うつせみ 後
夕方には母が帰ってきて、入れ替わるように蓮が帰っていく。私が手を振れば、蓮は投げキスをしてきた。もう本当に意味がわからない、何を考えているの。口の動きだけでバカって言ったって、笑われておしまい。それでも、またねって玄関で見送った。
母と夕食を取った後は、テレビで放映していたアメリカ映画を見た。死んだ恋人が幽霊になって戻ってくる純愛もの。蓮は幽霊も得意じゃないから一緒に見てくれなさそう。映画は途中で切り上げて、お風呂に入った。
シャワーを浴びていたら、家の電話が鳴った。コール音がここまで響いてくる。夜更けってほどでもないけれど、誰だろう。スマホじゃなくて、家の電話にかけてくるなんてめずらしい。
お風呂からあがると、家のあちこちの電気が消されていて驚いた。廊下さえ真っ暗で、シャツを着た私が湿った足でぺたぺた歩くと、その音を聞きつけた母が居間から飛び出してくる。照明のスイッチを示す、緑の微灯に慣れた目に映る母は血相を変えていた。
「どうしたの」
「スマホある? 何か、連絡来てない?」
お風呂場にスマホは持って行かない。じゃあ今すぐ部屋から持ってきなさいと言いつけられて、目を白黒させながらも急いで二階の部屋にあがった。暗さにも慣れた目で一階に戻ると、母は私の手からスマホを取り上げた。でもロックがかかっていて、私が解除すれば、メッセージが一件あった。蓮から。たった一言だけ。
ごめん
大きな鼓動がひとつ、胸をたたいてきた。
謝られるようなことなんか、何ひとつされていない。それなのに、蓮が謝るのは、いったいどうして? リズムを変えた胸は、ドキドキが止まらない。それも、悪い意味で。たった三文字を見たこの目を通して、どす黒い血が全身に流れていく。急に怖くなった。怖くなったけれど、この気持ちの対処法なんて知らない。どうすればいいの。何もわからなくて、母の腕にすがった。
「落ち着いて、明世。いい。ちゃんと話を聞いて」
薄暗い廊下で、母は私を座らせた。冷えたフローリングに、膝丈のシャツからはみ出たふくらはぎがぺたりとくっつく。
「蓮が死んだって」
謝って、許されるようなことじゃないでしょう? ねえ、蓮。何を考えていたの。
「どうして……」
「わからない」
当たり前だ。母は私の母で、蓮のお母さんじゃない。看護師だからって、人の死ぬ理由が見通せるわけじゃない。わかっている。それでも訊ねた。だって、どうして蓮が死ぬっていうの。
「アパートの部屋から、飛び降りたんだって」
「飛び降り……」じゃあ。
「自殺だって」
目の前の現実に、亀裂が入った気がした。
自殺。
だってそんなの、ありえないよ。だって蓮は、蓮は、働くんだって言っていた。なんでって、お母さんのためじゃないと言ったら嘘になるけど、でも本音は、私と結婚するお金を貯めるからって、言っていたのに。二人の将来を、誠意を持って考えていてくれたんじゃなかったの。
どうして、どうして。
「うそ……だよ、そんなの」
「嘘じゃないの」
母は首を振った。首を振るって、それは否定の意味じゃないの。違うってことじゃないの。でもそれが肯定の意味を持つことを、なぜかわかってしまう。
自分の母親のそんな痛々しい表情を見たら、私はだめ。こらえきれない。
「さっき、蓮のお母さんから電話がきたの。一緒にいてくれないかって。だからお母さん、今から病院に行ってくるから」
「私も……」
「だめ」母はきっぱりと、私の要求をしりぞけた。「あなたは家にいなさい。夜間の外出は禁止されているんだから、絶対に出たらいけないわ」
「でもっ」
泣いたって、幼子のわがままでもない。私はもう、それが許される年齢じゃない。わかっている。それでも娘の特権として、私は涙を流して母に乞う。
連れて行って、蓮のところに連れて行って、会わせて、お願いだから会わせて蓮に会わせてお願いだからお願い蓮に会わせて蓮に!
