戦火の果て

 火の鎮まりを待って、焼け落ちた本能寺に秀満ひでみつは足を踏み入れた。

 寺の塀の内側には倒された矢来やらいや割れた陣笠じんがさが幾つも散らばり、織田の郎党と見られる雑兵達のむくろもまた顧みられることなく粗雑に野にさらされている。息をしている者もいるが、秀満の目には倒れ伏した者はどれも大差なく映った。喘鳴ぜんめいする呼吸は砂利すら飛ばせぬほどに弱々しい。酷い手傷や火傷を負いながらも討ち取ったものらしい手柄の首を渡すまいと抱え込むようにしている者さえいる。しかし、その喉笛から漏れる息遣いは遅かれ早かれ黄泉路よみじを行く者の調べのように秀満には聞こえた。

 己の命より功名が大事か。

 見慣れた戦場いくさばの光景。平らかな世とは程遠い酸鼻さんびを極める景色にはして目もくれず秀満は寺の敷地を足早に奥へと進んでいく。何をいても確かめねばならぬことが秀満にはあった。信長のぶながの首とその在処ありか。それを確かめるまで秀満にとっての戦は終わらない。

 誰よりも秀満は信長の首を求めていた。それはひとえに光秀みつひでの志を果たさんがため。光秀の願いが成就した暁には平らかな世が訪れる。それは喜ばしいこと。しかし、天下泰平を築くための道が血に汚れている。そんな皮肉な情景が秀満の眼前には広がっていた。

 焼け失せた堂を横目に見ると寺を形作っていた柱や梁は黒く焦げ落ち、その合間から赤黒い枯れ木の枝のようなものが何本も伸びている。それはどうやら下敷きになった小姓達の変色した手足のようだった。その中の一つには先刻、塀の外から目にした蘭丸の骸もあるのだろうと秀満は僅かに感慨を抱く。

 十兵衛様への恥辱、我が手で晴らしたかったものだ。

 血に染まぬ世を願いながらも、そうして血を欲してしまう武士といういびつな自らの性根を秀満は嗤う。とはいえ秀満が求めるのはどれほど恨みがあろうと高々たかだか、近習に過ぎない蘭丸の首などではない。秀満が望むものはただ一つ。織田の頭目、信長の首だけだった。如何いかに織田家に連なる者どもの骸の山を築こうと信長の首がなければ織田は死なない。死んだとは言えない。光秀の志である平らかな世、天下泰平を成し遂げるためには、なんとしてでも信長の死、その確かな証左が必要だった。

 くび実検じっけんのため、明智勢が討ち取った首は寺の一角に集められている。その一角に赴くと秀満は櫛比しっぴする首を端から順に一つ一つくま無く検めていく。並んだ首。その列の半ばを過ぎた辺りから秀満は憮然ぶぜんたる情を抱いていた。

 ――無い。

 信長の首がどこにも見当たらない。背にあわつような不快感を覚えて秀満は焼尽しょうじんした堂宇の跡を振り返った。僅かに焼け残った御堂。そのがらからは未だくすぶる白い煙が幾筋も細く立ち上っている。

「……どこだ」

 空に昇る煙の呼んだ灰色の厚い雲が明智に代わり寺を囲い込むように垂れ込めている。

 秀満は心ともなく焼炭やきずみと化した堂に足を踏み入れた。小具足こぐそくを通して身体に伝わる残火ざんかの熱が焦燥をさらに駆り立てていく。一歩踏み込むごとに崩れる堂を進みながら秀満は信長の首を探し求める。

