雑なのよぉ。
兄がむこうに行ってしまうと沙耶さんは優しく笑って
「もっと彼と話してきたら?」
と言った。
彼だなんて、私と赤木さんてそう見えたのかしら。うれしい。
耳まで真っ赤になっちゃうのがわかる。頭から湯気がでそう。
でも、
「彼だなんてとんでもないです」
私のことなんて、友達の妹としか見てないもん。
「そうなんだ。赤木くんて彼女いるの?」
「いえ、いない……と思うんですけど……。あ、だめですよ!!」
沙耶さん相手じゃ、私絶対かなわないわよ!!
だめだめ! それだけはだめです!!
沙耶さんはくすくす笑って化粧室へと立った。
私ってば、笑われっぱなし?
う~、はずかしい。
チラッと遠くの席にいる兄たちに視線を送ると、ばちっと赤木さんと目が合い、ひらひらと手を振ってくれる。
うれしすぎる~。
次の瞬間兄が振り返ったので、知らん顔で冷めかけたコーヒーを飲む。
沙耶さんが戻ってきて、もう何度目になるかわからないありがとうを言ってくれた。
髪形をすごく気に入ってくれたらしい。
私はすごく嬉しくなってしまった。
だって、今見せてくれてる笑顔は本物だもん。
「ねぇ?」
沙耶さんが顔を近づけて内緒話。
「お兄さんたちとお茶飲もうか?」
ま、まじですか?
一瞬慌てる。
ああ、お兄ちゃんが狂喜乱舞する姿が目に浮かぶ。
ニコニコしてる沙耶さんは、どうやらお兄ちゃんより、私と赤木さんに興味を持ってるみたいなんだけどね。
そ、そりゃ、一緒にいるきっかけが作れるのは嬉しいんですけど……。
もう一度赤木さんを見ると、すかさず気付いて笑ってくれる。
期待しちゃいそう……。
救いの女神は、実は恋愛の神様なのかしら……。
ああ、でもどうしよう。
「私、失恋したばっかりじゃない? 愛紗の恋が成就したら、なんか救われる気がするんだぁ」
ふんわり微笑む彼女の顔を見て、私が別れるきっかけを作ってしまったことを思い出す。
うー、それで沙耶さんが救われるなら喜んで!
思わず力んで言ってしまったけど、いいのかしら、こんな展開。
窓の外には、雲の切れ目から月が見える。
お月様が、いいよってGOサインを出してくれたような気がした。
私は最強の女神を手に入れてしまったのかもしれない。
意外な天使 相内充希 @mituki_aiuchi
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