「明世」それでも母は、すっと指先を階段へと向ける。「部屋に行きなさい。絶対に、家から出ちゃだめよ」
娘を一喝する親の声に、力を奪われた。腰に力が入らなくて、立てない。母は、それでもいいと思ったみたいだった。明かりを消した家から、一人出て行く。外から家に鍵をかけると、軽自動車のエンジン音が響く。それがすぐに遠ざかっていくと、家は無音。私の体内からもたらされる、心臓の音以外何も、私には何も聞こえない。
追いかけていこうか。でも、足に力がない。入らない。蓮と性行為をした直後みたい。そんな理由で立てなくなったら、きっと蓮が手を貸してくれていた。笑って、ごめんねって腰をさすってくれた。
でも今、ここに蓮はいない。ここだけじゃない。この世のどこを探しても、蓮はいない。いなくなっちゃった。
壁に頭を預けて、とめどなくあふれる涙を流れるままに任せていたときだった。玄関がどんどんたたかれる。不審者? それとも母? そんなふつうの発想が、今の私にはできなかった。だって私は日中の蓮との会話と、お風呂に入るまでに見ていた映画のせいで、まったく別の可能性を頭に思い描いたのだから。
玄関に設置されているモニターを見たら、それは確信へと変わっていく。焦る手で玄関扉を開くと、すき間からすべりこんでくる大きな体があった。生身? 息があがっていて、とても汗くさい。でも、かすかに漂ってくる甘みと酸味が混じったそれは、いつもよりちょっとだけ甘いけれど、私の好きな人が好きなカルピスの匂いに違いない。
「蓮……?」
「ああ」
痰が絡み、むせる蓮の声はいつもより少しだけ低い。膝に手をついて息を整えてから、上体を起こすその人を私は改めて見上げた。
玄関のすりガラスを透けて入ってくる月光に、照らされる。真昼でも、真夜中でも、その美しさがかすむことはない。
「蓮、だよね……」
「ああ」
「さっき、私、お母さんから」
「ああ、死んだ」本人が、その口で告げるのは真実以外あり得ない。「飛び降りて」
「どうして」
その問いに、蓮からの答えはなかった。唇をきつくかみしめて、言葉をつむごうともしてくれない。
「どうして死んじゃったの」
重ねて問いかけても、蓮は、まるで見えない糸に縫いつけられたみたいに唇を開こうとしなかった。
その糸がほどけるのは、たった一言のため。
「会いたかった」
求めていた答えとは、まったく別だった。
けれど、その胸に抱かれたら、もう。
「明世に、会いたかった」
蓮の体から発される熱気が、湯気となって立ち上っていく。ああそれは、それは蓮の命よ。やめて、お願い奪わないで。はあと吐き出されたカルピス風味の吐息さえも、蓮の命の欠片なのに。襟首をつかんで、蓮の唇に重ねた。すでに失われた分の命は、私の命さえあげたっていい。蓮が生きてくれるなら、なんだってあげたのに。
昼間とは打って変わってひんやりとした、夜の空気。そこに、蓮の命は見る見るうちにかすめ取られていく。死に神が、蓮の命を吸い取っていく様子が目に見える。
「なんで、本当に幽霊になっちゃったの……なんで死んだの、バカ……いや、うそ、お願い、死なないで、生き返ってお願い」
厚い胸板に顔を押しつけて、涙をこすりつけた。蓮のシャツは私の涙を吸って色を変えるけれど、その涙に含まれる私の命を吸い取ってはくれないんでしょう。
「ごめん」蓮は、それが答えのすべてというように言い切った。「これが最後だから」
「もう会えないの?」
「会えない」
「死んだから?」
当たり前のことを聞かれて困るのか、蓮は黙った。それとも、幽霊なんて本当は冗談で、蓮は死んでいなくて、母が蓮に頼まれて共謀して私をだましているとか、そっちの方が話としてはありえそう。
でも、なぜか分からないけれど、蓮が死んだのは本当なんだと感じている私がいた。
それでも、蓮は幽霊になって会いに来てくれた。まだ、蓮の心は生きている。その心が消えてしまう前に、ねえ蓮、お願い。
真夏の蝉みたいにその命を使い果たすというのなら、遂げさせて。
「私、蓮の赤ちゃん欲しい」
「正気?」
幽霊に、子どもを求めるなんて。
自分の耳に、嘲笑のフィルターをかけてしまった。蓮はそんなふうに、私をあざ笑ったりなんかしない。だから私は、振り切った。フィルターも、現実も。
「正気じゃない。本気」
