冷たい母親

@kyan_gorou

第1話

 柔らかなシーツの上、手探りで意識を手繰り寄せる。緩やかな陽の光、ケトルから吹き出す蒸気の音。確かな充足感の中、僕は意識をもう一度手放そうとした。

 しかし、それは叶わなかった。

「起きてください。朝食ができています。家を出る時刻まであと43分16秒、朝食にかかる時間は15分ほどです。通常、あなたは起きてから支度を始めるまでに13分、今日は持ち物にリコーダーがあったはずですが、準備をしていない確率は78%です。」

「……はい…マザー…」

「おはようございます。残り時間は42分24秒です。」

 ベッドの横でまくし立てる機械は、政府から送られた養育用ロボット試験機「マザー」。数年前に事故で両親を無くした僕の元に送られた鉄とプラスチックの塊。

 僕はマザーのことが好きではなかった。

 白く、光を鈍く反射させたプラスチック製のボディはそれに感情を感じさせず、僕の共感の念を全て遮っているように感じさせた。僕を見つめる度に目の奥のカメラをキュ、と鳴らすのが気に入らなかった。何より、自分だけが学校の友達とは違い、血が繋がっていないどころか血すら通っていない母親に育てられていることは恥ずかしかった。

 ありがたいことに、政府から送られた大人が僕の元にやってきてマザーの様子を尋ねてくるので、僕は必ず不満を吐き出していた。

 マザーの作る食事は温かくも無機質だった。均一なきつね色のトーストと綺麗な半熟と堅焼きが半分ずつの目玉焼き、さらに、サラダはどこを食べても同じ味がした。僕は野菜が好きではなかったが、マザーが僕の好みにそったドレッシングを自作した。その完璧さに、僕は恐ろしさすら覚えたのだ。

 僕は完璧な朝食を平らげたあと、マザーに急かされながらリュックサックにリコーダーを押し込み家を出た。



 悲しいことに、楽しい時間はあっという間にすぎるもので、僕はゆっくりとした足取りで帰路に着いていた。

 家に帰るのが憂鬱で、自分の家が自分の家じゃないみたいな感覚がつま先を蝕んでいく。だんだん嫌になってきて、僕は通学路の途中にある公園に向かった。

 ここはよく両親と来ていた場所だ。古い記憶を思い出しながら、僕はブランコに腰掛ける。ブランコは僕をあやすように揺れ動いていた。

 僕は別に今の生活に強い不満がある訳ではない。僕の身長は健康に伸びているし、欲しいと思っていた新作ゲームも勝手に与えられる。そのくせ、あのポンコツは僕の表面しかなぞろうとせず、僕があれに強いストレスを感じていることを知らない。

 その原因としては僕がそういった側面を見えないようにしているからだろう。

 僕の好きな食べ物とか、ゲームのジャンルはわかりやすいから見透かされている。が、それに加えて思考まで読み取られてしまったら、気持ち悪いったらありゃしない。だから、絶対に悟られたくないのだ。

 そんなことを考えていると、ふと、声がした。耳障りな機械音。

「ここにいたのですね。どうして帰りが遅かったのですか?」

 マザーだった。瞬きもせず、僕をじっと見つめている。

「なんでもいいだろ」

 今日はひどく気分が悪かったので、いつも以上にぶっきらぼうに答えた。マザーは変わらず続ける。

「そうですか。今日は貴方に伝えなければならないことがあったのです。」

 伝えなければいけないこと、その言葉を聞いて、僕は顔を上げた。マザーは依然として変わらない様子で僕の前に立っている。

「貴方の引き取り手が決まりました。」

 マザーが淡々とした口調で言った。僕は突然のことに狼狽えた。心臓が速く動く。

「引き取り手は30代後半の夫婦。不妊症により子宝に恵まれず、貴方を引き取りたいと名乗り出たようです。父親は会社勤め、母親は専業主婦。年収は、」

 マザーが淡々と続ける。しかし僕はそんな話は殆ど聞こえていなかった。僕に引き取り手が、血の通った親ができる。触れ合うと柔らかい肌同士が動き、暖かさを共有することが出来る生きた親。

 友達とは違い、親と血が繋がっていないという疎外感は抜けないだろうが、血すら通っていないよりはずっとマシだ。

 つま先が暖かくなっていくのを感じる。風が僕の頬を撫でた。

 マザーは最後に「おめでとうございます」とに短く言った。目の奥のカメラがキュ、と鳴った。



 柔らかなシーツの上、手探りで意識を手繰り寄せる。緩やかな陽の光、かろうじて感じられるコーヒーの香り。確かな充足感の中、僕は意識をもう一度手放そうとした。

 しかし、それは叶わなかった。

「ほら、そろそろ起きなよ!学校間に合わなくなっちゃうよ!」

 母親の声で眠りを妨げられてしまった。寝ぼけた頭で時計を見ると、時刻はもう家を出る15分前で、僕は急いで飛び起きた。

 大慌てで服を着替え、朝食の用意されたテーブルへと向かった。父親は僕よりずうっと前に朝食を済ませていたらしく、新聞紙を広げながらコーヒーを啜っている。

 テーブルの上には白米と昨日のあまりの味噌汁、堅焼きの目玉焼きが並んでいた。僕は醤油をかけた目玉焼きを白米と一緒に胃に掻き込んだ。

 父親と母親はそんな僕を見て「危ないから、落ち着きなさい」となだめながらくすくすと笑った。



「廃棄前に様子が見たいと言い出したからびっくりしたが、いったいどういう計算でそうなったんだロボットさんよぉ。ま、俺ぁそういう細けえことはわかんねえけどよ。……おい、そろそろ満足したか」

 運転手が面倒そうに私に呼びかけました。

 愛する私の子が、夫婦と共に窓の奥で幸せそうに笑っているのが見えました。いえ、彼はもう私の子ではない。むしろ、最初から。

 私は彼が私を嫌っていると気づくことが出来なかった。その結果が廃棄なのだと、私はプログラムを押さえつけるように繰り返しました。

 私は内蔵されたカメラで彼をじっと見つめ、メモリにその様子を焼き付けました。

「はい。ありがとうございます。もう大丈夫です。」

 返事をしたその瞬間のことです。私は窓の奥から、小さな、ひどく微かな、キュ、という音を聞き取りました。きっと、この音を聞き取ることができたのは私だけでしょう。 

 どうか、彼がこのことに気がつきませんように。彼が幸せに暮らせますように。

 そんな私の想いを引き摺り、車は廃棄場に向かっていきました。

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