第17話ㅤ美食のアリア



「……ッ……」


苦しげな表情をしているアキに、蜘蛛女アラクネは優しい声色で、流暢りゅうちょうに話し掛けた。


「あら、何だかとても辛そうね。もっと苦しそうな声を、私に聴かせて?ㅤ私、悲鳴を聴くのが大好きなの。貴方が絶望にちれば堕ちる程、恐怖を感じれば感じる程。筋肉が引き締まってッ……ほほとろけてしまいそうなくらいッ……すっごく美味しくなるのよ」


ㅤうっとりとした表情をして彼女は言う。今の言葉から、オリビアは理解した。蜘蛛女は彼を、捕食対象として見ているんだと。


ㅤ昔アテナから、蜘蛛女アラクネについて話を聞いた事がある。蜘蛛の中でも最も力のある魔物で、師匠自身も噂でしか存在を聞いた事がないらしい。


──今すぐ助けたくても、助けられない。無理矢理助け出すにしても、アキさんがあまりにも危険すぎる……。どうしたらいい……!?


「アキさんを、離してください!」


ㅤ剣先を向けたまま、はっきりとした口調で再度蜘蛛女に通告した。すると、彼女は悲しそうな顔をしてオリビアを見る。


「あぁ……どうして私と彼を、引き裂こうとするのかしら?ㅤ無粋ぶすいな人ね。貴方も美味しそうな香りはするけれど……。彼はもう……私の物なの」


ㅤアキの首筋に薔薇ばらの模様が浮き出して、紫色に発光している。蜘蛛女は恍惚こうこつの表情を浮かべながら、それを眺めていた。


「あれはッ……まさか……」


──死の刻印こくいん。魔物が獲物に付ける印の様な物で、付けられた者は逃れる事が許されない。何処に居ても居場所が知られてしまうという……マーキングの証である。


ㅤ刻印を消す方法は、ただ一つ。印を刻み付けた魔物をほうむり去る事。


──彼を助ける為には、絶対に彼女アラクネを此処で倒さなければ……!


ㅤ双剣を構えているオリビアを他所に、蜘蛛女は教会の奥の壁に、アキを網目あみめ状の糸ではりつけにした。


ㅤ胸の辺りを粘着性のある糸が覆い、祭壇の上部の壁に捕らえられた彼の手足は、ぶらんと力無く宙に垂れている。


「……」


「そこで大人しく見ていてね。邪魔者を排除してから、後でゆっくりましょう……?」


ㅤ満足そうな顔をしてオリビアに向き直ると、蜘蛛女は細長い手指を絡ませ、両手で印をむすんだ。


「『固有アイゲン結界ラウム』──美食のアリア」


「……ッ!?」


ㅤ彼女が言葉を放った途端、教会内の景色が赤く染まる。気付けば所々に、蜘蛛の糸が張り巡らされていた。


「これでもう……誰も逃げられないわ!」


ㅤ蜘蛛女は両手を上げて、歓喜の声を上げる。


ㅤ固有結界とは──魔族や上位の魔物が使える、戦闘を行う為の自分の空間の事だ。この結界術自体、オリビアは見るのも受けるのも、初めてであった。


ㅤアキが磔にされている壁の上部、大きな円形のステンドグラスの前には、それを覆い尽くす程の巨大な蜘蛛の巣が出現した。


ㅤその蜘蛛の巣には、いくつかの人骨が拘束されていて、オリビアの見覚えのある容姿の者も手足を糸で固定され、捕縛されている。


──あれはッ……。


ㅤ先刻、街で別れたばかりのエミリー達だ。首が項垂うなだれていて、三人とも気絶している様に見える。


ㅤオリビアが向けた視線の先に、蜘蛛女も目を向けた。


「あら。彼らとお知り合いだったのね?ㅤそれならみんな仲良く、私が食べてあげるわ!」


ㅤ蜘蛛女が両手を前にかざすと、白い糸が宙に集まり高速で編み込まれていく。細長い柄の様な物が作られ、それは次第に白い大鎌の様な形状になった。


ㅤ死神の鎌の様な、大鎌デスサイズ──あれが彼女の武器のようだ。直線の柄の先にある刃の根元には、薔薇のように赤い宝石が埋め込まれている。彼女は頬を赤らめ、それを愛おしそうに撫でていた。