蓮の髪をつかんで引っ張る。そのまま重力任せに唇をぶつけたら、血の味がした。私の血か蓮の血か、なんて、幽霊の蓮にする話じゃない。私の血と、蓮の心でいい。それを練り合わせて、どうか私のこの体に、蓮の子どもを宿して。
お願い、神様。
「明世」
ああ、間違えた。祈るのは神様じゃない。
「お願い、蓮」
唾液を飲み込んだ蓮の喉元が動く。その白い肌に目を奪われていると、はじまりの合図。貪りあう口づけ。
時間がない。たぶん、蓮は幽霊だから。
だから、いつもよりも荒々しく、口の中を乱された。唾液も息も漏れない、唇の密着。蓮に腰を掴まれた私の下半身は砕けて、玄関マットの上に崩れ落ちた。丈の長いシャツをめくられる。ブラジャーを引きずりおろされて、蓮の熱い大きな手のひらに揉まれた。いつもの愛撫はそうじゃないでしょうと、胸の先端が主張を始める。いつもはもっと、壊れ物を扱う優しい手つきなのに、蓮は焦っていた。当たり前のように胸を口に含んで、私が悲鳴をあげるほど強く吸った。片手は太ももを撫でまわしながら、あそこに到達する。下着の上で指を往復させて、そんないたずらだけじゃいやとわめく私に、蓮が謝らない代わりに額に唇を触れさせてくる。
間近に迫った蓮の真っ白な肌を見て――ああ、蓮は死んだんだと改めて私は思った。
それでも、それでも私は――この人の子どもが欲しい。
挿入する寸前、蓮のいつもの癖。私の顔の脇においた蓮の手に、指を絡める。
「どうかした」
「ううん」
互いに、呼吸の調子を合わせていく。口づけを交わしながら、その時を待つ。息と、鼓動と、それらが一致した瞬間、蓮が入ってくる。
避妊しない、本当の性行為。
だからなのか、いつもよりも力強い気がした。痛くはなかった。だって、蓮とはもう何回もしている。慣れているなんてのは言いたくはない。
だって、本当の性行為はこれが初めてだから。そのことを、死んでも、遠くへ行ってしまっても忘れさせないように、蓮の腕にがりっと爪を立てる。肌を破って肉を裂いた痛みを、骨さえ削り取るほどの深い傷を、治らない痕とともに、私を蓮に刻み込む。
「いって、この」
ニヤリとつぶやく蓮は、でも、逃げなかった。私の悲鳴をたった一人で堪能するように、激しく揺さぶってくる。背丈と同じくらいにプライドが高いから、どっちがより相手を好きかの意地の張り合いで、負けたくない蓮の行動。押し込む強さと締めつける強さは、どちらも引けを取らなかった。負けず嫌いの私たち。やっぱりお似合いなんだね。
でも、でもね、蓮。私は蓮が好きで、ただ、ただ蓮が好きで、死んだなんて思いたくないけれど、でも、蓮が死んだことを、私は知っている。
それでも私――この愛しい人の赤ちゃんが欲しい。
どうしても。
はじめて愛した人の、あなたの、赤ちゃんが欲しい。
最果てで、蓮のすべてを受け止める。それを思い出す、という形で記憶に刻みこんだときにはもう、朝日が私を照らしていた。蓮の姿はどこにもなかった。あの夜の闇に完全に溶けきって、消えてしまったのだろう。朝日がまぶしいせいで、涙は止まらなかった。
それからすぐに、母が帰ってきた。泣き腫らした顔の私を見て、母は抱きしめてくれた。お腹の子が産まれてきたら、もう、こんなことしてあげられないからね。でも今だけならいいよ。母の優しさに触れて、私は泣いた。朝日のせいにした涙の本当の理由。蓮を失った悲しみを、母は私の唯一の肉親としてすべて受け止めてくれた。
夏休みが明けると、クラスメイトの数人が消えていた。そのことについては、誰も、何も言わない。蓮もその一人だから、誰も、私に理由を訊ねてこなかった。みんな、同じ理由でいなくなっていたのだから。
蓮のいない学校は、特別つまらなくなったりもしない。かといって楽しめるわけでもない。進路はだいたい決まっていたし、看護学校なら通える程度の学力がある私にしてみれば、出席日数のための登校を繰り返すだけだった。でも、カロリーゼロのカルピスみたいに、大事なものがぽっかりと抜け落ちてしまった学校生活になったことは事実だった。
あれほどに暑かった夏も、十月に入れば汗のかく日がぱたりと消える。それと同時に、命を使い果たした蝉の声もまったく聞かなくなった。きっとみんな、愛すべき相手を見つけて互いの子孫を残しきったのだろう。幸せな一生だったはずだ、蝉は。じゃあ、蓮は?
