汝の欲するところを行え
別心を抱いて寺を囲んだ明智の兵をただ声と眼光のみで黙らせたその姿。
これが、これこそが我が殿。
同時に蘭丸は努めて冷静に周囲の状況を探りにかかる。
信長の一喝に
蘭丸の思案を破るように塀の先から敵将の号令が届く。その響きによって生じた焦りと苛立ちが蘭丸の花のかんばせを曇らせた。風を裂く矢音に
「上様、
「うむ」
鬼の形相で信長が頷き、油断なく軒の下から障子の内へと身を翻す。
堂の外縁に次々と矢が針山を築き、飛弾が軒や濡れ縁を砕いていく様を蘭丸は
門は既に破られているらしい。
戦ではなく宴のために訪れた寺内に備えなどあってないようなもの。警護を命じられた
ここにも時を置かず明智の兵が殺到するだろう。
しかし、室には弓や鉄砲は通らない。ここから先は槍と刀の本領。つまりは血で血を洗う狂乱の生き地獄。
どこから忍んだか簡素な
「大将首だ。討ち取れ!」
その大それた振る舞いを見逃す蘭丸ではなかった。
「
目にも留まらぬ速さで蘭丸は刀を抜き放ち、身の程を弁えぬ言を紡いだ弱卒の喉を貫いた。一刀の下に切り伏せられた敵兵の血飛沫が舞い、蘭丸の白小袖を赤く染めてゆく。
「貴様らごときに上様の首は渡さぬ」
言うやいなや蘭丸は跳んだ。
「見事じゃ、蘭丸」
蘭丸が振り向くと、信長もまたこの間に二人ばかりを亡き者にし、憂さを晴らすようにその頭蓋を踏み砕いていた。
「十兵衛め、よもやこのような
次々と現れる刺客を相手取りながら蘭丸は信長とともに堂の奥へ奥へと身を忍ばせる。
軍勢の放つ怒号は唸りを上げ、刻一刻と信長を囲む死線が押し迫ってくるのを蘭丸は肌で感じていた。味方が幾人倒れたか、それを知る術はない。辺りに立ちこめた
それはひとえに信長を
いつになく身体が動く。今なら百や二百、千の敵であろうと恐るるに足らずと蘭丸は八面六臂の働きを見せた。歴戦の信長でさえ、その働きに足を止めて目を見張る。信長の顔に浮かんだ満足気な表情が蘭丸の力を
その一瞬の油断。
「上様!」
よろめいた信長に蘭丸は駆け寄り、その身体をひしと抱えて
「上様? これは
その男の
「……
「いかにも。お命
立ち上がる信長に振り払われ、蘭丸は尻餅をつく。見上げた信長の面相からは人外の魔性が漂っていた。
「この首は渡さぬ。十兵衛にもそう伝えよ」
信長の言葉にたじろいだのも束の間、国継は楯突くように言い返す。
「織田の頭領ともあろう者が命を惜しむか。潔くご覚悟を決められよ」
「
「貴様!」
怒髪天を衝き、
「火をかけよ」
それを受けて直ちに小姓衆は取り掛かる。蘭丸は小姓衆には加わらず視線を国継に定めたままでいた。
「な、なにを? 気でも狂ったか!?」
蘭丸は国継の絶叫にも身じろぎ一つ起こさなかった。その蘭丸の背に信長の命が下る。
「任せる」
蘭丸にはその一言で十分であった。
「はっ」
命尽きるまで
決意を固めて蘭丸は恐ろしく静かに刀を構えた。その背から再び、天啓の如き主君の声が降る。
「この先、
蘭丸がその意味を悟るのに時は要らなかった。噛み締めた口中に血の味が広がる。
「蘭丸、そちもじゃ。よいな」
「――はっ」
応じた蘭丸を残し、信長の足音が遠ざかっていく。その信長に向かって国継が叫喚した。
「逃げるか信長! 織田家の
「――
決して大きな声ではなかった。むしろ、自らに言い聞かせているようなそんな
振り向きたい衝動を目前の敵への殺意で蘭丸はなんとか押し殺す。信長がどのような形相であったのか。何を思っていたのか。国継に向かい合っていた蘭丸には知りようもない。
古木に火の爆ぜる音がどこからともなく伝わってくる。また、鼻をつく
ここに至り、蘭丸は凪の如く静かな心で結末を受け入れた。
信長様はここで死ぬのだ。
残された蘭丸の耳に堂の
上様は先に行かれた。
その
何者もあの境を越えること能わず。否、越えさせてはならぬ。それが上様から下された最後の命だ。
蘭丸は不退転の決意を新たにする。そこへ奥に籠もった信長を嘲けり侮るように国継の豪気な笑いが響いた。
「あれで逃げ果せたつもりとは笑い種だ。見事討ち取り都中の笑いものにしてくれよう」
そんな信長への
「先程からぺらぺらと、よく舌の回る御仁だ。音に聞く明智三羽烏とは烏のように、よお鳴くゆえに
この時、国継の目が初めて自分に向けられたと蘭丸は感じた。