「いつもは、これを使わなくて済むのだけれど……。仕方がないわよね。獲物かれを奪おうとするんだもの」


ㅤそう言うと、蜘蛛女は八本の脚で一気に踏み込み、オリビアの眼前に迫る。黒い外骨格によって人間の頭二つ分高くなった頭上から、彼女は大鎌を勢い良く振り下ろした。


ㅤ反射的に双剣で受け流し、火花が散る。素早く後方へ回避したオリビアは、もう一度剣を構え直した。


咄嗟とっさに回避していなければ、今の攻撃で真っ二つになっていた。蜘蛛女の跳躍ちょうやく力……その速さたるや、ドスプンジャリオの比にならない。


ㅤ大きな鎌を軽々と頭上で振り回し、蜘蛛女はオリビアに再度迫りながら、猛攻を続ける。息付く暇もない彼女の連撃に、オリビアは生存本能と反射神経のみで応戦していた。


ㅤ繰り返し、散る火花。激しくぶつかる金属音。そして、大鎌が宙を切る音が聞こえる度に、オリビアの頭の中に『死』がぎっていた。


ㅤ一触即発の緊張感を全身で感じている。尋常じんじょうではない空気感に、上手く呼吸が出来ない。


「……はッ……ッ……!!」


「あっは!ㅤ凄い、凄い!ㅤ恐怖の香りを感じるわ!ㅤ……怖い?ㅤ怖いわよね?ㅤお願いだから、抵抗しないで?ㅤ出来れば、綺麗な姿のまま貴方を食べたいのッ!」


ㅤ蜘蛛女は華奢な身体で素早く柄を回転させ、楽しそうに笑っている。今まで負けた事がないのだろうか。彼女から、強者の落ち着きを感じた。


──負けてたまるかッ……!!


ㅤ蜘蛛女が振るう大鎌を寸前で回避しながら、負けじとオリビアも双剣で斬りかかる。


ㅤ身体を旋回させながら攻撃を与えるが、彼女の表情に揺らぎは一切ない。軽々と鎌の柄を使って、オリビアの斬撃を防御していく。


ㅤ八本の脚で華麗に跳躍ちょうやくしながら回避した蜘蛛女は、側廊そくろうの更に上の壁に手足を張り付けた。


ㅤ側廊上部に連なるステンドグラスを背に、彼女は首をかたむけ、上機嫌に口角を上げている。


「ふふふ!ㅤ驚いた……貴方、強いのね。それなら、これはどうかしら?」


ㅤ彼女は外骨格のみで壁に張り付くと、上体をゆらりと傾かせたまま、空いている左手をオリビアに向けて突き出した。


──何か来るッ……!!

ㅤ蜘蛛女のてのひらから沢山の細い針が飛散し、オリビアの頭上から豪雨の様に降り注ぐ。置かれた長椅子の間を飛来針を置き去りにしながら走り抜け、彼女アラクネから距離を取ったオリビアは椅子の物陰に隠れた。


ㅤ潜伏している長椅子に、針が繰り返し突き刺さる音がする。


ㅤよく見れば、人間の指くらいの太さの濃紫こむらさき色の針だった。先端は細長く鋭利えいりで、小型ナイフ程度の長さがありそうだ。


ㅤ荒くなった呼吸を整えながら、オリビアは思考を巡らせる。


ㅤアキさん、そしてエミリー達の救出。そして蜘蛛女アラクネの討伐と、やるべき課題は山積みだ。


──正直、蜘蛛女の対処で手一杯……。せめてエミリー達が気が付いて、戦いに加勢してくれたら……。


ㅤオリビアは意を決して物陰から飛び出し、長椅子の隙間を低姿勢のまま駆け抜けた。


──まずやるべき事は……エミリー達の奪還だ!


ㅤ走りながら、頭上を目視確認する。蜘蛛女はニタァ…と微笑みを浮かべながら、まだ側廊の上部にいた。


ㅤ次に前方のエミリー達の位置を確かめる。教会の奥、祭壇の上部に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣までは、およそ高さは五メートル。


ㅤその高さに仮に辿り着いても、糸が断ち切れるかどうか分からない。


──それでも、勝機はある……!


「……ッ!」


ㅤそう強く闘志をたぎらせていたオリビアの歩みが、次第に止まっていく。


ㅤエミリー達やアキがいる、教会の奥。祭壇前の床に、誰か人が倒れている。明るい茶髪を編み込んだハーフアップ。スカート丈の長い、若草色の長袖のワンピース。


ㅤ記憶が薄れても尚、忘れる事はない。


「お母……さん……?」


ㅤ口から血を流し、虚ろな瞳で横たわる母の姿を見て、オリビアはその場に立ち尽くした。





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