「……首はどこだ。……信長の首は」

 常ならぬ秀満の異変を止めたのは本能寺の包囲において、総大将である光秀とともに第三陣を率いた利三としみつだった。

如何いかがいたした、左馬之助さまのすけ殿。貴方らしくもない」

 言って、利三は重なった柱をどけようとしていた秀満の腕を取った。その時、秀満は初めて自身の手が灰にまみれ、僅かに火膨ひぶくれを起こしているのに気がついた。

「――済まぬ。だが、探さねば……」

「信長の首、ですな?」

 利三は委細いさい承知しているとでも言うようだった。実際家じっさいかの利三が徒話あだばなしに花を咲かせるはずはないと考え、秀満はひとまず利三の話に耳を傾ける。

 小さな咳払いを挟んで利三は言う。

「我が配下の作兵衛さくべえの申すところによりますと、……信長に深手を負わせたようなのです」

 その知らせにき立つ心を抑えて秀満は問う。

「討ち取ったのか――?」

 ただした疑義にしかし、利三はくちしそうに目を伏せた。

「いえ、それがもり蘭丸らんまるに阻まれ、取り逃がしたと……」

「では急ぎ、追っ手を差し向けねば――」

 聞くや、兵を動かすため時を惜しんで陣に戻ろうとした秀満を利三が止める。

「お待ち下され、左馬之助殿」

何故なにゆえじゃ。信長に遁走とんそうを許せば全てが水の泡と消える。貴奴きやつを討ち果たさねばどきを上げることも出来ぬのだぞ」

「その通りでございますな。ですが、信長が逃れたは寺の外ではございませぬ」

 秀満には話の要諦ようていが掴めなかった。信長は外へと逃れたのではない。即ち、寺の包囲は万全であったらしい。しかし、生きた信長はおろか骸も首も未だ見つからないとはどうしたわけか。

 時局は秀満のあずかり知らぬところへとその流れを変えているようだった。

「……信長は何処いずこに逃げたというのだ?」

 尋ねた秀満から視線を外して利三は黒い炭ばかりとなった寺の跡を見渡す。

「深手を負った信長は寺に火を放ち、自らは堂の奥に籠もったのだとか。つまり――信長が消え失せたのは灰の中にござりまする」

 利三の返答に秀満も灰がちとなった堂の残骸に目を落とす。そこにも焼けてちぢれた枯れ木の如く細い指が覗いていた。堂のそこここにはそうして幾人もの骸が埋まっている。討ち取られた首に信長のものがないのであれば、堂の下敷きになっていると考えるのは当然のこと。秀満が堂の下を探って火膨れまで起こしたのは自棄ではない。考えあってのことであった。

「では、その堂の奥とやらを探せば良かろう」

 言わずもがなを口にした秀満にも利三は頷くことはしなかった。

「既に手の者に検めさせましたが、火元に近かったためか堂は燃え尽き、残った炭の塊が人であったかそうでないかすら判じかねる有り様。これぞ正に信長の首と呼べるものは……見つかりそうにもありませぬ」

 利三の苦衷くちゅうをようやく秀満も察した。我らは蹉跌さてつをきたしたのやもしれぬ、とままならない思いに秀満は眉を曇らせる。

 信長の骸が残らず灰燼かいじんに帰したのならば、その首を梟首きょうしゅに処することは出来ない。首をさらすことが出来ねば、信長の死の証を立てることも叶わない。それは織田に代わって天下の実権を明智が担うためには大きな障害となり得る事柄であった。

 秀満は織田に仕える見知った諸将の顔を思い浮かべる。その内のどれだけが確かな首もなしに信長の死を信じるだろうか。よしんば信じたとしてどれだけが明智の軍門にくだるであろうか。混乱に乗じて、織田と対立している上杉や毛利が野心に駆られて兵を挙げる恐れもある。また、あだちと称する報復。羽柴や徳川の動きにも明智一党は備える必要があった。

 思案に暮れる秀満の耳にどよめく雷鳴のような喚声かんせいが伝わってくる。勝ち鬨は整然と並べられた首の傍から響くらしい。見れば兵どもが作る輪の中心には光秀の姿があった。その頭上に流れる雲の色が秀満には重く映る。

「首はなくとも、我らは確かにあの織田信長を討ったのです」

 利三の言葉に秀満は首肯しゅこうする。けれども、秀満の胸の内は悄然しょうぜんとしていた。利三もまた肩を落とすように見える。明智の命運を握る首。その首級しるしを得ぬまま勝利にく明智の総軍を秀満はがゆい思いで眺める。

「覆水は何処いずこへと流れていくのだろうか……」

 秀満の呟きに返る言葉はない。覆水盆に返らず。こぼれた水は決して戻らない。盆の上はただ空しくなるばかりであった。


 ――天正てんしょう十年六月二日。明智あけち惟任これとう日向守ひゅうがのかみ光秀みつひでにわか謀叛むほんす。織田おだ前右府さきのうふ信長のぶなが、本能寺にて討死うちじに。その骸は炎の中に消え失せ、死後の恥辱を免れた。その寵童ちょうどうもり蘭丸らんまる安田やすだ国継くにつぐに討ち取られ、十八年の短い生をつゆと散らしたと伝わる。

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