紅葉に向かって色づき始めた木々が、部屋の窓から見える。起床してすぐの寝ぼけた頭で、ぼうっとそれを眺めていたときだった。胃をわしづかみにされた嫌悪感がいきなり生じた。口を押さえて、トイレに駆け込む。
胃には何もないのに、それでも激しいおう吐を繰り返して、胃液をひたすら吐いた。白みがかった黄色い液体はすっぱい匂いをトイレに充満させる。頭がふらふらして、ひどく気分が悪い。視界が、うっすらとぼやける。
蓮の好きなカルピスの、あの爽やかな香りが欲しいと思った。
「どうしたの」
騒音で目覚めた母が、途中から背中をさすってくれていた。人のぬくもりに触れて、ようやく落ち着きを取り戻せた。母に大丈夫と告げて、口元を拭ったトイレットペーパーを胃液と一緒に流す。それを最後まで見つめて、お腹に手をあてた。
もう戻れない。間違いないと思った。
「お母さん」
「なあに」
「私、今月まだ生理こないの」
「蓮が死んだショックで、体が少しおかしくなっているだけよ」
「ううん」
違う。自分の体のことだもの。それくらいわかる。
だって、これはそれしかない。保健の教科書にも載っていた。
「私、妊娠したの。蓮の赤ちゃん」
蓮が死んで、その幽霊と性行為をして子どもを授かるなんて夢みたいな話、本当にあると思う? でも、これは本当の話なの。
さめざめと泣く私を、母は体を支えながら居間まで引っ張っていってくれた。学校に休みの連絡を入れて、蓮が最後にうちに来た日より膨らんだお腹でせっせと動いて、ホットミルクを作ってくれた。薄い膜の張った白い液体を口に含んで、消化器官へと送っていく。ぬくもりがじんわりと、体に広がった。それを、この子も栄養として受け取ってくれるだろう。マグカップをテーブルにおいて、ソファの上で体を丸めてみた。蓮との間に授かった命を感じ取ろうとするけれど、さすがにまだわからない。
「本当に妊娠したと思っているの?」
母は薬箱から、妊娠検査薬を持ってきた。未使用のそれを私に握らせる。二本線が出たら陽性。一本線なら陰性。こんなの使わなくたってわかるのに。
「気のせい。気のせいよ。ショックが大きいだけ、引きずってるだけ。悪いことじゃないけど、そういうことよ。それでも、信じられないっていうなら使ってみなさい」
母は、私が蓮と避妊をしないで性行為をしたことが信じられないみたいだった。それだけ信用していた娘から裏切られるなんて、母にとっては相当ショックなのだろう。そのことがわからなかったわけじゃない。一人親の母には、これからさらに手間のかかる子どもが増える。それなのに、娘も同時に妊娠して、未婚のまま子どもを出産する。母の負担は増える一方。
考えられなかったわけじゃない。考えたくなかったの。
もう一度トイレにこもって、検査薬を使ってみた。線がはっきりと出るまで数分かかる。その前に居間に戻った。ソファにかける母の隣で、私は検査薬の結果を目の当たりにする。
二本線、陽性。わかってはいたけれど、改めて実感した。
私は、蓮の子どもを妊娠している。
「どうして……」母の声は震えていた。「どうして、あなた妊娠なんてしたの」
ああするしかなかった。蓮の生きた証をこの世に残すには、ああするしかなかったの。生まれてすぐに死んでしまった妹みたいに、この世に何も残せなかった後悔をさせたくなかった。蓮のことを決して忘れない存在として、私が在りたかったの。
「そうじゃないの」
母は首を振りながら、何度も同じことを口にした。そうじゃない、そうじゃない。
「蓮とセックスをしたって、妊娠するはずなんかないのよ」
「何言ってるの。避妊しなかったんだから、私だって体は子どもじゃないんだし」
「違うのよ」
また、母は否定する。違う。そうじゃない。
じゃあ、いったいなんなの。
「あなたと蓮の間に、子どもが生まれるはずないのよ」
「なんでそんなこと言うの」
母は、観念したようにつぶやいた。
「女同士で子どもができるはずないからよ」
いったい、母は何を言うのだろうか。
「女同士って……」
それじゃあまるで、
「いい、明世。よく聞きなさい」
母は困惑して、混乱して、涙を浮かべながらも必死にそれをこらえて、私の両腕をつかんで離さない。力はなかった。ふりほどこうと思えば簡単に逃げられる。
でも、どうして逃げられる。
「この県はね、青少女健全育成モデル地区っていうの。性犯罪に遭ったり学生で妊娠や出産したりしないように、女を
「おとこって、何」
初めて聞いた。おとこ。おとこって、何。
「あなた、蓮とセックスしたでしょう。そのとき彼女が腰につけていたもの、覚えているわね」
芯が固くて表面が柔らかなゴム製の棒。二人を隔てながらもつないでくれる。「ペニスのこと?」
「それを本当に、体に持っている存在が男っていうのよ」
あの細長い棒を、肉体の一部として体に携えている存在が、いる? 想像してみたら、そんなのあんまりにも滑稽すぎて、ふふっと笑ってしまった。だって肉体が、あんな棒を生やす? 生やせるの? どこに? どうして、そんなものが必要なの?
