天下人の横顔

 急を告げるべく蘭丸らんまるは寝所近くに控えていた小姓こしょう衆を押しのけた。よろけて倒れる者もあったが蘭丸は一顧いっこだにもしない。そして、躊躇うことなく蘭丸は主君の寝所に足を踏み入れた。背後からは無礼だ、言語道断だと声が挙がる。その声をまたしても蘭丸は黙殺する。この程度のことで上様の勘気かんきを被ることなどない、と蘭丸は確信していた。

「上様、失礼つかまつりまする」

 蘭丸がふすまを開くと部屋の主はしとねの中で片膝を立て、閉じられた障子戸の向こうに意識を向けているようだった。その障子戸からは青白いほのかな払暁ふつぎょうの光が透けて見える。けれど、外の様子は窺うべくもない。

何事なにごとじゃ」

 ゆらりと立ち上がった信長のぶながが蘭丸に問う。跪拝きはいし伏せた頭に注がれる主君の視線を感じながら蘭丸は言上ごんじょうする。

「恐れ多くも謀叛むほんにござりまする」

「ほう。また、誰ぞそむきおったか。――して、その狼藉者ろうぜきもの何奴なにやつじゃ」

明智あけち惟任これとう日向守ひゅうがのかみ様にござりまする」

「……十兵衛じゅうべえか」

 その呟きに蘭丸は思いがけず虚を突かれた。

 その声音こわねには怒気も、焦燥も、諦念も込められているようには思えなかった。その響きは明らかに謀叛を起こした裏切り者へ向けられるものではない。少なくとも蘭丸の耳にはそう聞こえた。そのため蘭丸は咄嗟とっさに許しもなくおもてを上げた。障子の先を見通そうとするかのように目を細めた主君の横顔に、蘭丸は信じられぬものを見た。

「――是非もなし」

 信長の声で蘭丸は我に返る。蘭丸の非礼を見咎めもせず、信長はつかつかと障子戸へと歩み寄っていく。そして、音を立てて戸を開くと、そのままの勢いでその身をえんおどらせた。

「上様、危のうござる」

「構わぬ」

 蘭丸の制止に信長は耳を貸さず、塀の向こうを鷹揚に眺めている。その視線の先を追うと東雲しののめの空に水色桔梗が幽鬼の如く浮かび上がって見えた。その距離は既に目と鼻の先となっている。蘭丸は拳を握りしめた。今や敵となった明智十兵衛光秀に向けるべき感情を蘭丸はまだ見つけられずにいる。

「十兵衛め」

 笑うように呟いた信長が蘭丸に向き直る。その視線を蘭丸は正面から受け止めた。

「蘭丸よ。そちは十兵衛を見知っておる。そのはずであったな?」

 その言葉は先日の饗応きょうおうの席での一件を指しているようだった。あの場での光秀への打擲ちょうちゃくは仕方のないものと蘭丸は考えている。信長を止められる者など明智一党はおろか織田家中にすら一人としていない。それゆえにあの場を収めるには信長に光秀を打たせてはならなかった。ならば信長に代わり光秀を叱責するは蘭丸の役目。多少の乱暴についても明智殿は承知していたはず、そう考えた上で蘭丸は短く答える。

「はっ、昵懇じっこんとはいかぬまでも」

 ふん、と信長は蘭丸の返答につまらなさそうに鼻を鳴らす。

「であるか。では、かかる仕儀をどう見る」

 蘭丸はその問いに窮する。答えを持たぬからではない。その答えが明らかだからこそ蘭丸は答えることが出来なかった。

 真にこの本能寺を囲うが明智十兵衛光秀であるなら、万に一つも逃げ場などない。かの御仁が誰あろう他でもない我らが主君、織田おだ前右府さきのうふ信長のぶながに逆心の弓引くにあたって、抜け道を残すような忽略こつりゃくな策でもって臨むはずがない。蘭丸の知る光秀は決してそのような失策を演じることはない。

 短慮を起こさず、軽挙を慎み、万全を期す。それが蘭丸の知る明智十兵衛光秀という将の在り方。つまりは趨勢すうせいの帰するところは既に定まっている。しかし、だからといって自らの主君に「死に場所は定まりましてござりまする」などと誰が告げられようか。口が裂けても言えるはずがない。

 蘭丸の逡巡を見て取ったように信長はしわぶきにも似た微笑を漏らした。

「我が近習はまこと英哲よ」

「……上様」

「隠さずともよい。十兵衛めに手抜かりはない。あやつに限ってな。儂が誰より知っておるとも。――儂は此処ここで死ぬ」

 当世において最も戦に長けた織田家の首魁しゅかいが導き出した結論。それを聞いた蘭丸に否やはなかった。生き死には武士のならい。蘭丸もうに覚悟は決まっている。

 恐れはない。あとは武士に生まれた者として恥じぬ死に様を蘭丸が見つけられるかどうか。その一事のみ。

「恐れながら、このもり乱法師らんぽうし成利なりとし。何があろうと上様を御守りいたす所存」

「であるか」

「はっ、命に代えても」

 それは蘭丸の偽るところのない本心であった。

「……大儀である」

 信長の返したその言葉はたちまちに蘭丸の身の内を炎で焦がした。けれど、それは決意や覚悟の炎ではなかった。主君からの誉れを得た喜びの炎でもない。それは紛うことなき嫉妬の炎であった。その暗い感情の向く先を蘭丸はまだ知らない。

 尾張のうつけと呼ばれ、そのさがは残虐無比、酷薄こくはくの仏敵であると恐れられた主君。蘭丸はその自らの主君信長に崇拝にも近い感情を抱いている。だからこそ、蘭丸は信奉する主君からの掛け値ない信頼を欲した。進退きわまるこの場において蘭丸は一蓮托生の情をこそ望んだ。主君に殉じてともに往生を遂げる者としてのこの上ない誉れを。しかし、信長が蘭丸に向けたものは蘭丸の望むものではなかった。

 蘭丸に向けられたのは憐憫。信長の瞳にも言の葉にもありありと宿る憐れみを蘭丸は感じていた。

 蘭丸は自らの不甲斐なさに歯噛みする。

 未熟ゆえに及ばぬのか。若さゆえに不憫と惜しまれるのか。

 蝶よ花よと鍾愛しょうあいを与えられ、蘭丸は一廉ひとかどの家臣として仕えている気になっていた。その慢心が粉々に打ち砕かれる。信長から賜わった言葉は蘭丸が求めたものとは余りにもかけ離れていた。その言葉に他意がないことは蘭丸も承知している。けれど、それゆえに蘭丸の心は千々ちぢに乱れた。

 蘭丸の動揺をよそに信長は小姓衆に槍を持てと下知を送った。すかさず運ばれた槍へ信長が手を伸ばす。

 その時、明けやらぬ暁の静寂を種子島の轟音が引き裂いた。

 音とともに形を持った死が飛来する。

 蘭丸と向き合う信長は寺内を囲む塀に背を向ける形で身をさらしていた。その背後には塀の他に遮るものは何もない。それは敵方からすれば言うまでもなく恰好の的。

 織田家中にあって銃の威力を知らぬ者などいない。長篠にて、かの武田軍をほふった銃の威力は蘭丸も当然聞き及んでいる。にも関わらず主君の背を守る責務を忘れて蘭丸は内心にふけっていた。その不覚に蘭丸は凍りつく。

 上様の身に大事あらば死んでも死にきれぬ。

 蘭丸は泡を食って叫んだ。

「上様っ!」

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