待ち人

sorarion914

ambulance

 これは今から、20年前の話だ。

 当時私は、市内にある救急指定の病院に勤務していた。

 と言っても、医師ではない。

 私の仕事は臨床検査技師。

 患者から採取した血液や尿などを、検査機にかけて調べるのが主な仕事だった。

 私のいた病院は救急指定とはいえ規模としては小さめで、複雑な検査になると外部に委託するような所だったので、検査室も手狭。技師の人数も少数で、お世辞にも恵まれた環境とは言えなかった。

 とはいえ、一日の診察が終わり、入院中の患者の検査などもひと通り終了すると、技師としての仕事は終わるので、医師のように当直番をすることもない。

 小規模の良い所でもあった。


 この日も、私は1人、外来業務を終えた検査室で残りの検体整理をしていた。

 当時私がいた病院の検査室は、救急搬送口のすぐ目の前にあり、検査室の隣が処置室だった。

 壁一枚隔てた向こうに、救急搬送されてきた患者が運び込まれるのだが、多い日は何台も立て続けにやってくる。

 もう帰ろうと思い始めた頃に、遠くから救急車のサイレンが近づいてきて、「もしや何か検査を頼まれるかも……」と気になり、隣の処置室の様子を伺って帰宅が遅れることもしばしば。

 しかしこの日は珍しく急患が運ばれてくることもなく、穏やかに一日が終わりそうだと感じて帰り支度をする。

 帰る前にトイレに行こう――そう思って、私は検査室のドアを開けて廊下に出た。

 季節は初冬。

 午後六時を回るともう真っ暗だ。

 既に外来は終了しているので、待合室の方は暗い。

 検査室前の廊下は、夜間救急に対応しているので電気は付いているものの、薄暗いことに変わりない。

 トイレは検査室を出て左手奥。外来受付の先にあった。

 非常灯の明かりだけがついている待合室の前を通り、用を済ませて検査室に戻ろうとした時、薄暗い待合室の椅子に、女の子が1人座っていた。

「あれ?どうしたの?」

 私は思わずそう聞いた。

 7、8歳くらいだろうか?青い綿のパンツに白いトレーナー。紺色のパーカーを着て、人待ち顔に辺りをキョロキョロ見回している。

「お母さん、待ってるの」

 消え入りそうなか細い声で、女の子はそう言った。

 職員の子供だろうか?

 時々子供と待ち合わせをして帰宅する職員がいたので、私は特に不思議に思わず、「そうかぁ」と呟いた。

 初めて見掛ける子だが、こんな暗い所で1人で待っているのもかわいそうだと思い、「あっちの明るい所で待ってたら?」と、検査室前の椅子を指差した。

 すると女の子はニコッと笑って、私の後をついてきた。

「お母さん、何時に終わるの?」

「分かんない」

 私は苦笑した。

「呼び出してあげようか?」

 しかし女の子は首を振ると、検査室の前の椅子に腰かけ、そのままじっと俯いてしまった。

 肩までの黒い髪が、濡れた様に光っている。

 暗い待合室にいた時には気づかなかったが、ズボンの裾が汚れていた。

 私にはそれが血の跡に見えて、この子、もしかしたらケガをしてるのではないかと心配になった。

「そこ、血が付いてない?」

「……」

「どこかで転んだりした?」

 女の子は黙ったまま俯いている。

 足を怪我して出血しているのでは……そう思い、私は女の子の前にしゃがみ確認しようとして――思わずギョッとした。


 女の子の白いトレーナーの胸元に、赤黒い血のシミが広がっていく―――


「え?」

 俯いた女の子の髪の先から、糸を引いた血液が一滴、リノリウムの床に落ちた。

 するとその時。

 ふいに女の子が顔を上げると、嬉しそうに目を輝かせて言った。

!」

 私はハッとなった。

 遠くの方から、救急車のサイレンが近づいてくる。

「お母さん!」

 女の子が立ち上がり、外に飛び出していく。

「あ!待って———」

 呼び止めようと慌てて立ち上がったが、外に出ると女の子の姿はなく、代わりに救急車が入ってきた。

 私は邪魔にならぬよう脇に寄り、ストレッチャーで運び込まれる患者を見送った。

 あの女の子の姿はどこにもない。


 お母さんと叫びながら。

 一体、どこへ行ってしまったんだろう……?



 仕方なく検査室に戻り、私は帰り支度をした。

 処置室では緊迫した蘇生措置が行われていた。

 どうやら交通事故で運ばれたらしい。

 30代の女性。既に心肺は停止というから、恐らくもう……

 救急隊員の話す声が耳に入った。

「子供の方は別の病院へ運びましたが、心肺停止で数分前に死亡確認されました」



 それを聞いた瞬間。

 私は何故か、心臓をギューッと掴まれた様な気がした。



 ――

 そう言って、寂しそうに座っていた女の子。


 あの子が待っていたとは、もしかして……




 * * * * * * *



 私は検査室の明かりを消すと、そのまま廊下に出た。外に停まっていた救急車の赤色灯が、いやに眩しかったのを覚えている。







 ――20年経った今でも、忘れられない出来事だ。





 ……END

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