「ペニスから出される精子とわたしたち女が持つ卵子が受精して、わたしたち女は初めて妊娠するのよ」
「何、それ……」
そんなの、授業で習っていない。だって妊娠をするには、自分と恋人が排卵日に合わせて性行為をして、中央に穴の開いたペニスを通って降りてきた恋人の卵子を、受け取った側が妊娠をするのだと教科書に載っていた。避妊する場合には、穴の開いていないペニスを使用するんだって。
母は真っ赤な顔で首を振った。
「嘘なのよ。そんなの、全部嘘。あなたたちを性に関する事件や事故に遭わせないための、作られた話なの」
だから、十八歳で自殺する子が増える。
県外行きを希望する子は、この守られた世界から出て行くということ。それはつまり世に存在する男とも出会うということだから、この世には自分たち女以外の存在がいることを教えなければいけない。手始めに、まず自分の父親や、いれば兄弟となる男性と対面させていくのだと。
「蓮みたいな子は、特に強いショックを受けるの。自分は子どもを授ける側だと思っていたのに、授けられる側だと知るんだから。男という存在に驚いて、自分が子どもを産む側にしかなれないんだってことを知って……将来を約束した恋人なんかいたらなおさら。恋人との間に、子どもが授かれないってことを嘆いて、それで自殺する子が絶えないのよ」
「……じゃあ」
私が震える指で示す、母のそのお腹の子どもは、誰の子どもなの。
「この地区の外は、男女が共同で住んでいるわ。わたしの夫、あなたにとっての父親も住んでいるの。わたしが以前出産したのは妹じゃなくて弟。その子は今、夫に託してあるの」
私は息を呑んだ。
「死産じゃ、なかったの」
「予定日よりはやく破水して、あなたに出産を手伝ってもらったでしょう。あれは想定外だったのよ。あの子が男ってわかったときから、あなたには隠れて出産して、死産ってことにするはずだったんだから」
私より年下のその子は男の子だから、妹ではなく
「明世、大丈夫?」
頭が追いつかない。情報量があまりにも多すぎて、飲み込まれそうになる。そこを必死に、今でも私の支えになる蓮に手をつないでもらって、なんとか今、私は自分を奮い立たせている。大丈夫、たぶん。首を振って母に答える。
蓮もあの夜、きっとこうやってお母さんから真実を教えられたのだろう。私たちは女で、女は女同士では子どもが作れない。私と蓮は、避妊しようとしまいと、子どもは授かれなかった。
でも私は、女である蓮としかセックスをしていないのに、今こうして妊娠をしている。
「この地区に男性が入れることはないの。それでも夜間に忍び込んでこないとも限らないから、未成年者の外出は強く禁じられているのよ」
そこまで言い切って、母は私の目を見つめてきた。
「それでもあなたは、現に妊娠している。男性と決して触れ合ったことがないあなたが、どうして妊娠しているの」
どうしてって、そんなの。
「言ったでしょう。あなたも蓮も女なの。女同士じゃ子どもは授かれないの。男性とセックスをしない限り、妊娠なんてしないのよ」
だから私が妊娠しているこの事実が述べることは、たったひとつだ。
「あなたのお腹の子の父親は、いったい誰なの」
それでも、私の答えはひとつしかなかった。
「蓮よ」
だって私は、あの夜の蓮が別人であることを知っていたのだから。
うつせみ 篝 麦秋 @ANITYA_
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