蘭丸はその意識の全てを国継に注いでいたためにその目にこれまで自分が映っていなかったことを知っている。国継にとって蘭丸は大将首を得る手柄の功名を置いて眼中に入れるほどの価値も脅威も持たぬ存在らしい。蘭丸にとってそれは屈辱に違いなかったが、力量差に開きがあることは国継の身のこなしから蘭丸も確かに推し量っていた。だからこその挑発。国継の意識を信長から引き離すためのなけなしの策であった。その蘭丸の挑発に国継は挑発でもって返してくる。
「随分な言われようじゃ。
「逆賊の分際で我が名を口にするか!」
「おお怖い。流石は第六天魔王の子飼い。
「
「しからば!」
蘭丸と国継の間に火花が散る。
突き出された槍を蘭丸は細腕に握った刀でいなす。一合の内に蘭丸は相手の力量を承知した。
やはり、手強い。
すかさず引かれた槍から凄まじい刺突が二の槍、三の槍と繰り出される。そのいずれをも辛うじて受け止めながら蘭丸は反撃の機を窺う。
打ち込みを受けるたびに腕が軋む。
尋常の手合いで敵う相手ではない。
蘭丸の本能が逃げろと叫ぶ。しかし、蘭丸には逃げることも、死ぬことすら許されない。他でもない蘭丸自身がそれを許さない。それを許すことが一体何を意味するのか蘭丸は知っている。それは即ち、敵の
この男を相手にしては万に一つも勝ちの目はない。
それでも、だとしても蘭丸は
打ち合うこと数十合。
国継の猛攻を蘭丸は紙一重で凌いでいた。だが、その手にある刀には
「死を顧みず主君に尽くすとは見上げた忠義者よ。その上、花も
いつしか
「誰も美しいままでは死ねぬ。せめてもの情けじゃ、この安田作兵衛国継が
「……その汚らわしい口で語られとうない」
蘭丸は息も絶え絶えに反駁する。
「であれば生き残ることじゃ。まだ死にたくはなかろう」
蘭丸だけであれば見逃してもよいというようなそんな口振りで国継は言った。それはありえない提案だった。信長を差し出して自らはおめおめと生き恥を
「死など恐れるものか。恐れるとすれば上様の為にこの命を使えぬこと。それだけよ」
自らの言葉に蘭丸は奮い立つ。僅かに残った満身の力を振り絞り、国継を迎え撃たんと刀を構えた。刺し違えてでもここを通しはしないと決然と立つ。すると不意に国継の槍の穂先があらぬ方向へと逸れた。蘭丸には国継の思惑が読めない。
蘭丸は怪訝に思うが、その逸れた刃から目を離しはしない。その国継の槍の穂先。鈍い光を放つその刃に映った人影を、蘭丸は見た。
髪も息も乱れ、全身は血に
蘭丸は国継の刃に映った自らの執念を見ていた。
「――恐ろしや。
呟いた国継が二の足を踏むように躊躇いを見せる。
この機を手放してはならない。
蘭丸は一層、
その視界の端に火の粉が舞った。炎の熱が頬を撫でる。いつしか蘭丸は国継とともに火に取り巻かれていた。火の手はもうそこまで迫っている。その火の揺らめきに国継の意識が削がれた。僅かな隙。その刹那を蘭丸は見抜いた。
跳ぶようにして一息に国継との間合いを詰める。そして、渾身の一太刀が一閃した。
蘭丸の心中を喜色が満たす。切っ先は国継の
蘭丸の一撃は国継を捉えた。そこに間違いはない。けれども必殺の傷を与えるには至らなかった。国継の恐怖の色を読み違えたのだと蘭丸は一瞬の内に悟る。蘭丸の見通しよりも国継の取った間合いは広く、
渾身の一振りを蘭丸は仕損じた。刀を振り抜いた蘭丸には第二撃に回す力はもう残っていない。そこへ
蘭丸の身体は
返り血に染まった白小袖が初めて内側より溢れる血を吸ってゆく。身を苛む苦悶に顔を歪めながら、それでも蘭丸は膝を屈しはしなかった。
「なぜ倒れぬ。なぜ死なぬ」
国継の声は怯えているようだった。
身を震わせながら国継が蘭丸を見ている。蘭丸もまた国継だけを見ていた。その蘭丸の視界が突然、炎で埋まる。崩れて焼け落ちた小梁であった。蘭丸と国継の間に落ちた小梁が堂を揺らす。その衝撃に耐えきれず身体ごとのめるようにして蘭丸は倒れた。炎の向こうから国継の声がする。
「この首、持ち帰れば祟られかねぬ」
火を巻いた梁はさらに火勢を増して燃え上がる。その炎の壁から足を引きずるようにして去って行く国継の足音を蘭丸は聞いた。足に傷を負ったため深追いは避けるらしい。もとより国継にとって蘭丸は捨て首であるようだった。それでも信長に迫る敵を
務めは果たした、と蘭丸は静かに目を閉じる。
床に這いつくばりながら、しかし、蘭丸は絶息したわけではなかった。だが
「“思えばこの世は常の
信長の好んだ
「“
「……我が
蘭丸が襖を開くと、腹を召した信長が倒れていた。死の
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